☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

『コミューン研究』 No.012

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■■☆コミューン研究☆ No.012

※ 久々の『コミューン研究』ブログ投稿です。

 特に今年に入ってからの除染現場異動に伴う重労働化と多事件・多忙の中で、どうしても作業を進めることができませんでした。

 その間しかし、俺の背中を押してくれる人々との出会いもあり、そして……もう30年もの間共闘・指導してくれている……現在は「福岡・藁の会」代表として闘っている山下直樹氏とじっくり考え・思いを交換・共有する機会に恵まれたこともあって、とにかくできるだけ早い時期に「パンフレットほどであろうとも映画問題だけは整理して明らかにしなければ」と意見一致し、一定の共同作業を進めることができた訳です。

 そんな状況だったからか、偶然も重なって、福岡・藁の会の通信『無かつ』第33号(2015・6・20)には、山下氏も俺も、それぞれの「映画問題についての怒りの一端を爆発させた」ような一文を記すことになった訳でした。

 それで俺としては「それらの文章をぜひ『コミューン研究』にて公表しておきたい」と思いたち、山下氏の了解も得て、今回ここに転載して公表することにしました。

                    (2015・6・23)

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労働・福祉相談窓口  福岡・藁の会   代表 山下直樹

 職場転職の関係で休業になった友人が「藁の会」休憩に帰ってきた。日頃より電話やメールで

やりとりはしているのだが、お互いにこの機会に約30年間に及ぶ歴史を何とか、まとめる作業に取り掛かった。きっかけの一つは映画「山谷 やられたらやりかえせ」が筑豊からの「問題提起」に対して一方では、なし崩し的に上映を続け。一方では「問題提起」部分をカットして居直り上映するという暴挙を平然と繰り返していることをはっきり批判しなければならない。「筑豊シーン「取り直し」を前提にその間は上映「凍結」を主張していた」が其の討議すら無視した状況なのである。

また当時、俺たちと「筑豊ヤマの会」の主張を支持していたようなポーズをとっていた者たちも一方では先ほど書いたカット上映、残りの部分は未だに筑豊からの「問題提起」に対して向き合うこともなく。態度表明を迫ると「今、議論の段階又は知らなかった」と言葉で、はぐらかし結論の先伸ばしにする始末である。俺は階段を外されたと認識している。(事実を消したいのだろう)

生活保護受給」シーンのフェンス越しの隠撮りと、その後、通称「日向墓地」が捏造に近いと金光烈さんの調査によって明らかになっているが映画で案内していた芝さんは最後まで指摘されたことに真摯に向き合わず亡くなった。しかし映画は上映されているこれは本当に黙っていられないことです。長崎・高島で1986年12月に上映運動し上映した一人として怒りが収まらない。

 高島で上映した時に出た炭坑労働者の奥さんと当時、病気で生活保護受給していた元炭坑労働者の上映後の感想を書いておきます。

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◆炭坑労働者の奥さん・・・

「この映画はよかった、なぜ高島閉山前にしなかったのか?映画の中で飲み屋で労働者が出身が三菱方城というところ私も旦那も福岡・方城出身だから山谷が近く感じた。

おかしいなと思ったことは、閉山になって仕事が決まらないときは生活保護に頼るのは当然だと思っているが、こそこそしなければいけないような映画になっていたのが嫌だった。」

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◆元炭坑労働者(生活保護受給)・・・

「九州の炭砿を渡り歩いた。高島で体調を崩し生活保護を取っているが映画の中の「受給シーン」は惨めな気持ちになった。好きで生活保護を取っているのではない

堂々と撮してもらいたい。映画で写っている人もそう思っているはずだ。」

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俺はこのことを真剣に受け止め「筑豊ヤマの会」に報告し現在に至っている。

 もう一つは日雇労働運動についてである。1995年以前の労組は日雇・野宿労働者と向き合う姿勢より支援の意向に重点を置いた活動にあったと思う

 しかしそれは先に記述した映画上映運動の過程で労組を結成したので仕方のない部分もあると割り切っていたが、その映画問題で「筑豊からの告発」を正面から受け止めず筑豊の痛みを共有する事もできず福岡の日雇労組としての決定もせず会議で討論さえしなかった。

 その上、日雇労働者の相談「労災事故」闘争にも参加せず妨害的な行動をした。そのようなことがあったので俺は単独実力決起した。(当時の執行部がはっきりと自己批判すればそのまま執行部にまかせるつもりでいた。)

 しかし脱落した執行部とその取り巻き支援はこともあろうに「党派と組んで労組を乗っ取った」とふれまわり目前に迫っていた「日雇団結夏祭り」つぶしを企てた。

 俺は当時、高島で労組活動「じん肺」労災闘争と生活保護相談、設立していた会「自然大学」で高島での子どもたちの受け入れ「強制連行」の調査と忙しく福岡の日雇運動・労組の支援強化は考えていたが組織を乗っ取るなど微塵も考えていなかった。

 その後、日雇・野宿労働者の結集と団結が深まり順調に日雇労働運動が拡大していった。日雇労働組合の全国組織も「映画問題」を真剣に討議し解決を図る約束も出て安心していた。しかしそれも全く裏切られ現在に至っている。

 また、福岡の日雇労組は高島で活動する俺には何も連絡せず東京発の名称変更を受け入れ独自路線での日雇運動をしているようだった。(この東京発が後に第二組合になっていく)

 労働運動の主体は労働者であると信念を持っている。俺はそのことを忘れない運動であれば理解してやぶさかではない。そのあいだも福岡で色々なことがありましたが拠点を福岡に移してみると労働組合が労働者を選別することを平気で行い闘いとった成果もビラで報告しない。

イベント的に「祭り」「春闘」を開催、業者周り(賃上げ要求)を提案すると拒否

そんなことが度重なり、とどのつまりは雨が降った「祭り」(最後の参加)で放浪癖のある労働者(アルコール依存)を見ていて欲しいとつげ友人宅へ少しの時間着替えに行って帰ってくると会場は真っ暗言い訳は発電機の燃料買い忘れ、頼んでいた労働者はどこいったかわからない

会場防衛は何のためにあるのか

労働者の防衛ではなく自分たち党派と党派支援の防衛とはっきりわかり俺は嫌になった。

 俺は欠点の多い人間であり感情的な人間であるが、自分の保身のためとか損得とか権威を高めるために批判したり実力行使したりは決してしないしした覚えもない。底辺でうごめきあう労働者の声が聞こえて来たとき感情が爆発するのだ。

 「労組を乗っ取った」と言った人、「労組から逃げた」と言った人、その言葉を「真に受けた人たち」、言ったことは必ず覚えておいてくださいよ。近日中にまとめあげて配布しますから期待してくださいね。

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炭砿などの「産業文化遺産」申請に反対で共鳴した人が先月号の「無かつ」を同封しささやかな高島・端島炭砿の資料を送ったが、その後まったく連絡がなくなった。どうしてかなぁー?

本当に「強制連行」され酷使され殺された。朝鮮・韓国・中国人等などの痛みを共有出来ない

自分の闘いとして理解していないのだろうなぁー。そう考えるしかないその惨めさ、あぁ~~

怒りの共有、闘いの共有ができないのであったら、したり顔で考えているような態度をするなよ。

「強制連行」「強制労働」「差別」はもっともっと根の深いものです。

俺もまだまだ学習・調査のスタートラインに立ったばかりと思いますし自覚していますしかし怒りの

共有はあると確信しています。あります。

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 友人の帰福で秋田の「花岡事件」を書いた。野添 憲治さんと会って話をして勇気を貰ったことを聞くうちに、筑豊の林 えいだいさんと無性に会いたくなり今回もいきなり訪ねた

 病弱ながら快く迎えてくれて話を聞きこちらも勇気をもらい自分の不甲斐なさを痛感した。

 万年筆をセロテープで固定して原稿を書いている。その凄さに圧倒された。話の中で朝鮮人問題と炭砿の問題を俺に学習させてくれた横川輝雄さんのことを、えいだいさんが心配していることが気になった。俺はこの何年間か疎遠になっていたがいつも自分の中では長崎の故 岡正治さんと高寶康稔さん、筑豊の横川輝雄さんが俺を指導してくれた尊敬する先輩と思っていたのだ。

 えいだいさん宅から帰って一週間位悩んでいたがとにかく一度会いに行こうと決断し訪問た。

 会って色々なことを体調が悪い中熱の入った言葉で今回も勉強させてもらった、

 本当に会ってよかった

 報告したいことはたくさんあるがこれだけは書いておきたい。

 横川さんは、「山谷やられたらやりかえせ」の「筑豊からの告発」問題はすぐに解決できると思っていたそうだ。(撮り直しの方向その間の上映凍結で)

やっぱり「映画問題」は決着をつけて安心できる報告を横川さんにしたいと思っている。

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流しの労働者(フクシマ流れ星)報告

■「無かつ」読者の皆さんに6月の報告をします。と書きたいところですが、──ブログ読者の方は気付かれてるでしょうが──現在の私はそれまでの除染現場と下請け会社を離れ、次の現場と会社に月末入場・入社というその間を、要するに失業状態ですごしており、今回はフクシマ現地報告としては、次の一点のみの報告として、全般お休みさせてもらおうと思います。

除染危険手当はこそこそと削られた!】

 その一点とは「今年度から環境省の出す(通称)除染危険手当が1万円から6600円に下げられた」ということです。

①約三年前の除染本格開始の時期にはほぼすべての業者が、この「危険手当」の存在すら隠して着服していました。のちにゼネコンとの接待・癒着事件が発覚した福島県の労働局と労働行政は見て見ぬりを決め込んでいました。

②次の年にたまたま新聞などで着服が問題化すると、今度はすべての業者が「手当1万円は払うがその分日当を下げる」手口で「事実上の着服状態」という帳尻あわせを編み出しました。

③そして今度は──財政破綻のツケを労働者に押し付ける意図で──まさにコッソリと危険手当を削り落とし、業者たちが(労働者の足元を見て)日当分を膨らませて帳尻合わせする、という手口に出ています。

 もともと6万円~7万円ほどの「人件費」を(明らかに最低賃金以下の)日当分2千円~6千円ほどまでにごっそりとハネてきたゼネコン・業者どもにとって『10,000-6,600=3,400円』の帳尻あわせなど朝飯前でしょう。

 またそんなことだから、いよいよ総「非正規」化へ、総貧困化へ、労働者全体が追い込まれていくに従って「資本の自由自在、労働者の足元を見た賃金」はいくらでも下げられかねない、

というフクシマ労働者の状況です。

 推移の詳細は、今後の(ブログも含めた)報告で行うこととします。

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■80年代の教訓! 自己陶酔の「総括」は許さない!

  ──「明大生協」「映画『山谷─やられたらやり返せ』」など等──

①いわゆる「映画問題」=『山谷─やられたらやり返せ』製作・上映と政治利用について

【(怒) 労働者不在で「総括をカタる」者たち】

 この号の『無かつ』で会の代表氏が問題の概略を記すと聞いているので私から詳しくは書かないが、80年代に突きつけられた『筑豊からの告発』を中心とするいわゆる「映画問題は、──特にこの過程に関わったすべての者においては──それへの回答をすりぬけては労働者解放の何も書けないほど重大な問いを含んできた、と確信しています。

 私もその(真の意味での)自己批判の課題を負う一人であるし、だからフクシマにて生きて闘うことと一つのこととしてこの課題を背負ってきました。

 少なくとも当時は「ただ上映を強行したい者たち」と「『告発』に応えてそれを批判する(と称した)者たち」がいました。

 前者(上映実・キリスト教市民運動に連なる者たち)は今は厚顔無恥にも『告発』など無かったかの振る舞いで映画上映をもてあそび続けています。

 後者の一部(木元グループ)はより卑劣な態度で前者の者たちと手打ちして山谷争議団~日雇全協~福岡日雇い労働運動の破壊に明け暮れています。

 後者の他の「筑豊も山谷も…福岡日雇い労働運動さえも…傍観・無視していた者たち」は

その後もなおずっと傍観・無視を続けていながら自分たちの「偏狭な本工主義と政治主義」を

「口先の自己批判(という尊大な居直り)」でごまかすことに汲々としており、その帰結として、いかなる労働者・人民にも無縁な空間で観念化を深める一方です。

②80~90年代の国鉄寄せ場解体攻撃の時代に露呈した「労働者不在の思想」たち

【無視できない「96-98生協問題自己批判」なるもの】

 近く必ずこの「映画問題」の真実を明らかにして、上記それぞれの労働者・被差別大衆・人民への敵対に断を下す決意ですが、それに先立って今、なんとしても一言こうした総括課題について書かねばならないと考えたのは、次のようなものを目にしたからでした。

 今月に入って突然「学生…」の名で「96年明大生協…解雇…98年暴力行使…の自己批判」なる、政治臭ばかりで労働者の姿の見えない怪しげな文書が公開されていました。上記の本工主義の者たちが作成したものを下部の学生に公表させたものでしょう。

 20年近くも、しかも木元グループの「分裂」からさえ15年も放置して振り返ることもなかった事態に、なぜ突然言及したのか。

 関連する争議の過程でも「当該パート労働者や被解雇200名の生協労働者に一人でも合流しよう」という提起にも耳もかさなかった者たちが今、一体誰に向かって「自己批判」と言っているのか。

 そうしたことが隠されたままの「自己批判」なるものに怪しげな政治臭で眉をひそめたくなるのは当然のことです。

 かつて木元らが日雇い労働運動の分裂・破壊を企んだとき「差別だ。自己批判だ」と騒ぐことで、内に向けては組織統制・支配を狙い、外に向けては「より優位(?)に政治的手打ち」を狙った、そのヤクザな手口を思わせるゆえに、黙ってはいられないのです。

【全運動解体─総翼賛化攻撃への態度ぬきに「総括」を語れるだろうか】

 90年代の明大学生運動は(生協も含めて)確かに激しい壊滅弾圧にさらされていました。そのことは「あれこれの過ちの言い訳」としてではなく「いかに闘いなぜ敗北したか…の総括課題」として語らねばなりません。

 また「自分たちは正しかったが誰々が(この場合は木元が)暴走しました」のような「止められなかった暴走」論、そんな「他己批判」による自己正当化はすなわち「事実隠蔽と居直り」にほかならずヘドが出そうです。

 そんな屁理屈をなぜ今(?)…おそらくはそれまでの「政敵」に今度は「擦り寄る」事情が生起したのか…その詮索は今は黙ることにしましょう。

 しかし重要なのは、そうした明大学生運動壊滅攻撃の背景には国家権力による総評(型の)労働運動解体、三里塚闘争破壊、部落解放運動解体、全障連解体、日朝連帯運動解体など、特に国鉄国労解体、寄せ場・日雇い労働運動解体攻撃、大学改革攻撃などが激烈に進行しており、その攻撃とひとつのものとして(暴力革命をめざす)党派への壊滅弾圧が同時に進行していた事実。 そのための国家権力による武器として「全運動をゼニの奴隷にする」NPO法や(各種の)自立支援法や大学自治への市場原理の導入・教養部廃止などが功を奏してきた総翼賛運動化攻撃の経過。

 そうしたことによって…例えば寄せ場をめぐっては…「就労現場の闘い」ではなく「失業救済型の運動」へと闘争軸がぶれて分断や対立が強いられ、あるいはこれに便乗した木元らのような御用組合型の集団が養成されてきた、そうした分断・破壊攻撃の経過。

 さらに言えば、その果てに、(それでも行政のゼニにつながれなかった)全障連九州…や福岡日雇い労働運動およびそれに内在する党派の壊滅をもくろんだ組対法に連続する弾圧が生起してきたのです。

 こうした経過のほとんどすべてで自己保身と傍観をきめこんでは後付け・外付け的に「他己批判」で言い訳する者が、組対法弾圧を独善的な精神主義でのりきった結末として「全運動をその看板だけ利用する」まさにソビエト運動の反対物へと転倒している、ということでしょう。

 明大生協解雇問題などを自己批判するというのなら、なぜ同じ時期に(より長期重大な乱闘と分裂・破壊に直結した)映画問題すなわち山谷争議団破壊・日雇全協破壊に一言も言及しないのか? 

 そもそも二組(御用組合)としての従業員労組結成を、「労働者を引き裂いた」責任にかけても総括し闘う方針も見えないのはなぜか?

 「女性パート労働者の怒りと要求」?…しかしなぜ木元グループ分裂後も争議から排除し続けたのか? 

 「本工主義的限界を突破」?…お題目ではなくそのための方針こそ確立すべきではなかったのか?

 「労働組合すらあてにできないギリギリの決起」?…福岡の日雇い労働者による暴力手配師打倒の決起に「まちがったやり方」とツバを吐いた者、それを擁護した者は不問のままか?

 「当該パート労働者…の怒りをぬきにした代行主義」?…この「自己批判」もその代行主義(以下)ではないのか?

 こうした「労働者不在」を克服しようとしない限り「労働者階級自身の事業」などとんでもない欺瞞のままであり、内外への暴力的統制は必然となるはずです。

学生運動の生き生きとした主体性について】

 やや蛇足ですが私の自分史の反省にも関わるので言います。学生運動の総括(自己批判?)を問うならば主体的に(!)取り組むべきです。

 誰が読んでも政治組織の「上」から落下傘で落された「総括?」…そんなことだから「解雇を支持する」事態に陥ったし、むしろ体質はそのままだと告白してしまっている。

 かつて、特に東京・関東では中央直轄指導に学生活動家はとても抗えない上意下達の下にあった。それを知りつつ改革できなかった者の一人として私もあった。

 そうした状況下で、裏切りで粗暴化する木元の横暴で迫害されたのは若き学生たちであった。だから同志を死に至らしめるような事態が続発した。

 ただ自己保身のために木元に「横暴の自由」を与えて傍観していた「上」の者たちもまた、いまだに同じ体質であることを告白している。

 ……こんな「自己批判」はありえません。

 労働者は自らの解放にかけてこんな「党」を求めるわけがありません。

 「党が労働者の党であるか否か」は団結した労働者の闘いが決めるのであって「無批判な信仰」が決めるものではありません。

 総括!

 明大学生運動が70年代から「大学祭の補助金に群がる利権グループを育成する」官僚的御用的体質を継続してきた負の側面を誰か直視したのだろうか? 

 90年代九大学生運動が同様の利権集団を解体する学生自治運動を推進した歴史を「木元指導」も「木元以後」も消し去ろうとしてきたのはなぜか?

 93年徳島大学教養部廃止に迎合した日共民青が自治会を自主解体したのを無批判で追認したのはどういうことか?

 94年九大教養部自治会再建で大学改革と対決した歴史はもう消し去ったのか?

 三里塚現地決起した日雇い労働者を(まるで「余計なことをしゃべるな」とばかりに)排除し続けた現地学生指導の総括はどうか? 

 木元らの脱走ののちただちに「三池闘争」について、続いて「映画問題─『筑豊からの告発』」について集中課題として学習・討論した意義、全組織に共有した意義は、どのように葬られたのだろうか?

 「争議(を闘う)共闘」の結成と無責任な終焉という闘う労働者への背反行為を学生運動もいままた傍観して追認するのだろうか?

 「障害児」殺人事件の差別的予断による一斉連行捜査に対決していた小戸公園野宿労働者の闘いを切り捨てた(弾圧下の)獄外の労働運動「指導」は傍観・追認してよいことか?

 その「障害児」殺人の背景に推察される「地域からの『障害者』の差別排除」を不問にしたことも学生は傍観するのだろうか? 

 いまや「労農水『障』学共闘」の看板もまったくの偽りというほかなく、まして「行動委員会運動─ソビエト運動」などとっくに看板さえ捨てられています。

 こんなことで「資本制支配の経済的土台をゆるがす」などできるわけもなく、したがって「政治的頂点を撃つ」も夢想となってしまっています。

 それらを主体的に捉え返せない学生運動は労働者階級とはもはや無縁でしょう。

【労働者の怒りの原点に立って闘う先達たちに続きます】

 今回は手前勝手な論点ばかりこだわって、読者の皆さんにはわかりづらい話題が多かったことをお詫びします。

 現在私は…朝鮮人強制連行・強制労働・迫害・虐殺などの歴史の真実を消させない・忘却させない闘いに奮闘されている野添憲治氏や林えいだい氏や横川輝雄氏の闘いに感動的に触発されて…藁の会代表氏に協力させていただいて、まず少なくとも「映画問題─『筑豊からの告発』」

の事実を明らかにしていく作業に専念しています。

 そんな中で次のフクシマ除染労働を準備しています。

 またそんな中での端島(通称・軍艦島)の「産業遺産」攻撃(怒)。労働者派遣法改悪(怒)。安保法制化攻撃(怒)。そして「映画問題」当事者である政治組織による「他己批判」(怒)。

 誰でも頭を叩かれれば怒りは爆発します。

 歴史は、労働者解放の未来は、そのような労働者自身の爆発で必ず切り開かれていく、との

信念を表明して今号の報告とさせてください。 

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(今号、以上です)

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■■☆コミューン研究☆ No.011

 『行動委員会と党建設』

  (継続して新規に記述するもの …の、【その②】)

■★■続Ⅰ いわゆる『映画問題』

 「歴史の概観、および報告してきた主な文書の抜粋 …の②」■★■

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□■□(その3)04-05年の「寄せ場」越冬闘争を目前にして、某紙上に公表した『闘争基調』として提起した小論、……それに加えて、この闘いへの連帯を準備していた主に学生の「同志たち」のために『小論の趣旨説明』を付記したもの、…を掲載する。

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 ★★※※……

 この小論についても「前書き」を添えておきます。この小論は、私が夏と冬に必ず記すようになった「寄せ場─日雇い労働運動・基調提起」のひとつであったが、東京の学生の学習用に「提起公表した小論にさらに趣旨説明を加えた」ただ一度の試みの、その全文です。

・ で始まる文章が紙上で公表したもの。

※※※ ではじまる部分は、上段の文章の趣旨説明、という構成になっています。

 なぜ今回、あえて本ブログに掲載するのか。それはこの小論に忘れがたいケチがついたからです。

①この小論は「同志」たち全体に、誰にでも、と東京に託したものだったが、学生以外の誰にもその「私の託したこと」は伝えられず、したがって誰の眼にもふれさせられなかった。

②学生には「ぜひ読むように」と、預けていたはずだったが、それは他の……過去も当時も今現在も典型的なイエスマンである……CCなる者にいったん取り上げられ「検閲」され、その上で「問題なし」となったものの、学生自らが要求するまで学生にも渡されなかった。私はのちに学生▽▽会にこの「検閲」行為と学習活動への妨害行為について抗議したが、「検閲は当然」と却下された。

……愚かな私はそれでも「自分が検閲対象」と危険視されているとはいまだ気付かなかった。

③そうした不穏な「活動」の直後に、東京の「指導」が福岡で越冬をともに闘う同志たちの活動に多大な支障を与え、「地区からの抗議」が沸き起こったのだが、これがあたかも「A(私)がしかけた混乱だ」と▽▽▽では独善的に断定され、「Aは自らの議論方法の誤りを自己批判する」「▽▽は地区の闘いを共有するための全組織的議論を起す」となり、…そうして、Aは(不本意を含みつつ)自己批判したのだが、対して▽▽は「その問題は終わった」とか「これからやる」とかの欺瞞的態度のはてに一切の約束を果たさなかった。

④▽▽▽が約束したこと、それは「日雇い労働運動、日朝連帯運動、部落解放運動、「障害者」解放運動などについての不努力を▽▽▽として自己批判し、全組織的議論を開始する」ということであった。………残念ながらその確認の履行に執着したのは(にわか▽▽の)私だけだった。それは履行されなかった。私はその後何度も議論を要求した。……(当時は「同志たちの不誠実」は想像もしなかったが、)……「投獄・出獄の帰還に進行していた事実上の粛清」という事態に直面して以降、……さすがの愚かな私も、やっと「私が彼らの邪魔者であったこと」に気づかされた。

 「▽▽▽は自己批判する」という▽▽▽の常套句は「誰かをやり玉に上げる」という意味であり、イケニエまたは粛清ほどの意味でしかなく、「自己批判の以前から以後へと生まれ変わっていく」という真の意味で実行された試しは(少くとも尊敬するH氏の逝去以後の▽▽▽では)一度もない。

………今日に至る「決裂」は、内容または路線上は、そのように時間をかけて醸成された結果である。この小論は、その出発点的な位置にあると思うので、私自身の検証のためにも、ここに再公開した。

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04-05寄せ場越冬闘争基調 ■基調提起の趣旨説明(※印部分)■

《 04-05寄せ場越冬 〈総翼賛化〉の反革命一体感に逃げ込むKMTグループを解体し、越冬勝利から〈全運動のソビエト的飛躍〉へ! 》

   ※※※ 全体をつらぬいて、階級決戦前夜の拠点攻防を端的に示す表現が必要であると考え、これをわれわれの決戦戦略から言えば〈ファシズムかコミューンか〉であり、闘争主体的には〈総翼賛化かソビエト的飛躍か〉なのだとして表現しています。

本論のこのタイトルには、ひとつに「全運動のソビエト的飛躍をきりひらき、階級決戦=蜂起を射程に入れ、ここに目的意識的に進撃していく獲得目標をもって根期越冬闘争に勝利しよう」と、ふたつに「総翼賛化へと屈服して白色テロやレパ(※レッドパージ)の尖兵となった全潮流をふみしだいて強大な党・統一戦線・共同戦線を現実に組織していこう」という提起をこめています。

■「蜂起─コミューン」きりひらく越冬闘争の圧倒的勝利へ

日帝の対イラク戦争参戦と朝鮮反革命戦争突撃下、破防法─革命党壊滅を核心的攻撃とし、天皇(制)攻撃を頂点とした差別主義・排外主義攻撃を総展開した(反革命の側からの)階級決戦が煮つまっている。

・さる十二月二日には大阪府警西成署に対して釜ヶ崎労働者数百名が押しかけ、瓶や空き缶などを投げつける実力決起を開始した。警察による労働者暴行の事実に居直る西成署に蓄積された階級的怒りが爆発したのだ。われわれはこの闘いに断固として連帯し結合する。労働者階級はいかなる制動も必ず突破する。

   ※※※ 12.6千葉の収用委員会再建粉砕闘争の場で蜂起派が「釜ヶ崎で千名の労働者が決起している。これに連帯する闘いのため、本日の闘いに寄せ場で闘う仲間が結集できていません」と「表明」したことを受けてブル新報道を確かめています。新聞によれば250名の労働者が西成署を包囲して闘った、とあります。いきさつは、金銭トラブルの仲裁を求めて西成署に行った労働者複数名がそれぞれに警察官に暴行を受け、しかも労働者たちの抗議に対して「階段で転んだのだ」などと見えすいたウソを並べたてたことに対する階級的報復が闘われたようです。いまや「釜日労」の名も返上して「釜ヶ崎反失連」として行政の手先となることを表明している者たちによって、この自然発生的な労働者決起は「収束」=解散させられたようです。われわれ▽▽派にとっての〈弾圧・テロの集中砲火〉は、例えば釜ヶ崎労働者にとっての〈権力と転向分子どもによる挟みうち〉であるということが示されていると思います。したがって例えば釜ヶ崎にも〈闘う労働組合・行動委員会〉を出現させなければないのだ、と痛感します。必ずや「より戦闘的革命的な日雇全協」を生み直して数百万失業・半失業労働者の全国センター建設へと突撃するという決意をこめて、また同時に、実際に失業・半失業労働者はこうした闘いに続々と呼応し突撃するであろうという確信をこめて「労働者はいかなる制動も必ず突破する」と記しました。

・全戦線・全領域で激化する〈弾圧・白色テロレッドパージ〉も〈総翼賛化〉の大合唱も歴史的階級的な反転攻勢の序章にすぎない。

   ※※※ ここでは、つまり〈弾圧・白色テロレッドパージ・・・総翼賛化〉が、まず第一に、プロレタリア人民の戦後的戦闘性を発揮し得た諸条件そのものを壊滅させる攻撃として、第二に、プロレタリア革命党排撃と壊滅の攻撃としてある、という認識を基礎にすえています。

その上で、例えば社会党・総評や解放同盟中央など、あるいは新左翼系の拠点的労働運動なども含めて総屈服の道に追いつめられているが、この過程で必然化している革命党・革命的大衆運動に対するレッドパージにひるむことなく、ひとつに〈断固としてレッドパージを許さないこと〉、しかしそれだけではなく、ふたつに〈○○○の牽引する革命的共同戦線を…人民総武装=蜂起の陣形形成をなしとげる目的意識性・計画性をもって…建設していくこと〉が決定的に重要だという認識にもとづいています。

「反転攻勢の序章にすぎない」と提起したのは、何よりこの敵の総攻撃こそが、労働者人民をして「闘わねば殺される」切実な実感と戦闘力の火の玉へと育てずにはおかないし、この死活的階級的怒り・闘いとわれわれ革命党がいかに…その闘争・組織建設の格闘をとおして!!…いかに結合しうるのか否かこそが決定的カギなのだ、という提起です。

・「プロレタリア革命に対する現実的な恐怖の中で(ファシズムを)登場させ」「国民経済のいきづまりを…反革命戦争…によって打開」しようとする「ブルジョア統一戦線」(※※「桧○論文」)が総展開している。圧倒的な階級的怒りを内包する全国の日雇い・野宿労働者の今期越冬闘争は、新左翼労働運動を含む全階級戦線の壊滅をもくろんだ敵日帝による暴力的な〈総「臨時」化=団結の条件そのものの破壊〉をテコとした総翼賛化攻撃に、歴史的逆襲を叩きつける。急上昇で進撃する○日労運動を拠点とし波及原点とした実力闘争の爆発は、必ずやこの地上に〈就業労働者と失業労働者の結合・協力〉(「資本論」)で「資本家に悲鳴を上げさせる」(同上)闘いをきりひらく。

   ※※※ 「桧○論文」の「ブルジョア統一戦線」という用語をあえて借用しました。(私の○○○(※地区のかつての組織問題)○○○総括にもかかわるのですが)KMTグループにせよC派にせよ、昨日まで新左翼労働運動の旗手たりえた者にせよ、今日では、あるいは明日は、「戦闘派」の外観さえ維持できず「総翼賛化」の奔流に(すなわち「革命と反革命」の「反革命」のがわに)のみこまれていく冷厳な階級分岐の現実の前に我々は立っている、という認識が前提です。例えば国鉄・本山・狭山で現出している事態について言えば、全政治勢力が「反革命の道へ」と、この流れをあえて我々も冷厳に「ブルジョア統一戦線」の成熟過程として直視し、(当面、共闘的・競合的関係である一方で)対決的関係、止揚・突破の対象として相対しなければならないのだ、という提起です。

反革命」への道をひた走る者たちが「労働者人民の指導者」たりえない以上、我々は一刻も早く現実の関係性としても「労働者人民の指導者」として認知されていくプロレタリア革命党の建設に突撃しなければなりません。こういう切迫性をこめて「○○○○○統一戦線」建設の重用性を強調する意味で「ブルジョア統一戦線」という用語を使用しました。

その上で敵の攻撃と我々の反撃(方針)について、「暴力的な〈総『臨時』化=団結の条件そのものの破壊〉をテコとした総翼賛化攻撃」と「実力闘争の爆発・〈就業労働者と失業労働者の結合・協力〉」と表現しました。これは(※KMTグループの機関紙=)「崩壊」によるケチ付けに対する再度の叩きつけでもあります。

 別の視点で言えば、マルクスが「資本論」で相当量の分析をもって〈就業・失業の結合〉を言いきったことの普遍的意義、○日労運動が実証してきた失業・半失業労働者の革命的エネルギー、その三里塚で示した波及力、あるいは韓国階級闘争の今日の爆発力となっている非「正規」労働者の革命的エネルギー…などとして突出してきている闘いに対して断固として戦略的に対象化し、我々の決戦戦略の貫徹・プロレタリア革命の正否に直結する革命的中期的計画的な闘争・組織方針の確立が急務となっていることも示唆しています。

・八〇年代中期に開始された〈寄せ場(労働運動)解体攻撃〉の尖兵に転落した路線転換グループを蹴ちらして九五年に革命的に再編された○日労は、九九年から福岡拠点に潜入し御用組合方式で「○日労」を【セン称】して敵対してきたニセ「組合」=KMTグループをも包囲・解体し根絶する布陣を整え、跳梁を開始したファシストどもと串刺しにして撃滅・打倒する戦場に突撃している。

   ※※※ 寄せ場、日雇い・野宿労働者の闘いを語るとき、つねに意識しているのは上記の「寄せ場(労働運動)解体攻撃」です。これとの攻防こそ本質的攻防であり、これに勝利していく闘いとは「日雇い労働運動」をプロレタリア革命にまで貫きとおしていく闘いをもってしかありえません。言い換えれば「体制内運動・路線」においてはけっして「寄せ場解体攻撃」を直視し対象化することができません。「体制内運動」はせいぜい「あたりまえの労働運動」などを口実に、ただ「人民総武装」から後すざりしていくのみです。KMTの山谷での「除名・脱退」「手打ち」という政治手法はこの攻防からの逃亡を示しているということです。

「包囲・解体、根絶」の「包囲」とは「労働者階級による包囲」の意味です。〈ファシズムかコミューンか〉を決戦的に直視するとき、とりわけ「下層」の労働者人民を「ファシズムが集約するのか、共産主義が集約するのか」、革命的に組織しうるのか否か、が決定的になるでしょう。今日の○日労運動の日々の格闘はその勝敗を決する試金石であるとさえ考えています。この闘いを(直接にはKMTグループに対して、間接にもファシストに対して)「包囲する」闘いとして軽視してはならないと提起しています。

・この闘いは労働者階級が「労働者階級自身の事業」として、闘争的にも組織的にも〈人民総武装〉を獲得し、「蜂起 ─コミューン」に進撃し(世界革命の一環としてのみ勝利しうる)プロレタリア革命に勝利し共産主義社会を建設していく闘いである。

   ※※※ 「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」という原則の意味は大きく二点であると考えます。第一は「闘争の核心的主体は労働者階級であり、(世界の)労働者階級の(ひとつの)利害に秩序づけられた闘いでなくてはならないこと」であり、第二は「労働者階級は自らの解放とひとつのものとして全大衆・人民の解放をみずからの革命的任務として目的意識的に闘わねば(分断を突破できず)撃破されていく」ということです。

我々が三里塚・狭山・国鉄・本山などの共闘あるいは(我々が内在して推進する)大衆運動を展開し、またこれらを牽引していく党と統一戦線を建設していくその全領域で自己検証すべきことが上記の定義に凝縮されています。

多くの不十分性と限界・課題を抱えつつも、今日の○日労運動の推進にあたって緊張してきたものは上記の原則であることを表明しています。○日労の労働者が「本気で権力と闘う」とか「横一線の(水平の)団結」とかの言葉で表現しようとしているもの、とりわけ若い労働者が「福岡だけで闘うつもりではない。どんな差別も許さん。どこででも闘います」と表現しているものを、我々はがっちりと共有し、よりとぎすまされた総路線として結実させ、その地平においてまた内在的推進を闘っていくのだと考えます。

そして結論的に、闘いの目的意識的な指標(メルクマール)として「人民総武装」「蜂起─コミューン」「世界革命」「共産主義社会建設」をいつでもきっぱりと(大衆的に)提起していくことだ、と提起しています。

・「消極的なルンペン・プロレタリアート」(「共産党宣言」)についての革マル・KMTグループ好みの反労働者的悪意は、現実の失業(半失業)労働者運動の革命的進撃によって革命的に打倒・止揚され廃棄される。今期越冬闘争の圧倒的勝利をバネにして革命的寄せ場労働運動は〈三里塚へ!三里塚から全領域へ!〉の革命的進撃をなしとげる。いっさいの反革命敵対を粉砕して越冬闘争に勝利しよう。

   ※※※ 「党宣言」執筆時の(特に「下層」の)労働者の闘いの未成熟に規定されているのだと思いますが、マルクスの「消極的な(=みずから革命的闘いを組織できない)労働者」観の未熟な混乱が表明されていますが、他方あくまでもマルクスの思想の生命力は「(資本の下では)鉄鎖のほかに失うべき何もない」プロレタリアートの歴史的意義を鮮明につき出しえていることにあります。上記の「混乱」は「資本論」ではきっぱりと止揚されているということです。

この「下層」の意味を尊大に見下した思想こそはブルジョア思想なのであり黒田・KMTの反革命思想の根幹をなしています。我々がこの反革命どもを解体するという闘いの意義は、同時にこうした反革命思想に徹底して対決しきることをもとおして圧倒的労働者の決起と革命的階級形成をなしとげていくということです。奴等に対する「理論的処刑」は、こんにちでは「現実的階級的処刑」目前の段階に到達しようとしているし、そのように促進していくということです。

三里塚へ〉が04年の○日労の端的な格闘成果であり足跡でした。今や我々は〈三里塚から全領域へ〉と提起します。具体的に言えば、〈三里塚で一挙に反対同盟の闘いに触発され「障害者」解放闘争・「病者」解放闘争その他の闘いを共感・共有した労働者〉が〈全国・全戦線・全領域に突撃したい〉と「生き、闘う戦場」を求めています。この革命的エネルギーをさらにさらに組織し、革命党の責務にかけて〈次の闘争・組織方針、拠点建設方針〉を提起していくということです。

実際、○日労労働者の三里塚集中闘争に触発されて全障連○○ブロックの戦闘的「障害者」が援農闘争に決起し、そしてまた戦闘的「病者」が援農に決起しててきました。感動は感動を呼び、勇気が勇気を呼びおこします。○日労を戦闘に突出させてきた、あるいは反対同盟が全人民の(まさに)「前衛」としてふんばってきた闘いが「障害者」「病者」の感動的決起と共鳴して〈ひとつの連鎖反応〉をおこしてきたと言えます。この闘いこそ敵支配階級がもっとも恐れているものであり、この闘いの発展こそ〈全運動のソビエト的飛躍…二重権力的団結…蜂起・コミューン 〉をきりひらく力です。この力を守り、拡大して(三里塚のみならず)全戦線を革命の側から揺り起こすのが05年の闘いです。我々以外の一体誰がきりひらきうるだろうか!!です。

■戦争とファシズムに対決する〈労働者・被差別大衆人民の革命的共闘〉へ

(★※…手元にあるデータが不完全なため、以下は省略します)

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□■□(その4)

07年10月…▽▽▽への内部討論提起のための文書

★★【前置き】

……※※支配階級や労働者の敵どもがその極悪煽動の素材とする危険をできる限りり排除するため多くは「省略」したり、「項目のみ」としたり,とした。内部討論用なので分かりにくい部分は必要に応じて★★を示して「注」を書き加えた。

………

 全般に言えば、私はこの07年末に至る時期に相当の決意と努力で▽▽▽の歪んだ議論に渾身の批判を行った、という記録である。こうした議論が未完・未回答のまま私は08年5月からは弾圧粉砕の闘いに集中する他ない状況になり、そのまま09年2月不当連捕以降の2年半の獄中闘争に入り、まさにその間に獄外では「A(=私)は差別者であり排撃者であり大衆運動破壊者である」という「判決文」…しかも欠席裁判(!!)の…が配布されて、決死の獄中闘争から出獄直後の三里塚の戦場で「どのツラ下げて来れたのか」という罵声あるいは無視黙殺まで浴びることになった。弾圧報告の集会で冷酷に私に黙殺を浴びせた「闘う弁護士(!?)」さえいた。獄闘下で反対同盟に宛てた連帯の手紙は握りつぶされて届けられなかった。私の活動の真実を記録していた膨大なSDカードデータは▽▽▽に勝手に回収(!?)されていて二度と私の手には返されなかった。地区で30年ほども信頼関係を積み上げてきた労働組合に行くのも、「障害者」の介護に行くのも▽派遣CCの「許可」を必要とされた。私がすさまじい獄中テロに血を流して対峙していた時に、「判決文」は……なぜか前述の労働者氏にだけは一切を隠した上で……広く配布され煽動され、私への包囲が完了されていた。・・・要するに「弁明の機会」のはるか以前に私は「罪人」の烙印を焼き付けられていた。【処分】は「決定」の前に「実行」されていた。

 一体、君たちの「スターリン主義」批判とは、「公判前整理手続」批判とは、どれほど底が浅かったのか!?

 私が出獄直後にCCに言った「投獄中の同志を欠席裁判にかけた組織は二度と弾圧と闘えないぞ」という警告を忘れるな。

 恨みつらみ…というほどの末練も、実はもうない。出獄から約1年の討論と文書作業の中で、「部落差別発言の自己批判文は書けている。それでも自己批判表明のために当該に会うのは待て」として半年も放置(阻止)される不可解な事態に加え、「排撃者」と断罪されたことの私からの全般的な報告文を放置し無視したまま(『映画問題』めぐる前述労働者氏の全力かけた批判提起を直接に聞いて組織的自己批判を「約束」したはずのCCと▽▽▽メンバーらによって)…「映画問題はA(私)が持ち出したもの」…なる悪意に満ちたデマ文書を作成し、しかもこれを「統一戦線の(いわば下からの)同志たちの名で配布する」などというスターリン主義そのものの自作目演の一片の紙片を準備したこと。…愚かな私もさすがにこの時、この卑劣な者たちは労働者解放には完全に無縁であるか、すでに生命力は朽ち果ててしまった、と確信した。

 ▽▽派にて闘いを継続している情熱ある若干の(比較的若い)同志たちと腕を組んだ思いは変わらない。だが無念だが、獄中の2年半の国家・監獄の「壁」は、出獄後も▽▽▽による実質処分の無期限の「壁」となって継続された。前者の「壁」などものともしないが後者の「壁」は死よりはるかに絶望的である。

 こうして▽▽派の(尊敬するN氏やH氏を軸に営まれてきた)理論的営為と、かつて交わってきた若い情熱たちとは今も心に共に在る。

 あえて明言するが、私は「追われた」のではなく…保身で歪んだ▽▽▽を、スターリン主義への変質を…「見限った」のである。

 ▽▽▽が毎度毎度、紙上に「貼り付け」ている『労働者解放?』だの『自己批判』だのといったその耳ざわりの良い空手形の何と薄っぺらで無内容なことか。その看板は完全に偽りである。

 そうした破廉恥な結末に至る、以下はその渦中の提起文書です。【前置き、以上】

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日帝反革命戦争突撃下、翼賛化攻撃総屈服の尖端におけるKMTグループ発生めぐる全党的自己批判作業として

闘争・組織・思想の全領域をめぐる綱領深化・討論に向けての提起  07年10月

――当面可能な課題整理のみ――

①【〈永続革命・世界革命〉―マルクス主義の復権についての鮮明化】

「 発生以来、KMTグループがたった一度も「永続革命」を口先にも出さないのは、第一に「戦略」的には、「二段階戦略」すなわち「当面はブルジョア革命をめざす=日帝支配階級と共存(=日帝国家権力打倒の質をもった実力・武装を解除すること)を前提に『民主』主義・『改良』主義―全世界労働者・人民の革命的決起に対する総屈服と総敵対」が反革命「綱領」(=転向反革命の掟)として明確に意志一致されているからである。

 時折、▽▽派を偽装するために「プロレタリア革命につらぬく」などと書いても、もはや反革命転向と同時に「本音と建て前」のご都合的二元論が「心地よい」この者どもにとっては「自己欺瞞と白色テロ衝動」である以外に何の意味もなさない空手形である。

 第二に「思想」的には、とりわけ「革命の現在性」=「労働者階級(と被抑圧・被差別―全人民)の対資本・対権力の現在的突撃力(と止揚力)の何たるかを一ミリも学ばないゆえに『―階級的自己批判と階級的飛躍なき―小ブル特有の危機感・絶望感(=闘う労働者・人民に対する嫌悪感)』にまみれ、〈資本制支配への敗北感と、差別糾弾闘争を含む労働者人民の闘いへの嫌悪と憎悪〉がますます固着しているということである。

 ……今や闘う「病者」「障害者」に対する差別虐殺さえ放言し、こうした差別攻撃に対する差別糾弾闘争を指して「糾弾は人殺し」とさらに敵対を重ねている。

 この者どもの言う「糾弾=無意味」論とは正確にこの「糾弾=恐い」論として叫ばれているのである。部落差別をはじめとするあらゆる差別主義を含み労働者階級の永遠の支配・隷属を願望してやまないブルジョアイデオロギーの信奉者どもが、鎌田ら反動「文化人」どもと競うように狭山闘争現場に潜入しては「ビラも書けないやつは来るな」「ソーギ屋(葬儀屋)」などの差別主義者の言辞をばらまき、ことさら親権力・親ファシスト・親融和勢力の証をたてているのは明確に〈狭山―部落解放闘争の破壊〉を仕掛ける反革命意志一致のもとでの所行なのである。」(07.10.31狭山「原稿」から)

 上記を提示したのは、こういうふうに何よりもKMTグループの転落=転向反革命と現在にいたる――特に度し難いほどの極悪差別主義を先端とする反労働者(人民)性を満開していく――反革命展開についてどう解明し、では我々にいかなる自己批判と飛躍が問われているのかについて、このあたりが最重要の視点となると考えているからである。

 ソ連邦崩壊と新左翼をふくむ総屈服の進行の先端で★(注)90年を前後する脱走問題★は発生した。

 当時、対策し整理すべき諸問題についての一定の活動はなされてきたと記憶しているが、しかしKMTグループ発生までくぐってきた今日の視点からとらえ返せば、こうした国際共産主義運動のスタ的展開がいかなる末路に至るのかをも見透かしうるほどの▽▽派の綱領的「力」は当然あるにもかかわらず、やはり「マルクス主義の終焉」をつぶやき始めた諸勢力やエセ「学者」どもと同次元の絶望感にまみれて▽▽派の総路線を破壊しつつ逃亡していく★(注)上記の脱走問題★をも発生させてしまったことは、▽▽派の〈永続革命・世界革命〉ということ、あるいは〈労働者階級自身の事業〉ということについて「承認している」だけではなく「現実の闘争・組織・思想めぐる全活動として形成している」のか否かとして、全党全潮流の総括討論が必要であっただろうし、しかし当時からKMTグループ発生にいたる過程ではこれをなしえなかったというべきではなかっただろうか。

(私は、当時の▽▽▽的な対策・総括討論の実状は知り得ないので、

少なくとも90年代学生戦線においては―首都圏を中心に―)たとえば「西日本では『対革マル戦がやれない』ということで★(注)上記の問題★が発生した」という(現象の評論としては当たってないこともないが)主体的総括としては無内容きわまりない論調だけが聞こえていたことと、当時からKMTやサカイやらが随所で内糾地平とはほど遠い雑談にふけっていたことや、一部「労働者指導部」においても「やっぱり被差別ではなく労働者なんだ」「生協労働者や日雇い労働者というのは遊び人だ」といった対置的分断的精算的敗北的にも聞こえる雑談をやっていたことなどが、…私としては…これらを粉砕できてこなかったこととKMTグループ発生を許したことが直線上にある自己批判すべき痛恨の記憶としてあることを根拠に…そう感じている。

 スターリン主義の破産(と崩壊)の末路はいわば必然であり、また〈口先ではスタ批判を口走りつつもこれを根底から突破する「永続革命」を定立できない諸潮流〉が動揺し転向の道を準備していくこともいわば必然であるが、▽▽派において動揺や混乱が生まれる場合は〈定立してきた「永続革命」路線が党と潮流の全活動をとおして明瞭に組織化しえてきたのか否か〉が問われるという次元の問題としてあったと考える。

 この間、「獄中小論集」の特に「定礎(党建設論)」部分や「獄中者組合」関連部分や「木陰OO」論文あたりを引用紹介したり参考にしたりしながら私としての諸課題整理や闘争指針の提起を行ってきたのは、こうした論文活動に★(注)上記の問題★についての正面からの総括や(あるいは現段階的な内糾総括と方針)やそれにもとづく組織論が教訓的にあるいは示唆的に提示されていると感じているからである。

 そして、これらで提起されている重要部分のほとんどがKMTグループ(あるいはKMTグループ発生前史を策動し準備した者どもにはまったく欠落しているか対立した内容であったことにも当然注目してきた)。

 しかしひるがえって現在の我々自身において上記論文等で提示されてきた諸教訓がどう意識化されてきたのかについても私は多くの疑問を感じている。

 総じて、上記論文などの総括の格闘はありつつも、▽▽派総体として「このように提示されている総括視点についてどう全体化するのか否か」についての真剣な格闘がなされなかったと思う。またこれは「KMTらが理論活動を軽視してきた」というやつらだけの専売特許にしても当たらないと思っている。

 問題提起の次元は異なるが、KMTグループ発生をめぐって「KMTは元々▽▽派ではなかった」とか、…(中略)…というような短絡的な言い方を少なからず耳にしてきたし、実は今でもたまに耳にしているのだが、「かくかくしかじかの内容において、厳密には……であったとも言える」などといった誤解のない論議ならともかく、そうではなく「ぽん」と出てくるのである。

 比較的に若い同志たちが聞いた場合「本気でKMTグループ発生の総括をしようとしているのか」という苦情が聞こえてくるのだが、まったく当然のことである。

 「――いかなる限界はあれ、またあれこれの限界を抱えつつ決起した以外の『神』のごとき同志がいるとも思えないが――〈かつてそれなりに▽▽派構成員として闘おうとしてきた者〉が、何らかの困難の中で屈服過程に入り、そして〈今は▽▽派の全内容に敵対している〉といった」、そういう例はいくらもあったし、またありうることである。

 私自身も含めて、誰もが、熾烈化する階級闘争の時間と空間の中で闘っている「生もの」のように感情的にも山も谷もくぐりながら闘っているし、「ある瞬間の自分が戦闘的であったとしてもある瞬間の自分は日和ってしまった」と振り返ることもしばしばである。

 要するに、そういった「あれはもともとこうだった」という論調には必ず主体的(自己批判的)総括の格闘が回避されており、もちろんすべてがこういう次元になっているとまで言うつもりはないが、しかしそろそろ「正面からの本格的なKMTグループ発生総括」に突入しなければ、いよいよ(私をふくむ)全構成員が、同志としての「共通語」さえもてない状況に叩きこまれ、不毛な「対立」を繰り返さざるをえなくなってしまうのではないか、という危機感がある、ということである。

 この間の▽▽▽同志間の討論でも「観念的労働者存在主義」そのものの言動がとびかったことさえある。…(中略)…

 「観念的…」ということについても、要するに「この同志にとって『永続革命』あるいは『革命の現在性』という視点において、つまり『プロレタリアートの現在的突撃力』という視点において、あるいは『プロレタリアの革命性とは何か、それをどう組織していくのか』という格闘をするつもりがあるのか」という疑念が日々襲ってくるような日常的な討論水準の低さ、または欺瞞が横行していることの危機感もふくめて、今こそそういった綱領的原則を我々はなぜ原則としているのかについて明瞭にしていく全組織的な討論が組織化されなければならないと考えている。

②【「プロレタリア階級」とその「革命的根拠」について―神秘的存在主義を突破して―鮮明にしていくこと】

 我々は「M大拠点総括」を中心にしたKMTグループ発生巡る自己批判的総括を一定格闘してきた、と言えると思う。

 KMTグループ発生にいたる過程での打撃性について、私が何よりも特徴的なものとして痛烈に感じていることは…(中略)…拠点運動的には〈M大〉であり、〈山谷〉である。

 …(中略)…KMTグループ発生過程そのものを許してしまったことの最大の責任は「▽▽部」にあるはずである。あえて強調することではなかったはずなのだが、しかし、私は「まず学生からだ」という論調の中で、例えば端的には「誰もKMTグループ発生前史の山谷展開について―KMTグループ発生からとらえ返せば―どう整理していくべきなのか」について誰からも提起されないし、ほとんど問題にすらされてこなかった状況の中で、他方で「『寄せ場』―○日労」を論じ展開してきたのである。

 労〇〇★(注)▽▽の某会議★における「KMTグループ発生以前の全国労研と寄せ場労研との露骨な分断状況」の――★(注)つまり、山谷や全国寄せ場ー日雇労働運動については▽▽▽では長らく「KMTまかせ」と「無関心」によって【KMTのやりたい放題、KMTの私的分裂拠点づくり】を許して、日雇全協をはじめとする大衆運動の重大な破壊をもたらしたこと!!★ーを私として自己批判的立場を表明しつつの――討論提起(した)にも(かかわらず)、はっきり言えば(すべての労働者同志からは)空返事しか返されてこなかった。

 「困難」であることを責めるつもりは毛頭ない。だが共有し整理していくことをとおして、その問題意識を共有しつつ現在的な労働運動方針を討議していくことは絶対的に必要なはずである。

 何よりも「分断的状況があったこと」それ自身が自己批判的課題であることは明確なのではないのか。

 他方ではKMTグループが「寄せ場に関心もなかったくせに」と毒づくとき、――反革命どもは反革命利害から言っていることは前提的に押さえておくとしても――部分的な「うらみつらみ」の言動としても、ここに触れる「何らかの総括すべき状況はあった」だろう。むしろこうした反革命どもの「毒づき」を耳にしながら、これを正面から(総括すべきは総括しつつ)粉砕する闘いに誰もが決起して当然なはずではないだろうか。

 そういう意味でも「山谷総括」が(▽▽部を先頭に)正面から課題にすえられなかったこと自体に私は納得していない。

 (あまりに不完全なものではあったと思うが、私は相互に共有し討論しうるために「ルンペン・プロレタリアートについて」レポートしたこともある)。もちろん「学習成果」の披露が目的ではなく、「寄せ場」に関する格闘を共にし、この総括をとおしたKMTグループ発生総括として共に深化したかったからである。

 このレポートにおける一個の「結論」として「(マルクス自身の限界と克服過程ということを念頭におきつつ)『ルンペン・プロレタリアート』と総称されたほとんどの部分は、まさにプロレタリアートそのものである」ということを証明しようとした。

 異論があればあったで良いが、問題は、あたかも私が「寄せ場」担当のごとく分離されている状況下で、さらにこうした問題提起をもっても無反応のうちに「問題意識そのもの」が忘れ去られていることについて、「私は強烈な孤立感の中にある」と訴えてきたのである。

 重ねて言うが「困難なこと」を無理強いするつもりは毛頭無く、ただ「問題意識の共有」から一歩ずつ共に前進していきたいということである。

 実際、私としては「寄せ場」をめぐって必至に格闘してきたつもりだが、しかし強烈な分業主義の中での私の「格闘」であるかぎり、(極端に言えば)そんなものはただ私の不在または死とともに、▽▽派の闘いのどの部分も構成することなく消滅していくということである。

 実際はいくらかの同志たちが私の視点を参考ほどには(批判的にも)共有してくれているとも感じているので、それはとても大切なものなのだが。…ともかく、KMTグループ発生から8年。山谷を対象化し組織したい、と言う同志がほとんどいないという▽▽派の現状だがそれはそれでやむなしとすべきなのか。

 先述したが、こうした状況と一つのものとして「一部の▽▽部同志」の露骨な「観念的労働者存在主義」をもっての私への「ぶつかり」を幾度となく経験させられてもいる。私は、こうしたことはある意味でその同志に特別な例だが、ある意味ではそういうことが通用する土台が▽▽派の現状としてある、という両面の緊張を持って見ている。

 また私自身の一つの確信として、「★80年の脱走集団★が神秘的労働者存在主義であり、★90年の脱走集団★が(やや強引に言えば)神秘的被差別存在主義であり、KMTグループはそれらで露出した無内容を『力』に小ブル政治主義をうち固めた」のだと考えてもいるし、「『労働者の気持ちがわからんやつ』『部落民の気持ちがわからんやつ』などの徹底した罵倒を受けつつも★私が90年脱走集団と★決別し対決してきたのは(空疎な小ブル政治主義によってではなく)観念的ではない現実の労働者・被差別大衆の利害に立つことにおいて観念化・神秘化をふりまいて逃亡する★90年脱走集団★と対決する、としてこれたからである。

 我々のうちで、「労学連帯」と言うとき、ある同志の主張をよくよく聞いていると、じつはその同志においては「学生同志の労働者同志に対する関係」だけがイメージされて提起されていると感じて困惑することも多々ある。少なくとも私にとって「労学連帯」とは――「反産協」ということ★=産学協同路線粉砕!!…という綱領スローガン★に照らして言えばあまり本質論的な用語ではないとも思っているが――

 まず第一に学生戦線として「現実に資本・国家権力との関係で死活的状況を強いられ、また反逆し、あるいは反逆するエネルギーを爆発させんとしている階級たる現実の全国・全世界の労働者の闘いに応え、連帯するということ」である。

 第二に、その現実の階級の死活的決起を体現している労働者同志との同志的共闘・連帯のことである。

 この順序が逆転もしくは「第一」が欠落している場合は、どうしても「政治主義的態度」の問題に歪曲されていくと思う。

 また「現実の生きた労働者の階級としての呻吟と反逆」を「生きた現実のそれ」として正面から問題にしていく格闘がない場合に「KMTグループ学生運動の本質は階級性の欠如だ」と言っても、何か言ったようでも、我々自身の中に「KMTグループ学生運動」を突破・粉砕して階級的に進撃する何を生み出したことになるのだろうか、という疑念もある。

…(中略)…

③【「解体・根絶戦」と「攻勢的防衛闘争・共同防衛闘争」の意義を鮮明にすること】

・〈誰が誰を防衛する〉を越えた〈革命を防衛し反革命を打倒していく〉攻勢的(共同)防衛

・(完黙・非転向貫徹を基軸とする)攻勢的獄中闘争

 …〈建軍―武装闘争路線〉と〈非合法革命党建設〉

 …〈革命党と統一戦線・共同戦線建設〉の強化・拡大

④ 【「獄中者解放―監獄解体―『犯罪者』解放」の意義を鮮明にすること】

・〈獄中者解放―監獄解体〉―〈国家権力解体・打倒〉の意義を鮮明にしていく

・〈労働者解放―「犯罪者」解放〉というプロレタリア革命の普遍的意義

・「党と大衆」についての区別と連関ということについて、定式化は困難であり冒険であるとしても、様々な経験からの討論と整理を積み重ね我々の党としての内在的推進力を鍛え上げていくことが必要である。

 組織活動方針として。

 例えば完黙・非転向闘争をめぐって「我々にできて他党派にはできない」ことと「我々にできて大衆活動家には(なかなか)できない」ことのそれぞれの「差異」の意味はまったく違う。「なぜできないのか」の根拠の位相が違うのである。そうであれば我々はその双方の場合の差異について解明し、一定の方針化をしていく必要がある。

 私の当面の結論として言えば

  ①「▽▽派は〈プロレタリアートの革命性=《対敵非妥協性=対仲間共同性》〉の立場で闘うゆえに〈『革命・反体制・非妥協』で敵に対峙する生き方・闘い方〉を武器に獄中非妥協としての完黙・非転向を定立しうる」が、

「小ブル党派は〈前衛としてプロレタリアに外在的〉でしかない〉ゆえに〈つねに『逃げ場』としての『体制迎合』を隠し、あるいは露わにする〉ゆえに「獄中非妥協―完黙・非転向」という「武器」をもちえず屈服を必然としている。

 前者の後者に対する関係は〈突破・粉砕〉である。

  ②また「▽▽派=プロレタリア革命派は(上記の)対敵非妥協=獄中完黙・非転向を、さらに党の共同の路線として意識化し、(各同志においてその闘いがいかなる階級的革命的意義をもつかの体得の幅はあったとしても)あらかじめ共通の闘争目標として意識化した出発点を形成しつつ――意識化された武器を携えつつ――獄中闘争に突撃していく」が、

「(我々とともに戦闘的に闘う労働者人民―▽▽派の闘い方を一定は意識化しつつも『党派として共通の前提に立つ重さにおいて共通の獄中闘争の路線・目標を獲得するに至っていない』労働者人民の大衆的活動者が闘う場合)、……

 前者の後者に対する関係は〈日常的共闘における、一方においてその階級的(大衆的)決起の意義を具体的現実的に学び共有していくと同時に、他方において(世界史的なプロレタリアートの闘いの総括と方針を当面の総路線として定立している革命党派たる▽▽派の責任にかけて)―完黙・非転向闘争を含む―プロレタリア革命の総路線をふまえた運動的思想的(拠点大衆運動的)提起と討論、あるいは直裁に総路線そのものを共有していく運動的思想的組織的(同志的)―路線的提起と討論を、生きた労働者の現実と闘いの展望において相互にうち鍛えられていく過程として=『内在的推進』として〉ある。

 …ここでは「獄中完黙・非転向闘争」を意図して上記の整理をしているが、同様のことは例えば「介護闘争―『障害者』解放闘争」を例にとっても言えるのである。

…(中略)…

⑤【KMTグループとは何か。

その本質と発生根拠―解体・根絶の不可避性を(全組織的に)鮮明にしていくこと】

・木元グループ解体・根絶戦の意義

 …①プロレタリア権力樹立の展望をかけた闘い

  ②軍事・非合法の飛躍をかけた闘い

  ③反階級的脆弱性もろとも粉砕し革命的階級形成を大胆に推進する

  ④この全格闘をとおした〈内乱―コミューン〉に突撃する革命党・機関建設

  ⑤戦時下の翼賛・反革命尖兵の解体の中で全人民武装を促進し、全運動の革命的転換をかちとること

・KMTグループ…反革命「綱領」=〈永続革命〉の否定の意味の鮮明化 …プロレタリア階級の現在的暴力的な突撃の否定・嫌悪・憎悪

 …その小ブル政治主義ならではの〈労働者階級の革命的可能根拠〉に対するニヒリズムと小ブル個人主義の必然的脆弱性と屈服

 …その小ブル個人主義における宗派的で独善主義にみちた大衆蔑視→極悪差別主義の満開

 …その対外的な独善主義と内部における打撃主義と分断支配(スタ的官僚主義)

 …「プロレタリア革命(全人民解放)の出撃拠点」との対極に結果していく「ボス交」路線の必然性

⑥ 【人民戦線とプロレタリア統一戦線の区別と対決を鮮明にしていくこと】

・レーニン・ローザの転化スローガンを革命的に継承・発展させる〈蜂起―内戦(革命戦争)〉の総路線

・1930年代国際共産主義運動の敗北 …「左」右両極への小ブル政治主義動揺

⑦ 【「労働者階級自身の事業」ということについての実践的―現実的具体的な意味を鮮明にしていくこと】

・〈打倒力・止揚力〉の問題について …資本とその権力(政府)との日常的暴力的な闘いをとおしたて〈―資本制支配を打倒・転覆し真の共同社会を建設していく―革命的階級の形成〉

・戦時人民虐殺の攻撃下から反逆する現実の生きた労働者階級の突撃力に自他を組織するように闘うこと

・この労働者階級の闘いへの(スタ・社民・革共主義などに示されている)外在性とは区別された―〈永続革命・世界革命〉総路線を定立していく

⑧【全勢力の屈服―路線転換の意味・路線的必然性と対決指針を鮮明にしていくこと】

・〈時代の転換〉において求められているあらゆる課題に真正面から突撃していく

⑨【「革命的団結のうちに革命的に自立した個」の思想を「小ブル個人主義」の対極にてい立していくこと】

 【分業主義を突破していくこと】

・非妥協・実力―攻勢的獄中闘争―完黙・非転向闘争―〈長期・極刑、獄殺を辞さず〉死闘戦思想

・その死闘戦思想の内実として―KMT的、あるいは歴史的なスタ・社民・人民戦線諸派の最弱の環である小ブルニヒリズム・小ブル政治主義を階級的革命的に突破・粉砕する―〈革命的団結のうちに革命的に自立した個〉を実践・思想として定立ていく

・本格的権力闘争の飛躍―〈人民総武装〉―〈全運動のソビエト的転換〉―〈大衆化=革命化〉

・〈革命的団結のうちに革命的に自立した個〉

…(中略)…

⑩【「戦時下の、あるいは〈時代の転換〉下の革命的学生運動の任務を鮮明にしていくこと】

…(中略)…

 

⑪【KMTグループ発生総括の深化の中で、

★その下で攻撃された重大な女性差別事件★の組織的自己批判的総括を鮮明にしていくこと】

…(中略)…

⑫【「獄中漫然」の対極に攻勢的獄中闘争の意義を、総路線の根幹として鮮明にしていくこと】

…(中略)…

⑬【スパイ・攪乱―破壊粉砕の死活をかけて「人民の中へ」を階級的革命的に定立していくこと】

…(中略)…

 ……………………………

〈2〉★ ★★【α討論】★★

 =この時期に《地区と中央、大衆運動と党、私と▽▽▽》などで「ぶつかり」、▽▽▽内で私が孤立しつつ反対討論を試みていたこと★…について

…(中略)…

……また他方、長崎○氏から

〈12.○○についての提案を無視されたこと。それは「労働者の力を軽視しているということだ」という指弾〉を受けてきたこと、

実際02年出獄当時には「○は福岡から逃げた」「○と○が頑張っている」という納得しづらい論調が▽▽▽内と○から聞こえる状況にあったが

「火のないところに煙は立たない」はずなのに

(「犯人捜し」などではなくその「火」元になる我々の労働者観・「寄せ場」観を討論し総括し前進したいのだが)

結局「火」は見えないままに「煙」はまるで自然消滅(?)してしまった。

…(中略)…

また「がんばっている」と評価された○と○は結局〈権力・KGとの密通〉がきわめて濃厚な最悪の敵対分子の姿を現して粉砕されてはいる。

一度は「逃げた」とされていた○氏はみずからの戦闘的対峙線を守りぬいて闘っている。

…(中略)…

長崎○氏の闘いとの連帯は、いわば争議共闘の現実の拡大・波及の引き金になりうる課題であり、かつ現実の緊張関係をもった日朝連帯戦線建設から現実の在日朝鮮人民連帯の戦列を形成していくための引き金にもなりうる課題だ、と私としては主張し意志一致もしてきたが、▽▽▽としての出発点が形成されない上に「A★=私★は独走している」という批判の中で―今となっては無謀であったと考えるしかないが―「関東『寄せ場』展開の提案」や「全障連組織攻防ま準備の提起」などで失速し、強烈な「孤立感・無援感」においこまれる……

…(中略)…

★【最後に】…

 以上で、(その④)07年の内部討論用に提起した文書の掲載を終了

する。また同時に前号☆コミューン研究☆No.10~No.11にわたって掲載してきたものも一段の区切りとする。

 (その④)で抜粋掲載している文書の中では、極めて膨大な文章を削り落とさねばならなかった。この内部討論提起が、当時の(H氏逝去後の)あまりに無内容化した理論と議論のゆえに、それまで実に原則的に「諸大衆運動・拠点建設をソビエト運動として闘う基礎の上に地区党建設を闘ってきた全営為」が、▽▽▽によってズタズタにされていった諸事態に直面して、やむにやまれぬ思いで私が全面的な討論を求めた、そういう必死の提起であった分、今、ブログという形で公表するのはさすがに控えざるを得ない生々しい▽▽▽批判となっているからである。

 またそうして、内部論争的で綱領討論的な発展を期待していたこともあり、かなりくどい説明や論理展開も試みたものであり、……そもそも『映画問題』=『日雇全協破壊の総括』のために、という現在のこのブログの当面の課題をあまりに越えてもおり……、そのあたりも考慮して多くを削ってもいる

 ただし、もし公然たる論争が求められた場合は、いつでも可能な限り復刻する用意はある。

 その上で、この文書の重要性について要点的に示しておきたい。

 ■第一に、この提起は全くの一方通行となり、▽▽▽で正面から討論されることはついになかった。

 ■第二に、この2007年時点での私の必死の提起は、のちの私の出獄時2010~2011年時点でのあの『行動委員会運動と党』へと連続している。

 ▽▽▽はそれらすべての提起を黙殺する代わりに「私への粛清」で応えた。…「そんなつもりではない」という言い訳など、そういう経緯と事実の前では無意味である。

 ■第三に、ここでの文書に示されるとおり、私はかくも必死に『映画問題』総括討論を訴えてきた。その上でついに2011~2012年には、直接に…かつて筑豊ヤマの会会員であった闘う労働者氏から▽▽派を代表したCに対して…その総括討論は厳密に要請されたのである

。……にもかかわらず、この経過と事実を▽▽▽は汚く歪めて、「『映画問題』はA(私)が…!?

…、…今、!?…持ち出した」などというデマをねつ造した

 驚くことに「この『映画問題』を今までA(私)が隠していた」などという卑劣なデマさえ流布されたのも確認した。

 ■第四に、最後の最後に★★【α討論】★★と改題して示した“ほんの一部”は、地区で誰よりも共に戦闘的に『映画問題』と労働運動(等)を闘ってきた労働者氏に、あたかも「逃亡者」か「敵対者」かの態度をとり続けた事実の証拠として掲載した

。……こうした、幾度もの私の指弾にはついに何も応えぬまま……今も継続している▽▽▽と▽▽派は、その一点をとっても、いかなる意味でも今や「労働者党」ではない。

(つまり、小ブル集団…となり果てたのである)。

 ■第五に、こうした状況を『映画問題』=『筑豊からの告発』=「日雇全協の破壊の問題」…というこのブログのテーマにそって結論的に述べるなら…

①上映実に連なる者たち、②KMTグループ、に続いて③▽▽▽派までも、つまり日雇全協破壊に責任あるすべての政治勢力が、こぞって『映画問題』決着の敵対者として肩を並べる結末となっている !! のである。

 何度も言うが、

「だから闘う労働者氏も私(たち)も黙るわけにはいかない」のである。

 (☆コミ研☆No.011、以上)

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■■☆コミューン研究☆ №010

 『行動委員会と党建設』

 (継続して新規に記述するもの… の、【その①】)

■★■続Ⅰ.いわゆる「映画問題」

「歴史の概観、および報告してきた主な文書の抜粋」…の① ■★■

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□■□(その1)2002年7月の小論『…日雇い労働運動の前進を』を再提起する

 ※※少し「前置き」をしておきます。

 この小論は、私としては(長い組織活動の中で)遅ればせながら初めて「論文」として某紙に提起したものでした。それまで書き慣れなかった「論文」に着手するのは、実際大変な作業ではありました。

 ではそんななれない作業になぜ着手したのか。

 当時、私は99年に発生したKMTグループを「国家権力が支援するために仕掛けた」性格のM大弾圧の対象として逮捕・投獄されて獄中にありました。当時の私を含む▽▽派が大量投獄されているとき、片や、ここから(権力の力を借りて)脱走したKMTグループは、形ばかりM大学を「拠点」かのように居座りつつ、東京・山谷を中心に(主に運動破壊の活動として)福岡に破壊を広げていよいよ福岡県警公安との連携を深めていました。そんな「権力の力を借りての好き勝手」の中で、横着にも彼らのスパイ紙上に「寄せ場論文」のような代物やら腐敗しきった内容の「寄せ場報告」やらを大威張りで掲載し始めていました。

 ★★本論は「KMTらの反労働者性」とともに「▽▽派の本工主義」を暴露弾劾する★★

 あえて言いますが、そもそも▽▽派としては(驚くことですが)それまで一度も「寄せ場労働運動をテーマにした論文」を発表した形跡もなかったのです。そしてこのときKMTグループが(僭称とはいえ「▽▽派」の「名」において)初めて「寄せ場論文」とやらを世に出したわけです。すでにこのブログでも随所で暴露してきたように、KMT(たち)こそは正真正銘の「日雇い・寄せ場労働運動の破壊者」でした。その彼らが、今や「寄せ場労働運動の責任団体」のごとく反労働者的言動をほざきまくっているわけです。それは当時の獄中の私としては何より悔しく腹立たしくもどかしいことでした。ですから私は獄中でKMTたちの出した反革命雑文にかじりつくようにして徹底批判を加え、それをノートにし、論文的な体裁にして、獄外の▽▽派の「同志」たちに送りました。獄外には「労働者指導部」を自称する者がいるのですから、私のこの批判メモは何らかの形で生かされて▽▽派の紙上でのKMTグループ批判として発表される、と期待していました。ところがいつまでたっても自称「労働者指導部」のいる「編集局」は、このKMT流「反革命寄せ場運動」の批判のカケラも掲載しませんでした。

 ★★▽▽派の本エ主義が「KMTらの山谷での暴走」の共犯であった★★

 いま結論的にはっきり言うならば、当時の▽▽派「労働者指導部」とやらは、実際は「KMTたちは日雇い労働者の分野で威張っているが、本当の労働者運動はこちらだ」といった感覚でふんぞり返って、実際なんの痛みも感じてはいなかったのでした。

(私は出獄後にその実態を思い知らされていくことになりました)。

 要するに──失業・半失業の労働者をまるで「半人前」のようにしか見ない──本工主義が染み付いていたのです。だから彼ら「編集局」は私の「KMTグループ批判を軸とする寄せ場論文」をそっくりゴミ箱に捨ててしまっていたのでした。

 今でも尊敬している▽▽派の歴史を担ったN氏やH氏には少々耳が痛いかも知れないのですが、実際彼らも含めて▽▽派の誰も「寄せ場・日雇い労働運動の歴史的整理」に着手もしなかったという事実は、今も改めて「▽▽派の明白な本工主義的な側面」として指摘しておかざるをえないことです。ただしN氏は「本工・予備役の分断の突破」を力説し、H氏は「内部糾弾闘争と党建設」の路線定立に尽力し、私などは何度も氏らの偉業に学びながら「全労働者の団結に結実していくような日雇い・寄せ場労働運動へ」となんとか進み得ていたのでした。が、その福岡地区の他には、特に山谷ー寄せ場を抱えている東京・関東-▽▽▽では驚くべき無関心がまかり通っていたわけです。そして、その▽▽▽をはじめとした無関心(または日雇い労働者の苦悩に対する嘲笑?)こそを条件にして、それをいいことにKMTらは「寄せ場」をめぐる能書きを好き勝手にほざき、また「自由の空間」にし、破壊と反革命への絶好の舞台にしていった、ということです。

 その反労働者性・反革命性を当時の私なりの全力で批判したにもかかわらず▽▽派「労働者指導部?」はこれを放り捨てた。

 ★★当時の私の執着は何より『映画問題』=日雇全協破壊について▽▽派の自己批判にかけて総括と再建へと進むことを中心とした作業としてあった★★

 これまで随時明らかにしてきましたが、▽▽派からKMTグループを生み出したという【事態】は、私にとっては同時に、それまで(主に90年代の)特に東京・山谷や福岡や全国寄せ場に介入した(▽▽指導を振りかざした)KMTの「怪しげな指導」に動揺させられつつも、結局のところ多くはこれに「従って」、私の「努力」の多くがKMTらによる日雇労働運動の私物化(=破壊)とそれをテコにした労働者革命運動破壊の「道具」にされたことに気付かされた痛恨の【事態】に他ならなかったのでした。

 『筑豊からの告発』という「映画問題」のなかでも最も生々しい労働者・人民が突きつけた課題は、当時も今も労働者解放・革命にとって絶対に見過ごしてはならないものです。私にとっては当時から身近で共に闘おうとしてきた「在日朝鮮人の母をもち、父も自らも闘う炭鉱労働者として生きて闘った経験から、全力で日雇労働運動の先頭に立ってきたある労働者」との共闘をとおして私(たち)の唱えてきた「朝鮮人民連帯」「予備役・本工の分断を越えた労働者連帯」の内実が直接に問われており、またさらにこの「映画問題」をとおして「部落大衆との連帯」「生活保護をめぐって国・行政と対峙するすべての人民との連帯」が問われ、ひいては三池闘争を頂点とする戦後労働運動の総括(と今後の闘争指針)もが問われているのだ、と考えてきました。……そうした問題意識自体が前述した労働者氏との共闘の中から学んで確立してきたものでもあります……。

 改めて記すのも無念ながら、KMTらは「ある時期」までは「差別者を許さない」という大義名分を手にするために「筑豊ヤマの会」の一員であった前述の労働者氏に共感したかのように振る舞い、……山谷争議団を分裂させ、日雇全協破壊ののちに「全国寄せ場交流会」なる分裂集団を作って勝手に振る舞いたい「時期」になると……もはや「筑豊からの告発など邪魔だ」とばかりに労働者氏の警告を無視し踏みにじって、「告発」主体に何の相談もなく実に勝手に【○日労が管理する映画フィルムを奪い去った】うえに【勝手に切りきざんで「筑豊シーン」をカット】して「これでケリだ」=「もう『筑豊からの告発』など関係ない」とばかりに全てを闇に葬ってきました。

※※365日24時間つらぬく現実の様々な差別と闘うのでなく「差別者…と目した誰か…を許さない」という政治的な号令で「事足れり」と一知半解したり「差別者と呼ばれたくないために『イエスマン』になる以外いかなる大衆運動も自らなさなかったり」、というのが東京▽▽▽の「伝統」であった、と今さら思わされます※※

 実際、今日に至るも、

①上映実とそれに連なる者たちは今や「勝手気ままに上映をくり返し」ている。

②KMTグループもまた(奪ったフィルムを)気ままに流して①と仲むつまじく共存している。

③東京・山谷から福岡・筑豊にわたるKMTの全ての暴挙に「やり放題自由…の切符」を与えてきた▽▽▽諸君は……KMT皮革命どもに「寄せ場の闘いに関心もなかったくせに」と罵倒されても痛みさえ感じないほどの本工主義でふんぞり返りながら……その後の私の総括提起も労働者氏の数々の注告も一切合切をさらに葬りながら、ひたすら「事実の書きかえ」と「歴史の改ざん」による《臭いものに蓋をする》方式の悪意に満ちたレッテル貼りで、私たちを黙らせたつもりのようである上で、これまた東京では「共に弾圧と闘おう」などと①との共存へとにじり寄るありさまである。

 残念ながら私は黙らないし、労働者氏の怒りは私以上である。さかのぼれば三池と炭鉱労働運動に連なり、ひいては今日のフクシマに密集させられた原発処理・除染労働者や全国全領域に散らされた非正規労働者の命運に連なる、その要となる日雇全協ー日雇い労働運動の、その破壊をめぐる徹底的な総括ぬきに労働運動の未来も労働者人民の解放も絶対にあり得ないと確信するゆえに、黙ることなどできるはずがありません。

 

 ★★下のKMT批判の小論は▽▽紙への掲載を執拗に妨害されたものである★★

 のちに下のこの小論が「世に出た」のは、▽▽派の某「指導部」の推薦があったからなのだが、それも実際、「こんなダラダラした冗長な文章は載せられない」と難癖まで付けられるなどの数度の妨害にさえあって遅れに遅れた。(火急の党派闘争の武器とするより「本工主義」の党内闘争(?)または本工主義の居直りが優先された、と断言せざるを得ない)。

 しかも、下にそのまま掲載するように、この小論はじつにわざとらしく、さらに「編集局」によって「上」「中」「下」にわざわざ小分けして三分割され、まるで目立たない記事にされ、そのためもあって、党内の誰の記憶にも残らないような「▽▽派初の寄せ場論文」となってしまった。KMTグループ発生後も、このように「本工主義は全力で組織された」ということである。

 ともかく、そうしたいわく付きの(私にとっても初めての)論文であったことを前置きとして述べて、──一部は判断して伏字などに変更していますが──当時の時点でのKMT「寄せ場運動」批判であり、運動史の論評であるので、全文をそのまま掲載します。

※※以上は「前置き」です※※

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★★★★★2002年春(?)羽O弾圧出獄後の初掲載…

“団結夏祭り”を成功させ日雇い労働運動の前進を(上)

権力・業者となれ合う日雇い労働者の敵、KMTグループ根絶へ

   ……………○○○○(署名…以下、省略します)…………

 「有事立法」をはじめとする戦争とファズムの攻撃が煮つまるなか、ニセ「○日労」=KMTグループは、県警―公安に手厚く庇護され日雇い・野宿労働者と全労働者階級人民への敵対の度を深めている。他方、名実ともに福岡・築港の寄せ場労働運動の歴史的全格闘地平を継承する○日労は、権力・行政・KMTグループなどの反革命が束になっての破壊攻撃を敢然と打ち破って、春闘、野宿労働者叩き出し攻撃粉砕を大衆的実力闘争で闘いぬいている。三里塚決起、安保粉砕闘争決起をかちとり、それらの成果をうち固めて今夏、第十七回団結夏祭りの勝利から全階級戦線に躍り出ようとしている。

 恐慌・大失業―戦争・弾圧が吹きあれる激震の時代にあって、あらゆる転向分子や路線転換勢力が権力―行政への「陳情」と屈服にのめり込んでいる。また、ブルジョアどもと肩を並べて「ワークシェアリング」を口走ることによって、現場実力争議を軸にした階級形成に敵対している。KMTグループとそのでっち上げたニセ「○日労」(以下、ニセ「組合」)の攪乱・敵対を粉砕し、五同志虐殺に報復し、戦時下の戦闘的階級的労働運動の大前進を実現するために、KMTグループ=ニセ「組合」反革命運動に壊滅的批判を加えていく。

【ニセ「組合大会」でっち上げ、○日労破壊を粉砕せよ】

 権力―行政・資本への従属を強要するニセ「組合」は、昨年十二・一六「組合大会」なるものをでっち上げた。いうまでもなくこれは、「脱退」や「除名」などブルジョア法感覚にどっぷりと漬かった「手打ち」屋=KMTの指令によるものである。また、○日労破壊と戦闘的組合員への攻撃の証しを庇護者=国家権力に示して、延命を策すためにだけ仕組まれた正真正銘のでっち上げ「大会」である。「○日労」僭称スパイ分子=坂○は、『崩壊』一月号の片すみにデタラメな「報告」を書きなぐった。当然ながら、反権力も反資本(―対業者闘争)も野宿労働者への叩き出し攻撃との闘いも語られていない。権力―行政と資本に忠誠を示した反革命の自己証明書と呼ぶべきものである。

 第一に、ニセ「組合」はその出生において徹底した反革命性・反労働者性に満ちている。ニセ「組合」出生の不可欠の条件はただ反革命弾圧であり、九九年十一・一四森○同志虐殺の反革命テロルであった。ニセ「組合」でっち上げに際しては、「坂○はもともと○日労組合員だ」なるデマが唯一の拠り所であった。九〇年に三里塚から脱落・逃亡した当時から、一貫して九〇年脱走グループ内の小市民生活を夢見ていた坂○は、小器用に団結の外に「自由の空間」を求めた。こうした自己欺瞞の結果の一つが、釜ヶ崎での「微罪」弾圧における自供・屈服である。二つが、「釜ヶ崎ではヤクザが強くて争議はやれない」とほざいた釜ヶ崎労働者への敵対であり、三つが、「KMTくんが負けるはずがない」という超主観的打算をもってのKMTへの隷従である。こうして森○同志虐殺の尖兵となり、ニセ「組合」手配係となったのである。

 いうまでもなく、ニセ「組合」には○日労の歴史的格闘に対する一片の継承性すらない。そればかりか、唯一「もともと○日労組合員」とでっち上げたはずの当の坂○が、福岡での敗勢に次ぐ敗勢のつめ腹を切らされて、いまでは東京・山谷手配係として「出家」させられている。まさにKMTグループ内においてさえ「継承性」などズタボロなのである。こうしてでっち上げられたニセ「組合」や「大会」なるもの、さらには戦闘的労働者への「除名」なるもののデタラメとその存在自体の反革命性は幾重にも明々白々である。

【○日労の歴史的格闘の歪曲・抹殺を許すな】

 第二に、ニセ「組合」は福岡日雇い労働運動史上、いかなる意味でも無縁であることを白状した。坂○「報告」は「八五年から九五年までの日雇全協グループの問題点」として、「仕事がある者が野宿する労働者を救済する運動に変質させていった」と書く。だが一つに、〈実力争議からの逃亡、救済運動への歪曲という路線転換〉のゆえに対金町戦も諸差別との闘いも放棄したという点で、正確には「路線転換グループ」というべきを、あえて「日雇全協グループ」と言い換えたのはスパイ転向分子特有の典型的な清算主義の吐露である。と同時に、今や反革命サークルの意志一致としても「路線転換」(より正確には総転向、総スパイ化)を公然と掲げているからである。二つに、「救済する運動に変質させた」とは、KMTらが書いたおのれの主観的な山谷「総括」の文言を○日労に当てはめようとしただけの完全なねつ造である。

 そもそも○日労の歴史においては、当初からキリスト教的救済運動およびこれに相乗りした新左翼右派ブロックの市民主義運動の諸限界を含み、他方これとは区別された、後に〈筑豊からの告発〉として表出していく戦闘的大衆運動がはらまれたものとして出発したのである。山谷や釜ヶ崎においては、反戦全共闘運動の波及をうけながら独自の戦闘的突出をかちとりながらも、その後退・変質をくぐってきた。そしてこれを基底として、寄せ場・日雇い労働運動は〈九〇年代寄せ場解体攻撃をめぐる路線転換か革命的飛躍か〉として問われたのである。○日労においてもまさに実力争議を機軸に据えきるか否かの階級的分岐として闘われてきた。それ自身としてもまるで的はずれなKMTの「総括」を当てはめようなど、まさに現実の労働者人民の格闘の頭上に君臨する宗派の所行なのである。こうしてニセ「組合」は九五年以前も以後も、現実の福岡日雇い労働運動とはまったく無縁であることを白状したのである。

…………………………………………………………………

(中)

   …………○○○○……………

【〈告発・糾弾〉に敵対する差別映画上映強行糾弾】

 第三に、でっち上げ「組合大会」では、九五年に逃亡した○日労旧執行部の問題は「『映画問題に現れた差別問題への居直り』として総括され」た、と一知半解を披露した。

 当時の全協において○日労は、差別映画「山谷―やられたらやりかえせ」に関して、主たる〈告発・糾弾〉である「筑豊からの告発」の責任当該組合として確認され、またその責任において(諸限界をはらみつつも)長期にわたる内的格闘を闘ってきた。したがって、当時の日雇全協運動に関わったすべての者が〈告発・糾弾〉をうけとめ、主体的自己批判こそを実践的回答としなければならないものであった。

 にもかかわらずニセ「組合」の口上は、まず一つに、それがいかなる打撃でありいかなる差別であったのかをまったく語れない、典型的な〈差別問題の政治的利用〉である。したがって二つに、「脱退」や「除名」のみをもって「解決」と言いなす政治手法は〈告発・糾弾〉の隠蔽・もみ消しであり、「告発」にはらまれた元炭坑労働者・失業者や部落大衆・在日朝鮮人民の闘いに対する直接の敵対である。三つに、これら一切をすべて闇に葬り去るニセ「組合」こそは正真正銘の差別主義反革命なのである。

 ▽▽派とKMTグループとの違いを、「多くの限界と克服すべき課題に直面したとき、徹底してこだわり実践的に突破していくのか(否か)」(『崩壊』一月号)といってのける反革命どもの欺瞞にはあきれるばかりである。こうしてついにニセ「組合」は本年一月一日、福岡県警公安が見守る博多・明治公園でこの差別映画の上映を強行した。何よりも〈告発・糾弾〉の当該さえ内在しているというべき福岡の日雇い労働者にむかって、また怒りさめやらぬ元炭坑労働者や部落民労働者・在日朝鮮人労働者にむかって、ごう慢にも「山谷に学べ」と説教したニセ「組合」差別ビラをまき散らし、「泣き寝入り」を強制しようとしたことを断じて許すことはできない。まさに、「〈筑豊からの告発〉は市民運動・上映運動への敵対だ」などと言い放って差別的上映運動にひた走った路線転換グループの所行を、さらに右から踏襲するものである。

 こうした差別主義反革命分子を生み出してしまっただけでなく、差別映画上映を許した痛苦な現実を踏まえ、少なくとも以下の点についてわれわれの根底的自己批判にむけた実践的課題を鮮明にすべきと考える。

 一つに〈筑豊からの告発〉は、当該労働者人民自身の解放をかけて日雇い労働運動との連帯を求めるがゆえの死活性をはらんでなされたこと。直接には部落大衆・在日朝鮮人民によって糾弾が開始され、また筑豊の労働者の闘いの地平において告発されてきたこと。だからこそ、それらの労働者・被差別大衆・被抑圧人民との戦闘的階級的共同を実現していくための闘争指針を鮮明にし、またその現在的格闘をもって実践的回答とすべきこと。したがって、「問題のシーンをカットすればケリ」(KMT)なる欺瞞・差別敵対を断じて許してはならないこと。この差別敵対を許したことによる打撃の重大性において、より痛苦な自己批判と克服の決意をもって必ずやこの差別主義反革命集団を解体・根絶すること、である。

 二つに、こうした〈筑豊からの告発〉に連なる朝鮮戦争下の実力反戦闘争を闘いぬいた北九州港湾労働者の闘いや、部落大衆が総決起して闘った三井・三池闘争、そしてダイナマイトで武装決起してきた在日朝鮮人労働者の闘いなどの階級的意義とわれわれ自身の課題を鮮明にして、日帝参戦下における階級的革命的労働運動の総進撃をかちとることによってこそ、その実践的回答とすることである。

【ケタオチ業者と癒着した労働争議破壊の尖兵】

 第四に、ニセ「組合」による○日労ケチつけの核心は、「金を目当ての労働争議への変質」(ニセ「組合」の「大会報告」)なる逆立ち規定である。ここでもKMTらはなんと○日労を「九九年まで▽▽派に利用されていた組合」(同前)などと、「日雇い労働者などいつでも利用できる」というKMTの根深い労働者蔑視を書きなぐった。またさらにこの意味するものは、つまりKMTらがはるか以前から革命党破壊と労働運動の小ブル的物理力化という文字どおり脱走・転向分子の視線において○日労を敵視し、破壊を策動していたことをも自白したということだ。

 まず動かしがたい事実として、ニセ「組合」は権力との結託による九九年十一・一四反革命と十二・三一労働者襲撃をもって○日労破壊に突進した。ニセ「組合」は福岡県警公安私服どもと並んで築港机出し―労働相談闘争破壊をくり返し、机を破壊し組合旗を破り組合ニュースを強奪することで権力からますます認知されたものの、それ以来そのニセ「組合」の反革命ビラには一片の労働争議報告もなければ、対業者闘争を呼びかけたことさえない。もちろん労働運動弾圧への告発もなければ野宿労働者叩き出し攻撃への対決を呼びかけたことさえないのだ。きまぐれに「業者」に言及したビラも、たとえば「労働局が築港に来る」などと行政広報ばりの見出しをふって「アブレ、違法業者ののさばりに責任をとらせていこう」などというものだ。すべては行政に頼めと実力決起を制動し、行政が「違法」業者を「適法」にしてくれると、とんでもない体制内改良主義の幻想を振りまいている。こうして「権力・行政・業者とは争いません」と言外に明記された反革命ビラを、奴隷証明書としてそのつど公安私服や手配師どもにまき散らしてきたのである。

 また、ニセ「組合」のほざく「春闘」の反労働者性はとりわけ極悪である。ニセ「組合」が「成果」などという築港出入り業者の「デヅラ表」なるものは、さながら業者手配広報であり、ブルジョア的差別賃金体系をそっくりそのまま書き連ねた代物である。ニセ「組合」は、資本(業者)による労働者の分断・支配の永遠化をこいねがうのだ。

 それらの「成果」として、○日労が最悪のケタオチ業者として実力争議を叩きつけてきた「伊崎」のような正真正銘の「違法」業者こそが、瞬時にこの争議破壊集団の素質を見抜いてすり寄り、ニセ「組合」もこれとなれ合うことで、自分たちだけはアブレ地獄から「解き放たれる」のである。実際「金を目当て」なるケチつけこそは、「日本の賃金は高すぎる」という言いがかりを典型とした、労働争議を憎悪するすべての資本・権力の例外のない常套句ではないか。これこそ純然たる資本・権力の側への転向宣言であり、「労働争議を破壊せよ! 闘う○日労を解体せよ!」という反革命宣言なのである。

【労働者の運命を行政に白紙委任する反革命陳情運動】

 第五に、ニセ「組合」は、「九九年までの▽▽派に利用されていた組合の問題点」は「仕事寄こせの闘いの放棄」であったとも言う。そもそもKMTグループの語る「日雇労働者」とは、権力―行政どもが差別的に「ホームレス」などと呼称することと同一の感性において焼き直したものである。つまりニセ「組合」は、「○日労は野宿者の要求を闘わないぞ」とデマをとばすと同時に、日帝労働行政の尻押し運動としてみずからを支配階級に売り込んでいるのである。

 そこでまず、○日労へのまるで的はずれなこのケチつけから粉砕しておく。九五年以来○日労は、築港出入りのヤクザ手配師・業者との対決から対日通争議まで息もつかせぬ数段の労働争議を攻め込みながら、例外なく公安私服どもとの肉弾戦を伴う熾烈な対職安実力交渉を積み重ねてきた。そして、公園での叩き出し―野垂れ死に攻撃と対決する移動労働相談闘争を組織し、とりわけ公安私服・鉄道警察隊・JR当局と対峙する博多駅コンコース実力制圧戦を何段にも闘いぬき、また敵対するヤクザ手配師を実力で叩き出してきた。他方、こうした実力闘争を基礎に医療相談を闘い(陳情や行政まかせではなく!)、直接に福祉事務所や病院に当該労働者と共に押しかけ、労働者人民への医療を監視し、また戦闘的労働者・「障害者」・学生との共闘をうちぬいてきたのである。まさにこうした闘いとして突出してきたからこそ、度重なる弾圧がしかけられ、また粉砕してきたのである。げろっぱき坂○らが公安私服どもとカルガモのごとくなれあったニセ「組合」などとは、まさに対極に位置する闘いである。

 一方、このニセ「組合」が「仕事寄こせの闘い」などと得意がる、その対行政陳情運動をみておく。ひとつにそれは、日雇い労働者の実力決起を制動・抑圧する「運動」である。ニセ「組合」は「アブレと野宿を作り出す原因は市役所だ」(ニセ「組合」ビラ)といいたて、〈アブレの責任は業者ではない。行政に解決能力がある〉とがなる。さらにまた、小泉の「緊急雇用対策」を賛美して「『交付金事業』もアリバイに終わってしまう危険性がある」(同前)と言いなして、これがアリバイでないかのようにさながら民主党の口振りで労働者を欺き、また「アブレ地獄」が「交付金事業」によって解決しうるかのように欺く。何よりもこの「緊急雇用対策」が、現下の「解雇立法」攻撃と不可分一体であることを隠す。こうした手法をもって、ニセ「組合」は労働者の武装解除を迫るのである。

 ふたつにこの「運動」は、労働者自身の死活的利害を組織するのではなく、行政にすべての「解決策」を丸投げし、〈行政のフリーハンド〉に決して口出ししない。つまり、帝国主義的労働政策の完全な尻押し運動なのである。ニセ「組合」は仕事・医療・生活保護などについて「行政に解決策を出させ」ると称して、実際にも〈福岡市…ホームレス担当〉――なんと労働者をなめきった部署か!――に「申し入れ」て、「就労対策…『住所』…の問題について、どのような解決策を考えておられますか」――なんという奴隷の物言いか!――などと書く(ニセ「組合」の「申入書」)。

 こうして、○日労が対市行政闘争においては必ず労働者実行委員会を組織し、“もっと市所轄の仕事を出せ。ドヤを、入院先を「住所」として認めろ。公園課による叩き出しをやめろ”などの具体的要求を練り上げて、突きつけてきた地平を破壊した。ニセ「組合」は、行政に「労働者の運命を決めてください」と陳情するのである。「労働者の切実な要求を汲みつくす努力を一切していない」(「報告」)のは、まさにニセ「組合」自身である。

 みっつに、したがってこの「運動」は寄せ場拠点廃墟化運動である。すなわち、この陳情運動の反革命的本質は、権力を友軍とし坂○を手配係とする「動員」がすべてであって、「労働者自身の事業」として発展する回路を封殺している点にある。本来的にいって、個々の労働者の要求(怒り)の中に鋭く「賃労働と資本」の矛盾がはらまれているがゆえに、個々の切実な具体的要求を掲げ貫く闘いこそが赤裸々な敵の姿を暴き出し、またこの闘いと団結の発展をとおして〈個別的要求〉は〈普遍的要求〉へと転化し、鋭い階級対立(闘争)へと発展していく。だがニセ「組合」は、労働者の個別要求を見下して、教祖KMTの小ブル的観念で、労働者を階級融和(圧殺)の道へひきずりこむのである。結局、この陳情運動で要求されているものはニセ「組合」の「認知」、それのみである。

 まさにKMTグループはM大拠点廃墟化と同一手法で、寄せ場解体攻撃に呼応する寄せ場拠点廃墟化運動に突進している。その核心は○日労破壊であり、すべての戦闘的労働運動の破壊である。

 ニセ「組合」はさらに以下のような“労働者虐殺要求”を書きたてる。

 ひとつは、「東京、大阪で実施されている越年対策を福岡でも」と煽動していることである。なるほどKMTグループは、争議を破壊して久しい山谷、釜ヶ崎についてなんと資本となれ合った「労働行政の縮小」のみに反対する(『崩壊』十二月号)。また、福岡のあらゆる市民主義的救済運動の常套句も「東京・大阪のように」であった。だがまさしく「労働行政」の本質は、階級矛盾の隠蔽、階級闘争圧殺にこそあるのだ。そして今日の「労働行政の縮小」の核心は、階級矛盾の爆発に身構えたレッドパージと労働者虐殺にほかならない。ニセ「組合」はこの攻撃を必死で隠すのだ。

 ふたつは、ニセ「組合」はなんと「風邪薬など家庭薬を病院や福祉事務所にわざわざ行かなくてももらえるように」(「申し入れ」)と要求した。とんでもない。日雇い労働者、とりわけ野宿を強いられた労働者が病院や福祉事務所から〈足が遠のく〉のは、〈めんどうだから〉というような労働者自身の原因によるものではなく、病院や福祉事務所の現場においてくり返し差別的に排除され、極悪医療を押しつけられてきたからである。行政官僚の視線で野宿労働者を見下ろすKMTグループはすべては労働者がだらしないのだとなじり、〈福祉事務所に「わざわざ」来るな!〉と行政官僚そのままの言辞を吐くのだ。そして〈行政の認知〉と引き替えに〈ニセ「組合」が「行政代行」として恩着せがましく風邪薬をばらまいて、労働者を黙らせてみせる〉とほざいているのだ。

 みっつは、「舞鶴公園や山王公園で三名の野宿する労働者が亡くなった」ことをもって、「福岡市の対策の有効性・迅速さに問題があった」(「申し入れ」)と言い放ったことである。ふざけるのもいい加減にしろ。福岡市行政こそ警察と一体となって重病に倒れている野宿労働者さえ公園から叩き出し、あるいは「狩り込み」など、つねに労働者虐殺の尖兵だった。さらにはこの市行政こそ〈労働者虐殺行政糾弾!〉の闘いに対して、毎年のように大量の公安私服どもを庁舎に乱入させて弾圧を乱発させてきた、労働者人民の敵である。

 再度暴露しておくが、ニセ「組合」はすでに〇一年四・一八付の反革命ビラで、「無料宿泊所をはじめとする救護施設の建設を」とさえほざいた。日雇い・野宿労働者がブルジョア法秩序を実力で突破し、現場といわず野天であろうと生活拠点を構築し守り抜いて野垂れ死に攻撃をはね返そうとしているときに、ニセ「組合」は隔離・収容―抹殺と治安管理を煽動するのだ。そもそもニセ「組合」のみならずKMTグループのすべての文書において、〈野宿労働者叩き出し攻撃粉砕〉の文言が完全に削り落とされているのは一体どういうことか。〈叩き出し攻撃〉容認の意思一致を完了したKMTグループは、今やひとり残らず山○○・松○○○の腐敗を共有している。野宿労働者に襲いかかる差別襲撃者の感性こそは、まさにKMTグループの信条なのだ。

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(下)

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【「反権力」の偽装すら捨てたニセ「組合」】

 第六に、このニセ「組合」の極めつけの本質は、福岡県警の最大級の重警護のみを唯一の生存条件としている点である。

 ニセ「組合」の反革命罪状のひとつは、県警公安の誘導による九九年十一・一四反革命テロルと、さらには十二・三一労働者襲撃を凶行したことである。ふたつに、公安私服と坂○が肩を組むほどになれ合いながら○日労破壊を続けていることである。みっつは、「○日労弾圧に対決するな」として労働者への武装解除を強要し続けていることである。よっつに、ニセ「組合」はさながら「自警団ファシスト」のように白昼公然の反革命武装を奨励されている。県警本部や中央署に隣接する対県・対市行政交渉現場でさえ、バットケースをもってシュプレヒコールに加わり、これ見よがしに写真で公表して恥じない(九・二六ビラ)。いつつは、闘う○日労組合員への「除名」を無力にがなり立てたことである。とりわけその無力な「除名」の筆頭に掲げられた福日労委員長は、組合の戦闘的階級的飛躍への基礎をなす築港机出し―労働相談闘争と実力争議の先頭で闘いを牽引してきた。九七年弾圧以来の連続的弾圧の矢面にたち、現在直下獄中不退転で闘いぬいている。自供・転向分子坂○らによる戦闘的組合員を名指しした「除名」など、闘うものにとってはむしろこの上ない“誇り”である。

 ニセ「組合」には「反権力・反弾圧」の口上が欠落しているだけではない。この反革命どもは今や権力―公安の感性そのものにどっぷりと浸りきっている。ニセ「組合」が「仕事寄こせ」と陳情するその内容たるや、たとえば「迷惑駐車防止対策」「路上駐車の実態調査」「放置自転車対策」「ガードレールのポスター除去」等々と、どれもこれも日帝警察やこれに協力する町内会が治安管理の一環としてきた「業種」ばかりである。しかもこれらの「自警団」活動に労働者を引き回すための口上として、「専門知識がいらない」だの、「体を動かす」仕事だのと労働者蔑視に満ちあふれたものである。総スパイ集団として権力とじゃれ合うことを日常としてきた連中の感性とはこういうものだ。

寄せ場解体・労働者虐殺の「ホームレス法」粉砕へ】

 ニセ「組合」―KMTグループのぶざまな転落の対極で、○日労は〇一―〇二越年・越冬闘争、寄せ場〇二春闘音羽公園叩き出し攻撃粉砕闘争を圧倒的な勝利感に満ちて闘いぬいている。

 組合結成準備会から結成へ、そして戦闘的「障害者」との断固たる共闘の発展へ、という闘いの産みの苦しみの時には、野宿労働者への差別襲撃と権力―警察の差別的介入に対決し白刃を手に実力糾弾決起した「荒木裁判闘争」が、組合と共闘を頑強にうち鍛えた。○日労がうち抜いてきた〈労働者虐殺行政糾弾!〉を核心とする対行政実力闘争の歴史的格闘は、まさにこの野宿労働者の実力糾弾の怒りを基礎にすえたものである。またこの闘いは、差別虐殺への怒りを共有する全障連○○ブロックの――「障害者」を荒木裁判闘争傍聴支援から排除しようとした司法権力の差別攻撃を契機に――福岡地裁糾弾の九州各県からの総決起と地裁占拠闘争さえ呼び起こしていった。

 この日雇い労働者と「障害者」とのともに実力決起した共闘地平を、とりわけ旧執行部による「障害者」との共闘からの逃亡をも見抜き粉砕し、画段階的に継承発展させてきた地平において、今夏の第十七回福岡日雇い団結夏祭りが闘われようとしている。共闘に結集する「障害者」は、度重なるKMTグループの差別襲撃をはねのけて闘おうとしている。とりわけ○日労の団結夏祭りにおいては、「障害者」が決起してきたのみならず、ここにおいて結集する在日朝鮮人労働者が、部落民労働者が自らの社会的存在と闘う決意を公然と表明し、また共闘においても断固として受けとめてきた闘いである。

 まさに、あらゆる差別に対する実力糾弾闘争とその階級的発展こそを合言葉に、闘う「障害者」との共闘、部落民労働者、在日朝鮮人労働者の決起を○日労の内実としてうち固めること、権力・資本(業者)、ヤクザ手配師との実力闘争を貫くこと、学生実行委との共闘―労学連帯の地平をさらに深化・発展させること、〈筑豊からの告発〉に応え階級的に共有・発展していくこと、などが九五年以降はっきりと確認されてきたのだ。

 “ニセ「組合」を叩きつぶせ!”とはち切れんばかりの労働者の怒りが、○日労の闘争史上でももっとも感動的な革命的階級形成の瞬間を刻み続けている。○日労のいかなる試練の時にも、必ず階級的な団結が飛躍的な闘いを生み出し、飛躍的な闘いがさらに飛躍した団結の前進を実現してきた。

 激烈に進行する戦争突撃下の階級攻防の現局面において、「新左翼」のすべての地平を清算して小ブル諸潮流の劇的転落と逃亡・敵対が開始されている。「有事立法」粉砕、天皇訪韓阻止、そして三里塚・狭山・国鉄・沖縄をめぐる(拠点)攻防が労働者階級の歴史的反転攻勢の現実の突破口である。三里塚反対同盟や闘う国労闘争団の頑強な闘いが、勝利の現実の根拠を維持・発展させている。そして路線転換勢力や転向反革命どもを尻目に、階級的原則的な闘いを発展させる○日労と全国の日雇い・野宿労働者の闘いもまた巨大な全労働者人民の反転攻勢への確固たる一翼を形成している。

 ○日労をはじめ闘う労働者人民の闘いは今夏の激闘をとおして第一に、敵の寄せ場解体攻撃に対決し、就労現場・拠点(築港)―地域拠点(駅・公園等)をつらぬく大衆的実力決起を基礎として、権力・KMTグループ一体となった組合(運動)破壊を粉砕して巨大な全国的波及力を形成しつつある。われわれは必ずこの闘いに応え連帯し、KMTグループを解体・根絶する。そして、獄中全同志の完黙―非転向闘争勝利の地平と結合し、一点▽▽派に照準を定めた破防法型弾圧の本格的発動を断固粉砕し、共に闘う。

 第二に、○日労はその歴史的格闘地平をうち固め、集中する白色テロ・弾圧のただなかで「障害者」、部落民労働者、在日朝鮮労働者をはじめとした労働者人民の共闘の内実を鮮明にうち出している。自らのその闘いをもって、日雇い労働運動から全階級戦線の(※労働者階級的な)統一戦線への発展可能性と波及力を現実に提示しようとしている。われわれはこの闘いに応え連帯するなかから、それらの教訓を壮大な党―統一戦線―共同戦線の実現へと組織化し推進していく。非合法化時代への突入下、確固たる〈蜂起―コミューン〉路線の堅持こそがここでも決定的な生命線である。

 第三に、○日労をはじめ全国の日雇い労働者の闘いは、「ホームレス法」攻撃が示すように、労働者存在の本格的非合法化に非和解的に対立せざるを得ないものとして、その闘いは全国で争議を闘う労働者の闘いとともに、本質的にプロレタリア革命へと貫き通していく徹底性を胚胎した闘いである。総臨時化と未曾有の大量失業が襲いかかる今日、全国の大小の寄せ場からの決起とその推進・組織化は必然的に地域合同労組的要素を育む。そして、全被差別大衆・被抑圧人民との現実の連帯・共闘を死活的に課題とさせ、また必ず現実の結合へと発展していくものである。

 われわれは大胆にこれを推進して階級決戦を準備する。

 勝利は必ず闘う労働者と人民のものである。五同志虐殺に報復し、ニセ「組合」=KMTグループを解体し、夏祭りの成功をかちとろう。野宿労働者叩き出し粉砕闘争を発展させ、戦時下の反革命弾圧と闘う労働者人民への白色テロを粉砕しよう。

 築港・駅・公園を貫く実力争議・実力闘争の歴史的格闘地平をうち固め、国鉄・本山・中小争議と結合し、反戦闘争、三里塚闘争に実力決起し、階級的労働運動の総進撃をかちとろう。

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…………………………………………………………………(この小論、以上です)

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□■□(その2)2002年夏?

 小論『「ホームレス法」批判』を掲載する

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★★★★★寄せ場解体・労働者虐殺法=

「ホームレス法」成立を許すな

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★※…【本ブログのための前書き(注釈)】

 掲載した紙面に与えられた枠の関係で本論はごく短い小論になっているが、本論に提起した視点は、当時も、その後は当時以上に重要な意味を示すと思うのでここに掲載して紹介した。

 主に注目すべき点は…

①この攻撃が、そもそも生活保護の制度と思想というものがその美辞麗句の裏側に隠していた「自立せよ」という労働者恫喝を、この時期に前面に出して、この時期移行たて続けに「障害者」や「女性」など全人民に対して『自立支援』=「自立せよ」「生きられないのは自己責任」とあけすけに恫喝して戦後生活保障制度の破壊に公然と踏み込んだことである。

②またすでにこの時点で「新宿連絡会」などといった、全国日雇い労働運動の(いわゆる)路線転換グループは「ホームレス法の制定を要請」したり、すでに「新宿区保護課窓口に机を並べて行政業務に従事」したり、日雇い労働運動それ自体の破壊に突っ走っており、そうした屈服の推進と一体の攻撃であったことである。

③したがって(すでに随所で明らかにしてきたところの)80年代の東京・山谷の白昼の大乱闘のはてにこの路線転換グループと(当時は▽▽派であった)KMTらが「公然と手打ちした」こと、および、その後それぞれが(自称「日雇全協」と「全国寄せ場交流会」とを名乗って)いずれも国家権力に保護・認知された集団として仲良く「棲み分け」て「行政の手先」の道をひた走っていったことも、この「ホームレス法」攻撃と一体であったことが明らかになる。

④さらにまたそこから、こうした「体制内安住」の世界をこい願って、90年代後期のKMTらが「総転向」あわよくば「▽▽派まるごとの」と、運動破壊・組織破壊をしかけていった事情も明らかとなる。

⑤こうした流れと、いわゆる「映画問題」=『筑豊からの告発』の破壊の流れはその時期もその方向性もまったく一体である。国家権力は『筑豊からの告発』がはらんでいた労働者階級的内容も(以前の)日雇全協運動がはらんでいた労働者的階級性・戦闘性も、なんとしても根絶しなければならなかった。路線転換グループとKMT(たち)は見事にその手先の役割を果たしたのである。

⑥私自身は決して同時進行でこうした攻撃を見抜けていたわけではない。むしろ翻弄されたまま『告発』当該の方々に迷惑ばかりかけるていたらくであった。しかし99年に「何が何でも」と実にぶざまにKMTらが「脱走」したとき、その「脱走」のテコが「山谷─寄せ場」であったことから、私は(直後からの獄中闘争の中で)こうした攻撃の全体像とKMTらの「脱走」のカラクリを全力で分析して暴いてきた(はずであった)。当時は▽▽内では(自主的な総括作業への合流を期待して)「同志」たちへの辛口の苦言は極力避けたのだが、私の多くの提起は、実は…KMTの所行を組織的に追認してきたはずの東京地区や▽▽中央部員の責任(!)を明らかにするものとならざるをえなかったし、また彼らの報告を求めるものであった。公式の会議の席上で「報告」「総括作業の協力」を求めたことは二度や三度ではない。が、そんな私の討論提起に対しては何と「味方への黙秘」という仕打ちが続けられただけであった。▽▽▽の誰もがこの「ホームレス法」攻撃の意味に関心も示さなかったのは、下層労働者を蔑視し分断する本工主義のせいだけでなく、「KMTグループ発生を許したことの責任のがれ」を含んでいるはずである。そのことも含めて、この小論は短いながら(ご都合主義者たちの思惑通りに)消させることは絶対に出来ないのである。

⑦その後、現在に至るまでに、KMTグループは絵に描いたように「行政の福祉にすがれ」「労働者は実力で闘うな」という「路線」に徹し、路線転換グループは山谷・釜ヶ崎などでNPO貧困ビジネスのやり方でまさにチンピラ手配師同様に労働者から身ぐるみを剥いでふんぞり返っている。その、お互いの「仲の良い」こと。彼らと権力・行政の「仲の良い」こと。……その対極で「従わない者」として例えば○日労運動や全障連○○ブロックの運動が(同時に、意識的か惰性かにかかわらず、それら運動の内在推進の位置にあった)▽▽派がのちの「組対法」弾圧にいたる総攻撃を受ける必然へと向かったのである。……つねにそれらの大衆運動を意識的かつ全力で内在的に推進するべく努力していた(と自負する)私は、当然ながら権力公安どもの最大級の憎悪をあびて弾圧されたし、当然それを引き受け粉砕して闘ってきたのである。私はその公判に関係するすべての文書でこうした攻撃性格と弾圧の必然性を提起している。そしてそれらは▽▽▽に居残っている誰にも継承も共有もされてはいない。

⑧今では誰でも知ることだが、全国の街角から「ホームレス…野宿労働者が生活している風景」が急速に消されつつある。だが少しでも「善意」で関心を持つ者なら「彼らは公園や河川敷という生活拠点を追い出され、追い回されて、いまや夜の町のわずかな居場所を求めて歩かされ続け、そうして命を削られている」ということも知っている。首を切られ失職し、派遣としてバナナの叩き売りのように安い労働者にされ、叩き売られてはゴミのように捨てられ、生きようとしても生きる場も奪われ、「自己責任だ」という冷酷な言葉を浴びて緩慢に殺されていく。片やこの国と行政は「臨時宿泊所(収容所!)に行けばいいじゃないか」「生活保護はぜいたくすぎる」などとふんぞりかえっている。そこにNPOの名札をぶら下げたヤクザ業者や「元労働運動家」が貧困ビジネスで追い討ちをかける。「革命的」という言葉に自己陶酔した「カクメイテキロウドウウンドウ」が「今は日雇い労働者もホームレスも少なくなった」とほざきながら涼しい顔で通り過ぎていく。……すべては支配階級の思うツボなのである。

⑨したがって、当時の「労働者派遣法」「自立支援法」「NPO法」などと一体としてこの「ホームレス法」の攻撃に着目し、執着し、粉砕しなければ、階級的戦闘的な労働運動の再興は望めない。今や本工主義は、その実にサエナイ消極的な意義さえも完全に失って歴史使命を終えた。この歴史と現実の中で、「闘う総評をもう一度」などと夢見るなど、もはや悲劇である。

 「すべてを奪われた者」の「もっともラジカルな要求」で団結することでしか真の反逆は不可能である。

 まとまらないが、上に述べたようなことを示唆するものとして以下の小論はあった、という指摘を述べて、「前書き」としたい。………(以上、本ブログのための、以下の小論の前書き)※★

 

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 七月三十一日、いわゆる「ホームレス法案」(「ホームレスの自立の支援等に関する臨時措置法案」)が十八日の衆院本会議に続き、参院本会議で全会一致で可決され成立した。本法は自民、民主、公明、社民、保守各党の共同提案によるもので、「ホームレス自立支援」のために国や自治体がとる施策として、①ホームレスに安定した就業機会や住居を確保し、健康診断を実施

②ホームレスになる恐れがある人が多い地域などで生活上の相談や指導を実施

③宿泊場所の一時提供や日常生活に必要な物品の支給、ホームレスの人権擁護

――などと規定している。

 十年間の時限立法とされるものだが、この「時限立法」の文言は「支配階級の暴力的意思」と読むべきものである。

 本法にもとづく施策の前提は「政府がホームレスの実態を全国調査する」というものであり、日帝参戦下の治安弾圧・労働者人民虐殺を目的とし一挙に加担するための攻撃であることが明白である。

 さらに本法は徹頭徹尾、日雇い・野宿労働者ひいては戦争と内乱の時代に呻吟し格闘するすべての労働者人民の存在と闘いを全否定し、排除抹殺衝動につらぬかれた極悪の弾圧立法攻撃である。全文を通して「ホームレス」と言い放ち、労働者人民をあけすけに「物・道具」とすることを(ファシストやニセ「組合」は有り難がったとしても)労働者階級の感性は断じて許すことはない。

 「自立の意志があるホームレス」などと労働者を選別規定して、“自立(?)の意志がない(=怠け者の)労働者にアブレ・野垂れ死には当然”とする極悪扇動を許すことはできない。

 また本法は、これら選別した(資本・国家に、戦争に役に立つ)労働者のみをブルジョア社会に「自立させる」ことが「目的」と言い、寄せ場解体、労働者階級の団結の解体、あらゆる反逆の破壊が目的なのだと言い放つ。

 さらには、「ホームレスとなることを余儀なくされるおそれのある者」などといい、大量解雇攻撃や戦時下の強収奪のなかで労働者使い捨てと野垂れ死に攻撃に居直り、さらなる攻撃を宣言している。

 さらには「ホームレスとなることを防止する」といい、野宿を強いられようともそこに生活拠点・闘争拠点をうち立て、この闘いにおいて階級的革命的団結を生み出し発展させていく労働者人民の計り知れぬ創造力(打倒・止揚能力)を心底から憎悪している。

 こうして、すでに現在直下に強行されている駅・公園など生活拠点からの野宿労働者叩き出し攻撃を、労働者抹殺攻撃として一挙に加速させることが本法の「目的」だと言い放つ。

 「目的」ではさらに、「地域における生活環境の改善および安全の確保」が「問題の解決」とさえいうのだ。ナチスの「最終解決」=階級矛盾の「解決」としての大量人民虐殺を想い起こせ。

 すべての日雇い・野宿労働者、すべての闘う労働者人民は、資本・権力との非和解・非妥協の闘いを堅持し、「野宿労働者叩き出し攻撃粉砕!」を掲げ進撃する第十七回福岡日雇い団結夏祭りの圧倒的成功を発射点に、全国の寄せ場・野宿―地域拠点から、工場拠点を闘いによって創造していく総反逆へと起ちあがり、本法を粉砕しなければならない。

 「(公園などの公共用地が)ホームレスの起居の場として適正な利用が妨げられた時」には「法令の想定に基づき必要な措置を取る」と明文化し、現行の叩き出し―野垂れ死に攻撃では生ぬるいと労働者虐殺を号令する攻撃を木っ端微塵に粉砕しよう。築港―寄せ場を階級的寄せ場労働運動で圧倒し、ニセ「組合」=KMTグループを解体し、福岡―音羽公園野宿労働者叩き出し攻撃を粉砕しよう。

 音羽公園を中心としていよいよ本格化する叩き出し攻撃を横目に、官許の「夏まつり」をでっち上げる政治的絶命寸前のニセ「組合」は、権力公安との蜜月のなかで、そのニセ「夏まつり」が「故郷を持たない仲間が一同(ママ)に集まって大いに楽しみ共に生き抜く」(ニセ「組合」七・一七ビラ)などとほざいている。権力・行政と同様の「労働者=怠け者」観を満開するニセ「組合」は、本法に弱々しく反対を表明してはみるものの、日雇い・野宿労働者の多くが「故郷」と切断されて生きていることの階級的意味も、「ホームレス」なる敵対的蔑称への階級的怒りも感受しないばかりか完全に浸りきって反革命の正体を露呈している(同ビラ)。

 そもそも争議を闘わないことを路線化したこの奴隷集団のいう、「労働者の使い捨てを許さない闘いなくして…民生対策をかちとれない」(同ビラ)なる空虚な呪文による本法批判(?)もまったく意味がない。今や「福岡市の交付金事業」の広報係になり下がり、〈対権力なき「仕事よこせ」話し合い=「ボス交要求」〉に一切を切り縮め、あげくに行政「福祉」切り捨ての常套手段である担当タライ回し攻撃にも一役買って、「市民局だけが壁だ」などと階級的実力決起の鎮圧を図る――これがニセ「組合」のデッチ上げ「夏まつり」というわけである。

 まさに本法のいう「ホームレス支援」(労働者鎮圧・虐殺と読め!)のため「民間団体への財政上の措置」に示される官製階級融和運動への道、反革命戦争突撃=「城内平和」への暴力的反革命尖兵の道こそニセ「組合」が願ってやまぬ延命の道である。階級的怒りで労働者虐殺法=「ホームレス法」を粉砕せよ。「ホームレス法」の反革命手引き者集団・ニセ「組合」=KMTグループを解体せよ。

  ★※…【付録、として】…

 本ブログを書いている12月某日現在、寄寓にも最も信頼する友人から『子供のホームレス化についてのニュース』が伝えられた。怒りなくしては読めない現実が書かれていた。

 念のために言えば、「家がある」のと「家がない」のと、実はどちらが人間生活的で幸せなのかは、軽はずみな先入観で評論してはいけない、と思う。かつて路線転換グループが「路上生活は不幸」と決め付けて「路上からの脱出」などと(あたかもそれが「解放」への道であるかのように欺瞞して)叫び、『ホームレス法』を後押しし、そのため野宿労働者たちは【権力の強制と暴力で!!】治安対象として恫喝され追い回されて「臨時宿泊所」などの収容所に叩き込まれ、さらには貧困ビジネスのエジキにされてきたから、あえて「路上生活」は「悪」ではない、と前置きしておきたいのである。偽善者たちは「善意」のツラで『ホームレス法』をお願いしておいて、自立支援センターなどを作らせ、補助金に群がり、さらには経営として労働者を再び商品におとしこめて、しかも監獄看守のように通帳まで取り上げておきながら、さらに「迷惑な善意」を売る。

 屋根のある家でも、車中でも、野原でも、人間は自分の好きなところで生活できればいい。

 現代日本のこの現実の問題は、「路上生活」それ自体ではなく、それを【強制した!】この資本主義の支配と搾取、そのはての失業・半失業によって【強制された(!)貧困】なのである。NHKも他のマスコミも「貧困を強制する憎むべき国と資本」という下手人どもを隠しに隠しとおす。「子供がかわいそう」は安易に「親はひどい」に誘導されてしまう。こうして「親」という労働者たちは治安の対象となる。「犯罪者」の烙印さえ押されて殺されていく。だが資本の支配と搾取・収奪の根を絶たれない社会に包まれたままの「子供たち」は、やっぱり〝貧困の連鎖〟として大半は「貧困を強制された親」になるしかないのである。この支配と貧困の終わらない連鎖の中では偽善者や宗教家(やカクメイ評論家)たちの説教もまたアヘンのような毒でしかない。

 要は「労働者階級の団結」である。めざすは資本主義の終焉であり真の解放である。

 そうした怒りをもって、その『ニュース』の要旨のみ転書して紹介しておきます。

  ……………

(その②)=☆コミューン研究☆No.011 に、さらに続く

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■■☆コミューン研究☆ №009

 『行動委員会と党建設』(再録&加筆 ④)

★★※※……(以下は加筆して注釈しました)…………………

 №005、№006および№008は柴田著『マルクス国家論入門』にあててきました。この№009は№007に続いて『行動委員会と党建設』の再録(と加筆)にあてていきます。が、そもそも私のこの小論は獄中下で2010年4月の「○○○号論文」に接し、そのあまりに観念的に歪められた基調に驚きまた憤慨したことをきっかけに書き始めたものでした。要するに「観念的総括?でごまかすのではなく現実の闘争史に立脚した現実的総括を対置しなければならない」と考えたのです。

 ■【闘争史を消すことは、労働者人民から武器を奪うことである】

「そうでなければ▽▽▽として関わってきたすべての大衆の闘いに対する無責任を固定化してしまう」

「▽▽▽が関わってきたすべての大衆運動が国家権力によって計画的系統的に壊滅攻撃を受けて現在に至っている、その闘争史を語れることすらできなくなってしまう」

「それは敵支配階級によるそれぞれの大衆運動の【現実の現在の破壊】の追認行為である、のみならず【現在から未来への道の破壊】となってしまう」

言い換えれば「『歴史と総括(方針)の破壊』であり、つまり『大衆の武器の破壊』である」

したがって当然それは「利敵行為であり、労働者党としては自滅行為である」

…といった危機感をつのらせたから、私の実際に血にまみれた獄中闘争の重要な一環としてこの小論の作業に着手したのでした。

 しかし「観念的な言葉(=精神主義の号令)」ならば──まるで机の上に積み木を並べたり重ねたりするように──いくらでも並べ立てることができるでしょう。(正確にはそれは「念仏」といいますが)。が、これを粉砕して止揚していく「現実に立脚した総括(指針)となる言葉」は現実の大衆闘争史=現実の大衆の言葉や態度で示された怒りの数々とそれへの党の関わりの重要な部分を(可能な限りすべて)思い出して書き止め、かつ一つ一つの事態の因果関係を明らかにできるように整理していく作業を必要とします。

 ■【実践上、〝党と大衆〟の「板ばさみ」から逃げ出す者は「内在的推進」とは無縁である】

 当時の私の場合、独房の手元にあるわずかな資料を手がかりに「知ることのすべてを書き止め整理していく」ことから始めるのですが、そのわずかな資料さえ獄中闘争への報復懲罰によって何度も奪われ、やっと取り返しては作業を進める、その繰り返しの中での作業となりました。

 幸運にも私は若い頃から「地方の活動家」であったと同時に「使いやすい何でも屋」であることを良しとして党活動の様々な領域を飛び回っていた上、この党が「全運動のソビエト的転換を!」と宣言して「労働者と被差別大衆・被抑圧人民の闘いをもっとも推進しようとしていた時代」=80年代から、「その、いわば労農水『障』学…の諸戦線の破壊が進行すると同時にKMTの横暴が助長されて様々な混乱や破壊が進行した時代」=90年代まで、それらの約20年間に「地区」に足場を置いて闘う機会にめぐまれていました。そこで地区の反戦運動(闘う漁民との連帯)・日雇い労働運動・「障害者」解放運動への連帯を闘い、また在日朝鮮人民・部落大衆との連帯をめざして可能なかぎりを尽くそうとしたり、それらのすべてに責任を取れる学生(自治会)運動の構築をめざしたり、といった活動に存分に飛び回ることができていました。

 確かに当時、80年代初頭に(G大学弾圧投獄からの出獄を機に)地区に帰った私は、一方では地区指導部?たちに「東京でエラクなったのが帰ってきたぞ」と疎まれたり、他方では東京の学生指導部?に「SB軍港なんて小さい基地だろう?地区でアレコレ手を出すのは自信過剰だ。学内運動だけやって中央動員にもっと力を入れろ」と会議のたびにダメ出しを食らっていました。そんな断絶の境目でいつも【地区と中央との、労働戦線と学生戦線との板ばさみ】になっていた、そんな苦しい状況と心境は今も思い出します。

 SB反戦闘争に連帯して現地に飛び込んだのは、現地で(かつての侵略の「戦犯」であった自らの自己批判をかけて)闘う弁護士と(弾圧をものともせずに)闘う漁民の姿に率直に感動したからでした。「青い芝の会」の「障害者」の介護に飛び込んで全障連運動に密着連帯していく経過も、日雇い労働運動に支援連帯として参加していった経過も、それらの大衆運動が当時の「自分と決して無関係ではない」と痛感したからであったし、また、ということは「学生運動はそれらの大衆運動と無関係かのようであってはならない」と確信したからでした。

 わざわざこの「私なりの意識的連帯」の経過に言及するのは、「党の任務」として介護に参加したり労働運動に連帯したり、たとえきっかけがそうであったとしても「任務だから連帯する」だけの者は「任務だから破壊する」ことも容易に手を染めるのであり、これは必ず突破し飛躍しなければならないのだと力説したいからです。

 …前回少しふれましたが、特に「精神病者」「障害者」の、「三里塚に行きたい。介護がいなくて困っている」という叫びも、「全障連運動の再建を!関東ブロックの再建を!」という叫びも、聞こえるのに聞かない態度を続ける者たちの欺瞞のことを念頭に書いています。

 「KMTの▽▽活動のすべてを隠す」ことによって▽▽自身の責任を隠し続ける欺瞞。東京・山谷を舞台にした「労働者福祉会館占拠と、白昼公然の大乱闘と、日雇全協破壊」および口実にされた「筑豊からの提起(『映画問題』)」などのすべてを「何も知らない」と言い張って隠し続ける欺瞞のことを書いています。

 三里塚闘争に結集した労働者に排除をくり返したり、闘う現地労働者を決して労働者として組織しようともしない「労働者党?」の欺瞞のことを書いています。

 ……話しを戻します。

 上に述べたような「板ばさみ」の混迷の中からではありますが、私は、中央や指導部?の指示をただ待つのではなく、自ら様々な大衆運動の中に分け入り、自ら判断して大衆と共に闘い、(大衆運動に対して、党に対して)責任をとっていく」、そのような態度を良しとし、また目指して闘ってきていたことでもあり、どれもこれも不十分ながら、どれもこれも学ばせてもらいつつそれらの闘いもまた共有させてもらってきた(その意味では実に幸運な)活動家であったと思います。……こうしたことは、今回出獄した私の分厚い「罪状」「判決文?」が流布されていた

 党の下に属している以上、「あらゆる大衆運動の内在的推進のために闘おう」と立っている以上、次のことははっきりさせねばならないと思います。すなわち、①党には独自の「路線」があり、②それぞれの大衆運動には「それぞれ独自の発展過程」がある、こと。①は②の「指針」となりうるが、しかし②こそ解放と革命の主人公なのであり、そこでの死活利害は何ものにも優先し、①「指針」はつねに②の死活利害によって検証(つまり自己批判と発展)されなければならない。…ということです。

(念のため、ここでは「精神主義や粛清運動の自己批判?」のことではなく「路線と実践を検証し、より発展した路線と実践で大衆的闘いの活路を開いていく自己批判」のことを言っています)。

 「板ばさみ」はこうした「大衆運動と党の発展」のための避けられない産みの苦しみに他ならず、もっとも生産的な格闘なのだ、と私は思います。

 また当然ながら、党が関わった個々の大衆運動がもし敗北的事態に追い詰められたならば、そこには必ず党の関わりの「誤り」または「不十分」が指摘されねばなりません。「それを明らかにして次の勝利を準備する」「次には必ず勝利できるための大衆の武器を示していく」、それが「労働者党の責任ある総括」なのだと確信しています。でした。

 引用中、○○○○として伏字にした部分は、必要に応じて(★※…・・・・…※★)として加筆して説明しました。

   ……※※★★

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『行動委運動と党建設について』(再録・加筆④)

……………………………

全運動非合法化・破防法攻撃の時代=<蜂起>を射程に闘う時代でこそ、<行動委運動の重層的展開を内在的推進する階級的党>で武装しよう!!

Ⅱ.90中期から〔99〕へと継続された、KMTらによる戦闘的運動・拠点破壊について

 以下に述べていく諸々の〔99.○.○-○〕に先行する破壊陰謀攻撃についての報告は、現在までの私から見えた範囲のもの、という限定的で未整理なものではある。

第一に、90年代中期から〔○.○-○〕まで転向反革命の陰謀をもってなされた、KMTらによる数々の破壊攻撃に言及するにあたっては、そもそもかつての社民的サンディカリスト集団脱走(以下〔80〕と略す)や〔90〕などのあらゆる転向―脱走・敵対がそうであったように、KMTらが〈非公然領域の破壊〉と〈三里塚拠点の破壊〉を企てたことの検証が必要だが、いずれも力量・条件が及ばないのでその“項目”提示のみとする。

 第二に、90年代○○(★※地区)の「(全障連・「寄せ場」・○○大――)三拠点攻防」をはじめとした闘いへの――特に90中期以降に激化した――KMTらの「指導(統制?)的ふるまい」を駆使しての諸破壊攻撃について、私なりの検証を提示する。

〔1〕.は全障連○○ブロック(○○ブロと略す)―障害者解放運動・拠点破壊、

〔2〕.は○日労―日雇全協破壊、

〔3〕.は○○大拠点建設攻防をめぐる破壊…について述べていく。

(さらに、関釜裁判闘争などの日朝連帯運動をめぐる破壊などがきわめて重要なのだが、全国の戦線(的)同志たちの力を得ないかぎり“破壊の全体像”を描くことも困難と思うので、適宜、不可解な事態のみ示していく)。

★★※※……(以下は加筆)

〔2〕を先行して書いたのは、それが闘争史を検証するためにはもっとも特徴的で、かつ緊急を要していると考えていたからです。そして〔2〕〔3〕へと検証と提起を進める計画でしたが、当時の獄中闘争と出獄と、出獄後の困難の中で「下書き」としても中途になってしまっています。が、それはやはり重要なのでこのブログ上で総括作業を継続していこうと考えています。また、日朝(朝日)連帯運動の総括は日本階級闘争の死活的課題と思うので、いかに力量不足とは言え、不可欠と思う視点だけでも提起していくつもりです。……※※★★(以上は加筆です)

 第三に、〔4〕.として――知り得た断片的なことに限定されざるを得ないが、核心的領域としてM大拠点破壊(と革命的学生運動破壊)について述べていく。

 報告中、「年月」など記憶不鮮明なものはやむなく「(頃?)」と記した。

〈補足〉.

 □ 壊滅攻撃下で“展望を喪失する小ブル”の必然としての転向(―路線転換)!

 □ 転向・路線転換の必然としての〈ボス交・取り引き〉〈革命党・運動・拠点・戦士の破壊〉!

………、ということについて

 KMTらは、(闘えば弾圧・獄殺攻撃を受ける)全面非合法化時代が、すなわち〈「闘わねば生きられぬ」労働者人民が総決起する〉革命期=階級決戦の到来を意味すること! 従って、〈大衆と共に、大衆を組織し、大衆(階級)自身が新たな権力基礎を形成していくような闘い=ソビエト・武装蜂起〉こそこの時代の唯一の現実展望であること! これらのことが理解も実感もついにできなかった、という点に、奴らの敗北性・脆弱性反革命転落の核心問題があったというべきだろう。

 そもそも特に――宮○や日○などに顕著であったが――こうした「ことさら尊大ぶった」(=常に他者の「上」に立ち、他者を号令・支配する側に立つことに執着する)者たちのように、実際に――労働者予備軍養成の差別・選別の練兵場であるブルジョア教育過程で――“学級委員・風紀委員・優等(特別待遇)生など”の「体制の認知」をかちえてきた(その半生の階級的自己批判的捉え返しを拒否し嫌悪し逃亡・回避してきた)者らにとっては、いったん手にしたこの精神労働者的支配力を手放すことへの「恐怖」を卵のカラのようにへばりつけつつ“かつての革命の戦列”にあったのだ、といえる。(※宮○・日○……は、小ブル性または非プロまたは学生存在ということを考えるための極端な事例として提出した)。

 他方、一般には、こうした小ブル的存在なりの矛盾感覚に発して○○○○○○(★※労働者階級の)統一戦線の戦列に起とうとしてきた我々は、(個々の差異はあるとしても)例えば

(1)現実の大衆の生活と闘いについての無理解・無内容が暴露される予感(恐怖?)から保身しようとする限り、傾向的には常に労働者・被差別大衆・人民の日常的戦場のはるか遠くに“立ち位置”を求め、“自らの無内容が暴露されないための一定の距離”を決して縮めようとしないだろうし、また

(2)そのように自らを問わせず(1)を固持しつつ、従ってまた傾向的に学生戦線の組織活動(および党活動)においても“一定の距離”を固持して、結果、階級的自己批判と発展の道を閉ざしていくという“特有の消極性”をどこまでも抱え込んでいくだろう。

★※…(加筆→)いま改めて言うならば、KMTらを生み出した母体である▽▽▽そのものが上に述べた傾向に既にまみれていたし、私のような「物申す者」たちの「粛清」をはたした▽▽▽はますますそれを深めるほかないし、実際、今の現実がそうなのである。…※★

しかし逆に、自らの小ブル的存在なりの矛盾に発した闘いの勝利と解放の展望が、――政治的スローガンとしてのみならず――大衆(階級)的現実の生活と闘いの生々しい全てをつらぬく内容として〈労働者―全人民解放〉(=階級的自己批判を通した連帯・合流へ!)にこそ相互の発展を確信する場合は、あたかも「現実を思想に押し付ける」ようにその路線・思想・実践の全格闘をもって“距離”を縮めて…〈共に闘い共に生きる〉ことが欲求となり歓びになっていく。

(※後述するが、例えば“労学連帯・○○(★※地区)学生実行委員会”の活動経験から言えば、学生大衆における後者の欲求は圧倒的に潜在していた)。が、前者のように現れる場合は、どうしても、「学生運動を闘っている」にもかかわらずますます小ブル性(非階級性)を固着させてしまいかねない、その典型例として〈KMTグループ発生〉の根底に「蓄積」されていた非・反階級性の問題があった、…といった総括視点が必要ではないか。

 蛇足かもしれないが、以上はあくまでも小ブル的存在の保身や欲求やその傾向の問題として試論的に提起しているのであり、逆に〈具体的活動形態として“距離”を縮めたか否か〉だけが〈階級的か否か〉の一切の基準である、といった短絡な主張ではない。念のため“労働者人民の生活と闘いとの距離”ということについても、以下の但し書きを付記しておきたい。

 例えば、かつての一時期に「山谷担当」であった転向(路線転換)分子・N村M男が――『図書新聞』2942号のインタビューで――とてつもない路線転換の謬論をまくしたてつつ、「俺たちは最も虐げられた者たちと一緒に闘うんだ」などと(実は国家・行政に従属して活動しながら)ほざいているようなことから逆証されるのだが、“距離”というのは、(A)あたかもモノサシのような、生活と闘いに密着した至近距離といった意味だけではなく、むしろ決定的には、(B)その現実的階級的な要求や利害とともにあろうとする“総路線・全組織活動つらぬく立ち位置”のこととして言っている。組織活動の具体的基礎として(A)が鮮明に位置づけられて総体の闘いを展開していくことが(十分条件ではないが)必要条件である、ということである。

 要約すれば“小ブル性”とは、差別・選別過程にあった自らの半生を通して、〈ある面では排除されたが、ある面では選別されたような社会的存在〉における“反資本・反国家権力”をめぐっての“中間的な不徹底性”のことであり、例えて言えば〈闘う善意と決意の裏側に(いまだ)貼り付いている「二足のワラジ」〉と言えるだろう。

 (※ プロと非プロの違いを〈徹底性〉と〈不徹底性〉として表現してきたのは、「ドイツの国家制度の帰結に一面的に対立するのではなくその前提に全面的に一領域」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)を念頭においたもの)。

 こうした「小ブル性」が階級的革命的に再編されていくためには綱領・組織原則・思想討論が重要であることは言うまでもない。その上で根底的には〈労働者人民の死活要求を共有して(内在的推進を)闘いつつ、もう一度問われる〉ように組織された闘い!……を通して、「二足のワラジ」の(他者=労働者人民と自ら自身にとっての)抑圧的要素・敵対的要素を現実的具体的に暴露され確証し止揚していく闘いとして、より階級的革命的に再編されていく……そうした組織活動が鍛えあげられていくことこそ重要なのである。

 この意味では、まさにKMTらは上述したような階級的組織活動は考えも及ばず、自らの“中間的な不徹底性”を隠蔽するための“ことさら戦闘派(?)ぶった物言い”を乱発して批判を封殺するなどのさもしい政治技術で、“革命への助走期”はなんとか乗り切ったが、だがいざ“倒すか倒されるか―本格的死闘を必然とする革命期”の到来にすくみあがって「二足のワラジ」を履き替え、こうして大衆(運動)的・党的領域にわたる数々の破壊行動を“助命嘆願のサイン”として差し出した。また他方では革命的報復を恐れて長期・細心に革命党破壊を陰謀工作して結局〔○.○-○〕で粉砕され、これ以降は“外”からの破壊を存在(助命)条件として〈権力の一分枝〉にまで転落した。……こういうものとして「発生根拠の止揚」を含んで解体・根絶を闘わねばならないのである。

(※ 奴らの“小ブル”としての“非断固さ”があたかも“元々固定的にあった”ことが核心問題なのではない。その立論では結局「元々KMTは▽▽派ではなかった」などという不思議な評論に帰結してしまうし、現在の我々自身が何を問われているのかさえ見失い、こうして「生み出したことの真の自己批判」は彼岸化されてしまうのである。重要なのは、奴らが〈現実の大衆的闘い(の内在的推進)を通して「もう一度問う」ていく階級化革命化の闘い〉からの逃避を積み重ねてきた、その必然的帰結として、奴らは自ら自身をより反階級的に・より反革命的に「組織」してきたし、――その直線延長上で――現在さらにその反階級性を満開にして敵対を深めているということなのである。我々は革命党としてそれを「許して」きたし今もなお「許して」いる、このことこそが総括の核心問題なのである)。

★※…(加筆→)当時も、今はさらに、KMTらと▽▽▽は上に指摘したような<反階級的な活動ぶり>を同じにしている。そういうことだからメンツ(?)をかけて「解体する」と言い続けてみたものの、自らに「死活をかけても解体するぞ」という階級的根拠を何も生み出さないために、現実には「共存の道」にのめりこんでしまうのである。かつての同志たちはなぜ死なねばならなかったのか、「共存」世界にのめりこみながら一体何に責任をとれるというのだろうか。…※★

以上のことから、KMTらによる〈対敵――ボス交・取り引き〉と〈対同志――革命拠点破壊・戦闘的闘いの破壊=戦闘的同志への攻撃〉とが、陰謀・敵対の同根性をもった一体の攻撃としてそれぞれ生起していったことが――論理必然として――明らかになる。

 この意味で私は「○○(※KMT)指導下での学生戦線の『組織指導』における打撃主義」(「954号」)を「共同性・組織性として」(同上)と、何か固定的な体質のような問題として〈発生総括〉として論じる方法には疑問を感じる。★※…(加筆→)その論法は、「○○(私)はKMT指導下にあったからこいつも打撃主義にきまってる」とする卑怯な扇動のための論法だったのである。だがもし「打撃主義の体質」が問題だ、というのなら、なぜ「指導下の者」が問われ、なぜ「共に指導していた者」が問う側に立っているのか。その厚顔無恥にはあきれるばかりである。…※★

 なぜなら階級社会においては、対敵(対支配階級)関係の如何が第一義的問題として、その関連において共同性・組織性が論じられるべきだからである。つまり、

「この(※団結・共同性の)関係は、資本家(階級)・国家との対抗をめぐったものであり、その対抗の質を問うものであって自立的に立てるならば観念化する」(『小論集』72p)

…という点は決定的に重要だということである。

 そして実際にも、KMTらが〈発生過程〉で行使した組織内暴力や恫喝や「私的制裁処分」は、――少なくともKMT自身の切迫した転向・助命願望を要因として必然化したそれとしてあったこと、従って――この視点が欠落した「954号」の論旨においては、当時のKMT自身が何としても破壊せねばならなかったほどの、つまりKMTの反革命策動を破綻に追い込むような〈諸同志の原則的な闘いがあったこと〉が決してつかめず、消えてしまい、またそうした同志たちの闘いや痛恨が捨象された分、「総括」は観念化・無力化せざるをえないのである。

〔1〕.90年代中・後期=KMTグループ発生の助走過程における全障連(―「障害者」解放運動)への破壊攻撃(と打撃)について

※この章は書きかけなので省略します。

……………………………………………

◆②KMTグループ発生過程における、○日労―日雇全協―全国労働運動への破壊攻撃(と打撃)について

 戦後革命圧殺(50年朝鮮戦争)のただ中で★※…レッドパージに屈した戦争支持運動として…※★出現した総評労働運動も、60年三池・安保、ベトナム反戦闘争から75年ベトナム革命勝利をへて戦後第二の革命期に突入していく過程の中で、再び日帝支配階級の桎梏となり、(今日の帝国主義労働運動=「連合」育成に至る)本格的破壊攻撃が開始されたのが、まさに国鉄分割民営化攻撃に突進した80年代中期であったでしょう。ブルジョアマスコミをフル活用した国鉄労働者攻撃が仕掛けられたこの時期に、同時に突然マスコミは、山谷などで〈ヤクザによる日雇い雇用保険・ヤミ印紙問題〉をあげつらって〈白手帳の規制〉を叫び始めました。つまりこれが「寄せ場」(労働運動)解体の号砲でした。

 90年代後期のKMT・KJKらの山谷「除名・脱退・手打ち」騒動を最後に、日雇全協は事実上破壊され、「山谷争議団」や「(釜共)―釜日労」をはじめとした関連諸団体は、――現在の○日労以外はすべて――「ホームレス法」体制に組み込まれ、帝国主義的労働行政、福祉行政の(絵に描いたような)補完物に成り下がっています。

 「寄せ場」は、歴史的には相対的過剰人口に対する反革命治安攻撃に由来をもちつつ、戦後においては、その、失業・半失業を強いられた(下層)労働者の――日々雇われ、日々解雇される――「就労」拠点であると同時に階級的団結の条件ともなってきました。このように発展した団結と闘いを桎梏とし、破壊しつくすために、――先述した〈ヤミ印紙・不正受給〉扇動・「白手帳」攻撃と労働法制改悪をテコとして――「寄せ場」解体と「寄せ場」労働運動解体とが並行して仕掛けられてきたといえます。全国各地に、都市部でもごく中小かつ分散した単位に「労働者派遣事業」が育成され、「寮・飯場」がこれに看板替えを始めるとともに、こうした業者・ブルジョアジーにとっては、――日々の就労におけるブルジョア側への“規制”が闘い取られてきた――「寄せ場」に労働力を求める旨みはもやは無いゆえに、たちまち「寄せ場」に仕事が来ない状況が必然化します。(まさに不景気によってではなく、攻撃によって仕事が無いのです)。このように「寄せ場」解体は進行したといえます。そして、こうした攻撃の下、労働者の密集条件も激減し、労働者相互の新たな競争と分断が強いられる中で、“青空団交”に象徴される圧倒的闘争力を誇った「寄せ場」労働運動の基盤がゆさぶられ、諸勢力の「もう労働争議の時代ではない。大衆的実力闘争では勝てない」といった敗北主義と路線転換願望が醸成されていったのだと言えるでしょう。

 「労働者派遣事業」の育成が――「寄せ場」解体攻撃であっただけでなく――(首切り・合理化)―総「非正規」化攻撃であったことは、すでに周知のことと思います。そしてこの攻撃下で〈「労働者の大衆的実力決起によって」ではなく「労働・福祉行政へのすり寄りによって」〉延命を企てた(KMTらなどの)すべての勢力が、さらなる敗北、さらなる労働者敵対の道へと追い立てられる状況の対極において、○日労・反安保労研・革労協といった階級的革命的勢力が歴史的反転攻勢のカギを握っている訳です。

 何より私が心躍らせることは次のことです。すなわち、このようにして日帝は、〈失業と就労〉に分断されてきた戦列が、総「非正規」化攻撃の下で巨大な合流を闘い取り、労働者階級がついに歴史的反転攻勢を開始して〈資本制支配の墓堀人〉となる条件を作ってしまったのだ、ということです。それゆえ、だからこそこの、特に80年代中期以降に開始された「国鉄」「寄せ場」をめぐる攻撃、およびそこにつらぬかれた路線転換攻撃・破防法攻撃(とKMTグループ発生)を“総体として一体の攻撃”とて解明し対決・粉砕していく総括と指針を定立しうるか否かに〈労働者解放―全人民解放〉の成否すらかかっているものとして執着せざるを得ないのだ、ということです。

 いわゆる「路線転換グループ」に属する“○○ギリの会”などの実体である日本キリスト教団・浄土真宗大谷派などの中の攪乱坊主どもや、福岡○○労組tt、○日労脱走分子ot、▽▽▽脱落分子=県労働部ksなどは、80年代後期から――〔90〕後はその残党も巻き込んで――越冬実(=共闘会議)の場で、公然と「県や市の準備する越冬施策の枠にそって越冬要求を絞り込むべきだ。実力対決路線はやめろ。完全黙秘はやめろ」と主張し、我々(主に学生実)は延々とこの論戦を闘っています。そうした闘いを通して、彼らの路線転換・敗北主義と反労働者的背反を暴き、結局、我々が実践的先頭で築いてきた戦闘的労働者(・大衆)との共闘地平において、やつらを論破・粉砕しています。

 ※「野宿の仲間に腹一杯食わしてやりたい」が口癖であったARK裁判当該のARKさんなどは、労働者大衆に近づきもせずやる気も全くないOTなどの旧執行部の面前で「組合は学生がやるしかないなあ、ははは」などと、わざと挑発して対峙していたくらいです。その彼の表現はともかく、…です。従ってARKさんなどは、(常に逃げ場を準備していたトクなどと違って)、〔95〕年には――“組合代表”を引き受けた戦闘的労働者とともに――イの一番に態度を鮮明にして当時の○日労の新たな一歩を共に闘っています。※

 そうした我々の、越冬実―学生実の経験から、《しかし、当時の山谷をめぐるKMTやKJKは、「金町だ」「差別映画だ」などと利用的言いがかり的に振りかざしたことはあったとしても、真に労働者階級の利害を貫徹するための大衆的・実践的格闘を“政治主義”ですりかえ乗り切ったにすぎない》ことは、今となっては確信に満ちて見抜きうることです。

 (例えば、真に大衆闘争に責任を取る者が、自ら「除名(分裂)・脱退(分裂)」をもって「決着」にしたがるはずはありません。なぜならそれは“大衆を引き裂く”ことなのですから)。こうした点について、以下、私に可能な限り整理して報告しておこうとしています。

(1)路線転換攻撃下(=総翼賛・全運動非合法化攻撃下)における○日労破壊について

 現在、「山谷争議団」を名乗り、かつ「新宿連絡会」を名乗り、あるいは「釜日労」や「NPO釜ヶ崎」を名乗り、あるいは「○○ギリ」や「スープ」等を名乗り、あるいは総じて「反失連」などとも名乗る雑多な潮流を総称して、とりあえず路線転換グループと呼ぶことにします。これは、KMT・KJKらが己の〈路線転換策動〉を押し隠す意図をもって命名した呼称と思われることが“引っかかり”ますが、改めて〈路線転換・本流〉と〈亜流(=KMTら)〉と押さえつつ論を進めます。

 95年の旧○日労執行部連中の総脱走までは、“○日労”の支援共闘会議として「越冬実」なる全員参加型会議が月一回ほどのペースで継続しています。そもそも84年(か?)の組合準備会以来、――のちに分かったことですが、映画「山谷・やられたらやり返せ」上映運動を契機に立ち上げられた経過上――、筑豊・長崎をはじめとした元炭鉱労働者の闘いや在日朝鮮人民・部落大衆の闘いを背景としつつも、組合執行部自体には戦闘的労働運動の要素が皆無であり、財政などの諸条件も日本キリスト教団等の丸抱え的状況からの出発だったことから、「越冬実会議」で論議された方向性を基礎に「組合執行部会議」があるような“非階級性”がそもそもあった、ともいえます。(私の視野は、そうした越冬実での論争・闘争にもとづくものです)。越冬実内の学生実(労学連帯・○○学生実行委)に属した私は、路線転換グループとの共闘者であり対決者であり、当時の「寄せ場」運動領域をめぐっては、当時のKJKら寄せ場労研のかつての「同志」であり、部分同調者であり、部分非同調者であり、最終的には対決者(自己批判と粉砕を闘う者)として本論に着手し共有しようとしているということです。

 そもそも旧執行部(と独自に密着していた福岡○○労組)などが、対ヤクザ・対ファシスト戦の飛躍にいかに敵対していたか、机出しも争議もいかに逃避してきたか、対行政闘争においていかに陳情主義・敗北主義であったか、不当逮捕弾圧のたびにいかに完黙闘争に敵対したか、野宿者差別襲撃を実力糾弾したARK裁判闘争にいかに無責任であったか(いかに越冬実情宣班=学生実に丸投げしてきたか)、「障害者」の連帯をいかに無視し続けてその地裁―国家権力糾弾闘争を傍観し分断していたのか、等々のていたらくについては、(一つ一つがとても重要ですが)、本論の前提として確認しておくのみとし、全般、〈KMTグループ発生の総括のため〉に絞り込むようにし、上述列記したことがらの詳細は、展開上必要なもの以外は省略します。

(2)90年代前半期の○日労破壊攻撃

 ――日帝反革命労働政策(攻撃)下での総路線転換の始動について――

 80年代中後期を通して、徐々にであれ戦闘的密集を開始した○○(★※地区)の日雇い労働者に逆行するように、80年代路線転換グループ(となる潮流)も〔90〕に転落しつつあった(○○★※地区)▽▽派(部分)も、天皇Xデー攻撃とペレストロイカ=「社会主義の破綻」扇動の中で、それぞれの路線転換と脱走を準備しつつあったといえます。

1.「朝だけの寄せ場」といわれた築港もかげり始めた90年代初頭頃、旧執行部は(そもそも机出し・争議はやらなかった上で)越冬でも夏まつりでもビラ一枚出さず、事務所家賃も出さず、ついには電話も止め、あげくには(戦闘的労働者は排除しての)抜き打ち会議で「委員長・OTの部屋への事務所移転」=事実上の事務所閉鎖「決定」まで強行するに至りました。もって戦闘的労働者や学生実(と〔90〕後の(○○★※地区)▽▽派を守った我々)との切断を図ったものと思われます。(特徴的事態①)

2.また90年代初頭の越冬実会議では、ひとつに合○労組t.(Tシャツ訴訟の会)を尖兵とし、これに〔90〕残党N.U.らが合流して「完黙闘争をやめろ」大合唱をくり広げ、我々が全力で論破する事態が生起。(特徴的事態②)

3.さらに93.94年頃(か?)、元▽▽派(県職労・県労働部職員)ksらが尖兵になって、「越冬要求は県や市の労働行政・福祉行政の枠内に止める改良要求とし、実力対決方針をとるべきではない」などと(OTらを代弁する立場で)主張し始め、まさにのちの「ホームレス法」を先取りするような露骨な路線転換が主張され、我々はこれと全面対決する論争を闘っています。越冬・夏まつりの実戦場では労働者大衆の戦闘的突撃力が我々の側を後押しするゆえに、我々がさらに突出する対極で、組合執行部(OTら)はますますニヒリストを演じて、ビラも出さず、まつりの場では参加労働者とともに宿泊も片付け作業もしないといった状況になっていきます。(特徴的事態③)

4.またこの時期は、「映画問題」=「筑豊からの告発」をめぐる対立が最も激化した時期です。KMTらにとっては〈山谷分裂問題〉だったのでしょうが、我々にとっては〈映画問題〉です。○日労内でも、OTなどの上映実行委員会の息のかかったキリスト教市民運動潮流は〈無視・傍観・居直り〉をきめこんでいます。大多数が「上映実」の側でのらりくらりの敵対を続ける中、Y氏や我々やhm(後述)の一定の討論と接近が開始されていきます。(特徴的事態④)

《補足 1※》

 ところで、○日労において90年代初頭の「映画問題」は、当初は「筑豊ヤマの会」hm(日雇全協内においては筑豊ヤマの会を代表して「告発」を提起した、○日労の担当メンバー)と、同「ヤマの会」のメンバーである戦闘的労働者Y氏に○○(★※地区)の我々が連帯して(なんとか)“共に闘う”布陣を形成しうるかに見えたが、この件をめぐって山谷争議団―全協との討論にあたっていたhmが、突然「▽▽派には裏がある。信用できない」と敵意をむき出しに、私などが説明を求めてもとりつくしまもない状態となり、完全にやる気をなくし、ほどなく失踪するように○○(★※地区)(○日労)から消えてしまうという不可思議な事態もありました。総!体として市民主義丸出しで出発していた80年代○日労の中にあって、相対的「戦闘派」であったhmの驚くような脱走でした。

 ……今となっては私の推測の域を出ないのですが……しかし、その後〈KMT・KJKらによる「映画問題」の利用――山谷での騒動と手打ち――KMTグループ発生〉へと推移した事態から見るとき、確かに「KMT・KJKらには裏があった」訳です。挫けるhmも実に情けないが、私は〈KMT・KJKらが「ヤマの会のhmを取り込め」と、何らかの破壊工作を仕掛けた〉結果ではなかったか、などを考えざるをえません。(諸同志との突き合わせが全く出来てないので私だけの推論にすぎません。但し、これは“私の課題”ではなく“▽▽派の課題”です)。

《補足 2※》

 上記①~④のいずれも反プロレタリア的敵対への転落を刻印する事態でしたが、特に〈事態①〉=組合全機能の破壊の強行は、日々命がけで闘い生き抜く日雇い・野宿労働者の命綱を断ち切る行為に等しく、こうした反労働者行為に、正当にも闘う労働者の実力弾劾が叩きつけられていきました。しかし、こうした真相(旧執行部の敵対と労働者の闘い)を押し隠しつつ総逃亡をゴリ押しするために、まず直接に争団連(争議団連絡会議)の全国会議の場において、上述○○労組tによる〈KFによる○日労執行部襲撃と乗っ取り〉なる百%のデマが流布されていった訳です。

《補足 3※》

 このようにして、旧○日労執行部総脱走後の、戦闘的に再生された新たな○日労の歴史が95年(頃?)から開始されました。○○合同労組tらによる反○日労・反▽▽▽デマ扇動と○日労パージ攻撃に対しては、再生された○日労執行部の確認の下に、〈事態の真相を明らかにし○日労破壊と全国労働運動破壊を許さぬ〉ために、パンフレット=『旗は翻る』(計300部ほど)が――学生実も全力投入しつつ――作成されています。何より、争団連に流布されたデマを粉砕するために、革命的労働戦線のすべての労働者同志の“武器”となるよう期待したものでしたが、完成したパンフレットのほとんどが突然消失し、――〔99.○.○〕以降に至って――全国の労働者同志の誰もその存在すら知らないという事態が再確認されただけでした。後日談ですが、96年頃に○○大学で講演したOG弁護士に、集会終了後にこのデマの真偽について質問されています。口頭であれ、私から真相を伝えたところ、OG氏の疑念はたちどころに解消したようでした。説明の機会さえあれば真相はそれほど明白かつ説得力あることがらなのであり、パンフは当時の▽▽▽にとって(革命的労働運動防衛の立場に立つ者にとって)絶好の武器になるはずのものでした。それを「邪魔」と考えた者は――いかに私の推論が過ぎると言われたとしても――(現在から捉え返せば)すでに破壊陰謀を開始していたKMT・KJKら以外には考えられないことです。

★★※…直接に「パンフレット回収・隠蔽」に加担したものが誰かは百%明らかなのだがついに自主報告はなかった。いまは「彼」が「映画問題を報告した同志」とされ、私が「それを隠蔽した者」と、彼らの党史に一行加えられているそうである。その一行は加えても、決して二行目からの総括文は未来永劫書かれることはない。…※★

 またちなみに、こうした問題領域について、いつまでたっても私は“自説”や“推論”という限定付きでしか述べられない状況であり、そうであれば、私が「黙った」時、こうした歴史はすべて忘却の彼方にと考えることはとても虚しいことではあります。何より「全国的な『寄せ場』日雇い労働運動再建・戦線再建の機運がないことの無力感でもあります。そうしたこだわりもあって、ややしつこく記しています。

《補足 4※》 山谷―KMTグループ発生の総括の困難について。

 〈権力〉がすべて承知している上で、〈路線転換グループ〉と〈KMTら〉とが革命的戦闘的労働運動破壊と▽▽▽破壊をそれぞれのやり方で、それぞれの“破壊の成果”の奪い合いを演じつつ、そうした〈三つ巴〉の束になっての破壊攻撃を我々は許し、大きく傷を負っています。〈総括討論の難しさ〉このこと自体がこの破壊の巨大さを逆証しています。しかし何とか〔○.○―○〕を前後しての決定的な反撃戦において勝利し粉砕してきた、と見える訳です。ただ、これ以降続発していく山谷争議団「除名」・日雇全協「脱退」騒動、○日労管理の映画フィルムの現「KMTグループ山日労」への強奪と、(「告発」当該の確認もない)勝手な「筑豊シーン」カットによる「解決」(?)、つまり『筑豊からの告発』のもみ消し強行、山谷労働者福祉会館占拠・乱闘…そして“手打ち”…その公然の暴力的全過程への権力の全面的傍観=つまり官許!! KMTらの行動はすでに権力公認! …といった事態が一体として捉えられる必要はあるはずです。

 つまり、〈権力〉と〈路線転換グループ〉と〈木元ら〉のそれぞれの運動/組織破壊の“三つどもえ”の思惑が交錯していたとしても、すでにこの“三つどもえ”は相互非和解ではなく、何らかの「手打ち」を求め、かつ、革命的労働運動破壊・革命的組織破壊を“共通の敵”として射程に入れている以上、〈上述のような真相を暴くパンフ〉などあってはならぬ、として解明できる事態であります。また〈KMTら〉にとっては、おそらく“あの手この手”で労働者同志たちの「山谷」領域への接近を封じていただろうと思われますが、こうした〈パンフ〉が、労働者同志たちの(=反○○労研の)組織的検証の入り口となってしまうことを、奴らは恐れたのだと思います。

 くり返しますが〈推論〉はどこまで論じてもやはり推論にすぎません。ただし、結果もまた歴然としています。特に労働者同志たちが、そして全ての同志たちが、この領域にドシドシ踏み込んで、こうした個々の事態を全体像としてつかみとり、いつか〈私の独り言〉を大きく踏み越えてより確たる総括と闘争指針を打ち立てられるものと期待しつつ、“素材”ほどの意味はあるものとして記しました。

《補足 5※》

 『筑豊からの告発』を最も戦闘的に体現し闘ってきた労働者(★※Y氏)が、その怒りにおいてKMTグループの反階級的敵対を見抜き、自らも奴らの標的となることを辞さず、文字通り命を賭けて森田同志防衛を闘った意義を共有するのではなく、逆に、tk(kg)らが――闘いから逃亡する己れの「正当」化のために、己れの命乞いのために森田同志防衛から完全逃亡し、同志を虐殺攻撃の前にさらして――逆に戦闘的労働者に「逃亡者」の汚名を着せたことの許し難さ。

★★※※……総括のない▽▽▽において、この「逆立ち」の歴史は見事にくり返された!!…※★★

 だがこのデマ扇動がたとえ一瞬一ミリでも我々に浸透したと感受していた当該労働者の虚しさはいかばかりだったか。

★★※※……闘う労働者への打撃はさらにまたくり返された!!…※★★

 また7.22以来の大量逮捕弾圧下の“地区的な蓄積の継承”の裂断を強いられる中ではあれ、tkやkgの“口先の戦闘性”に隠した“底深い敗北性”を我々はどのように見抜き得なかったのか。

★★※※……「見抜く」どころか「大合唱」がいまや流儀ではなっている!!…※★★

 こうした痛恨とKMTグループ発生を許した痛苦さは(我々にとって、また労働者人民に与えた打撃において)加重して重なり合うし、それだけにまた、こうした具体的事実を踏まえて、例えばこうしたKMTグループ(発生)に対する現実の階級的闘い・階級的怒りから、KMTグループとこの日帝国家権力の攻撃を改めて鮮明に全人民の標的にしてさらし打倒していくような“総括”を定立し、共有したいのです。

《補足 6※※》 ……「予想される弾圧」を「理由」とした、(95年頃?につぐ2度目の)97年のKMTの「中央指示」による『別行動=潜行』指令…の意味について……

★★※※……何のことを言っているのか、まず説明しておきます。ごく最近、京都大学に私服警察が潜入して大衆的に摘発されて反撃を受け、弾圧、そして闘いが巻き起こっているようです。まさに当時、すばらしい進撃を開始した○日労と私たちはまったく同じような私服警察の攻撃を受け、例えて言えば京都大学学生たちの闘い以上の闘いをやり抜いています。私服警察が「助けてくれえ」と泣き声をあげるほどの大衆的弾劾の闘いです。労働者たちも私たちも勝利感やさらなる戦意にあふれていました。ところが、です。なんとその翌日にKMTが○○の地にすっとんできて言うには、「弾圧があるからお前(=私)は身を隠せ」と。さらに、戦闘的な労働者に対しては「事態の報告のビラをまくな」と…▽▽派の名において……重大な圧力をかけています。こうして私が団結のすべての線から切断されている間に、東京・山谷で「会館占拠─白昼公然流血の大乱闘─手打ち(=山谷争議団破壊と日雇全協破壊)」がしかけられ、他方では「映画フィルム強奪─筑豊シーンカット(─手打ち)」がしかけられました。それは東京での大事件です。▽▽▽が「何も知らなかった」とは言わせません。ともあれ、そうした一連の事態につながる○○地区と○日労をめぐる弾圧と反撃と事態隠蔽のことを言っています。…※★★

 ★※…当時の私にしてみれば…※★「(一時的)別行動」にはそれなりの“意味”があるが、「(長期・出口なき、かつ別任務でもない)別行動」の場合には“意味不明”となる他なく、つまりそれは単なる「苦行」のような日々になっていきます。実際それは〈財布の裏付けはまったくなく、帰る家も共同生活の場もなく〉、一人でサラ金取り立てから逃れる失業者であるような日々の連続であったゆえに、またしかも実際、大半は日々“失業”の連続であったゆえに、とてつもなく過酷な日々であった訳です。もちろん幾度もの“野宿”を織り交ぜながら何とか“生活”をつなぎつつ、やっと〈○○工場の一定期間の集中作業に、下請け業者□□の補助として△△飯場から、一定期間の日雇い仕事にありついた〉時の「幸福」感と、そうした肉体労働の日々も、今となっては全て(左翼としては)貴重な体験となった訳ですが、当時はそんな冗談も言えぬほどの状態であった訳です。

 そうした日々は、〈KMTの陰謀〉という視点から見るとき、まさに〈邪魔者=陰謀の阻害物が封じ込められた日々〉であった、と今では確信しているのです。当時の私の、この「長期別行動」について、特に学生の公式の会議では〈KMTはどう説明していたのか〉聞き調べておけばよかった、とやや後悔していますが。★★※※……当時の▽▽▽とその学生戦線責任者たちの「沈黙」はあまりにも許しがたい。が、今は、彼らが出獄した私に極悪人かの「烙印」を準備して、そして今日に至っている。またこの時期にKMTが闘う労働者に数々の圧力をかけて計り知れない困難を強いた事実は、本人から▽▽▽CCに直接に報告された。怒りをもって、である。CCは確かに「▽▽▽として必ず自己批判します」と約束した。だが未だに当該労働者とその運動に対する説明も自己批判もないと聞く。(私には、またも闘う労働者の渾身の告発・弾劾をそっくり隠蔽した上で「お前が映画問題を持ち出した」という事実を歪めた悪罵が通告され流布された)。要するに、こういう反労働者的な行為の数々が、つまり『映画問題』の核心問題なのである。…※★★

(3)95年以降の○日労破壊攻撃――総路線転換進行下での、KMTらの転向(革命的大衆運動―革命党破壊)策動について

 上述(2)で述べた95年以前の数年が、中核派の公然たる路線転換(=屈服・武装解除)と、「路線転換グループ」(=総体として言えば新左翼右派ブロックあるいは反天連系潮流)の、いわば〈体制内改良路線から、行政機関一体化路線(=翼賛化)へ〉の総転落の進行と、そうした状況でのKMTらの〈動揺〉ないし〈転向画策〉の時期であったとするなら、(3)95年以降に生起した諸事態は、より具体的で計画的系統的な〈革命的運動破壊――革命党破壊による延命・命乞い〉のための陰謀実行期であり、(革命党破壊・乗っ取りを粉砕された)KMTグループとしての発生の助走期(=具体的破壊の始動期)であったことを示していると思います。

1.(96年?)夏まつり――県警公安摘発闘争に関連する諸事態

 旧執行部総脱走と、「FNRはKFが乗っ取った。だから支援するな」なるデマ扇動敵対以降、最初となる(96?)夏まつりは、「寺まわり」等の新たな支援を創造しながら、また戦闘的労働者を軸に、○○(※地区)の労働者総体の、目を見張るような一挙的戦闘化と自主的団結力を生み出しながら見事に成功しました。私などは、この時の(キリスト者や旧執行部――市民主義者らの、「施してやっている」ような“偽善”のくびきから解き放たれた労働者総体の)自主的闘争主体への一瞬にしての変わり様に感激し、「ミニ革命が起きた!!」と感受し、今もこの記憶が私の確信になっているほどです。

 また他方、福岡の公安どもは、“調べ”や“ガサ”のたびに、何度も、「お寺からカンパ集めるやら誰が考えたとか」などと、つまり96年FNR破壊の失敗を悔しがっているほどでもあります。この画期的勝利を刻印した(96?)音○公園夏まつりに対して、公園横のJR施設をJRが県警に提供し、その一室を拠点に公安3名がカメラを設置して夏まつり全参加者の調査を構えていました。だが戦闘的労働者と森田同志がこれを発見して摘発。「警察だ!」の一声で、まつり参加労働者の大半が一斉に“一室”に駆け上がって突入し徹底的につるしあげ、団結力に羽交い締めされた公安どもが「俺たちは革マルじゃない。警察だ」とぶざまに命乞いする事態まで強制しています。

 それから日を置かずKMTが○○(★※地区)にかけつけ「弾圧対策」と称してやったことの第一は、私に(一回目の)「別行動」を指示したことでした。「対策」「指示」というわりには何の組織的フォローもない“私の第一回目の数ヶ月間の放浪”……ということ。(この「96別行動」期間中に、山谷労働者福祉会館騒動が発生した、と事後的に知ることになりました)。さらに、KMTが○○(★※地区)で「対策」した第二は、この闘いの報告(暴露反撃)ビラ=FNRの〈摘発粉砕勝利ビラ〉の配布を阻止し回収さえ指令したこと――(初版はすでに築港で配布されてしまっていたらしいが)――だったということを、私は99.○.○-○以後に知ることになりました。また、戦闘的労働者○氏が――〔○.○-○〕を受けて――何度も、「だから俺がずっと、KMTとかカKJKとか信用できん、と言うてきたやないか」と言ってきたことの意味は、つまりこの「弾圧を避けるために、闘いの勝利報告ビラをまくな」としたKMTらの「指示」の反階級性に怒ったゆえであることを軸としていることを、最近になって知らされています。(まず○○(★※地区)の我々として反省せねばならないことです)。また、こんな「指示」でFNRビラを阻止されるということが、――いかにデタラメであれ――「▽▽の指示だ」というふるまいによって検証力を鈍らせてしまっている実態や関係を痛苦に捉え返さねばならないことです。(のちに、この「対策」にはD肥も関わっていた、と聞きましたが、真相は定かではありません)。こうして記録し報告するのも恥ずべきこととは思うのですが、断じて風化させられないことなので、あえて記しています。(こうしたことがらにふれて、全国の同志が、このKMTグループ発生助走期の、真の奴らの姿と、我々の闘いの意義も限界も浮かび上がらせ、ともに歴史的に真に決着つけていくことを期待して記しています)。

2.映画問題(「筑豊からの告発」)の破壊(=「手打ち」)事態

 他方、96年秋(?)か、私が「(一回目の)別行動」を指示されている頃、山谷での“乱闘―手打ち”が奇妙に進行していたことは前述しました。――この頃、96年冬には、○大学友会攻防でついに勝利した訳だが――、この頃、戦闘的労働者とともに開始した〈「筑豊シーン」の撮り直し=三池争議の意義を継承する日雇労働運動の基調で作る方向性〉の討論を勇躍開始したのだが、突然KMTに「筑豊シーンはカットでケリだ」「撮り直す金などどこから出すのか」「▽▽の指示に従え」などと(○地区に)中止指令が出され、ふがいなくも(!!)私はKMT(中止指示)と○(★※Y)氏の“板挟み(?)”となり、――中途半端に――“無策・無方針(実質追従)”によってKMTの破壊行為を許してしまった。

※※ その上で、KMTの「指示」にもとづいて行動しなかったことを「▽▽指示違反」とされ、ゆえに「自己批判しろ」「当面は労対会議と労働運動に一切関わるな」とされています。(これは〔99.○.○-○〕まで解除されていません)。端的に言えば、私は当時、「筑豊からの告発」を“唯一受け止めていく方針”としていたその〈シーン撮り直し方針〉と〈○(★※Y)氏(=元炭鉱労働者・在日……として闘う○氏)との信頼関係〉を裏切っています。ここが私の(…と▽▽▽の)最大の自己批判事項です。

 さらに、97年春に――のちのM大ゴスペル弾圧にうり二つの――○大弾圧・○日労弾圧が発生し、またも……今度は無期限の……「別行動(★※潜伏してろ、ということ)」を「指示」され、結局97年12月の不当逮捕でそれは「終」わり、98年8月に出獄するまで私は事実上○○(★※地区)の戦列に居ません。

 そしてこの間に、さらに、

①(FNR責任管理の)映画フィルムが山谷(現・KMTグループ「山日労」)に強奪され、

②(告発当該たちには)無断で「筑豊シーン」をカットした上、独自に「改編ナレーション」の紙切れを付け、

③この形で、山谷で上映することで「解決!?」……(これらの混乱の中で「筑豊ヤマの会」が解散を強いられたこともあり……)、こうして“もう「筑豊からの告発」問題はなくなった”とするKMTの屁理屈がごり押しされています。

※※ これが、山谷問題での「手打ち」相手である日本キリスト教団・小田原紀男ら市民運動集団や上映実(――路線転換グループ)が大喜びする「結果」となっていることは、誰にも分かると思います。こうして、片や路線転換グループは“大手を振って”……、他方KMTらは独自に“権力の意にそって”……、それぞれ着々と(上映をやりつつ)日雇全協破壊=運動諸領域の“ぶん取りあい”に歩を進めることができる訳です。(だから私は、山谷でのこの一連の騒動を「手打ち」と言っています。この点、諸同志の意見を待っています)。

④さらにこの時期、KMTらは私的陰謀拠点の“足場固め”とばかりに――事実上の、路線転換グループとの“棲み分け=共存”の形となる――「全国寄せ場交流会」づくりに奔走し、そのため例えば「○○日雇労働組合」は強引に「○○・築港日雇労働組合」に解消させられることになってしまっています。まるで“築港=日々の就労現場”には当初から関心のない○○(★※地区)の路線転換グループと平和共存をめざすかのように、です。事実、――それまでは組合の活動領域であった――“北九州”“久留米”はこれで路線転換グループの“自由の空間”となっていきました。(また現在の○○(★※地区)市内における“KMTグループ=「築港の組合」”と“美野島教会に連なるNPOグループ”の露骨な“棲み分け=協力関係”というその形にもそれは示されています)。

※※ 特に北九州は、〈「ホームレス法」体制〉による反革命福祉行政(=人民虐殺行政・政策)の突破口となり、この(官民一体の)北九州市福祉生活保護)行政の下で一連の労働者虐殺が相次いだ訳です。

 改めて言うまでもなく、①~④は全て、戦闘的労働者や筑豊ヤマの会などが示してきた“意志”を逆なでする内容です。この過程で筑豊ヤマの会は、事実上の解散に追い込まれています。日雇全協も解体を余儀なくされました。このように(我々は)、日帝の「寄せ場」(労働運動)解体攻撃に痛恨の敗北を喫し、少なくとも当時の▽▽▽として、あまりに無力だった(と思う)のです。ともかくこれ以降、上映実(市民運動?)や路線転換グループは、上記「告発」への完全居直りで上映を続行しています。(また当時は――「▽▽▽」としての――KMTらによって、今はKMTグループによって、上映が続行されています)。09年にも――『救援』紙上や『図書新聞』紙上でで――上映実・池内淳平がぬけぬけと「山谷―やられたらやり返せ」上映予告を出しています。

(4)KMTらによる山谷争議団と日雇全協破壊(私的陰謀「運動」=「寄せ場交流会」づくり)について

 表題に述べているとおり、KMTらの山谷――「寄せ場」破壊の全体像を見た私なりの“結論”は、つまりそれが一貫して、KMTらの総転向陰謀の、(M大拠点破壊と並んで)――ひいては革命党の路線そのものを変質・破壊するための――私的陰謀「運動」として、「全国寄せ場交流会」づくりが工作されていた、ということです。

A.「沖日労」をめぐる「分裂・再編」も同時進行していますが、具体的に検討する条件・力量が、私にはほとんどありません。(関連諸同志の解明課題にしてもらいたいことです)。

B.また阪神大震災の“被害”が、何より被災地域労働者に集中することについて、当時の○○(★※地区)で「党的集中方針が必要!」と討論し、(直接には森田同志から)西日本某会議に提起したことを“契機”に、しばらくしてKMTが「▽▽▽の指示」として「釜ヶ崎労働者の会」構想を持ち出し、しかも「そもそもの提起地区(=○○(★※=私たち))が人的財政的条件を作れ」としてきた。○○(★※地区)では――これを――“乱暴”ではあるが“積極方針”と受け止め、これに全力をつくしている。その後、私や森田同志は、それが必ずしも「中央的統一方針」ではなかったことに気付かされ困惑させられてもいく。★★※※……KMTが「好き勝手」に振る舞い、他の▽▽がこれを許し、影で「KMTの指示で動いた者」に悪罵を投げる、というようなこと、それこそ派閥主義ではないのか。派閥主義は▽▽▽の共同責任ではないのか。「954号論文」=「学生の責任」論を発明した▽▽▽は果たして正当か!…※★

 さらに現在、この「釜ヶ崎労働者の会」は、〔○.○―○〕めぐる坂○の小器用で卑劣な立ち回りとともに全成果をさん奪され、またそれは完全に――FNR破壊分子・OT克を擁する――路線転換「釜日労」と仲良く共存している。

C.度重なるFNR破壊の失敗の末、〔○.○-○〕以降のFNR乗っ取り策動も組合労働者に粉砕され、こうしてニセ「組合」をでっち上げて権力・路線転換グループとの“ブルジョア統一戦線”を展開している、この福岡の状況は周知として省略します。

D.そして何より、〈日雇全協破壊―「寄せ場交流会」づくり〉とその陰謀推進の主戦場は“山谷”です。

(a)ISやGDが木元らに放逐された〈真の理由〉は何か?

(b)いわゆる「映画問題」討論は、○○(★※地区)以外(特に首都圏)ではどう討論され、または“閉ざされ”ていたのか?

(c)争議団「除名」・全協「脱退」の〈真の理由〉は何か?

(d)会館占拠・乱闘と――小田原紀男と山田○樹の――「手打ち」の〈真相〉とは何か?

(e) (★※…下書きで、空欄になっている、そのママです)

(f)結果、現状として、双方がそれぞれに勝手に「映画」を上映している………これはどういうことか?(KMT流の「映画問題のケリ」とは何だったのか?)

(g)結果、現状として、(全国的に)一方の“反失連”と、もう一方の“寄せ場交流会”が並存・共存(○○では美野島教会で合流・結託さえしている)……これは何を意味するか?

 これらは、日帝国家権力の80年代からの「寄せ場」(労働運動)解体攻撃と、――別の側面から言えば――「ホームレス法」攻撃・総「非正規」化攻撃との関係において、当時、いかなる役割を果たす陰謀であったのか、自ずと全体像は浮かび上がると思います。

(※例えばこうした現実の階級闘争史の解明と対決=現実の階級闘争の強化こそが“KMTグループ発生総括の中心課題”だと私は思うのです)。

 上述(a)~(g)等の不可解事態について、私がどのような「推論」をもって全体像を見ているかはいまや説明の必要はないでしょう。(a)~(g)は、党の総体として、同志的共同で討論・検証されてこそ意義をもち、真の武器に転化されるものなので――すでに10数年も過ぎている現実は苦しいですが――そうした闘いを期待します。

 その上で現状はこうです。現在直下、KMTグループと路線転換グループは、それぞれに互いに干渉せず(○○では協力し)それぞれに映画上映をくりかえしていること! 全国的には「寄せ場交流会」と「反失連」との棲み分け・共存が成立しており、何よりまず山谷現地において「山日労」と「山谷争議団」として棲み分けており、さらに○○においては美野島教会で完全に合流していること!

 しかも浄土真宗・木村某や、キリスト教団西福岡教会・有川某などは連名で「○日労は二つあり、一方(=真の○日労のこと)はニセモノです」なる“回状”を回すほど、KMTグループとは蜜月関係にあること! これが現状です。

 つまり旗を振る日帝国家権力とその旗にひれ伏すKMTグループ・路線転換グループどもと、全てが〈総翼賛〉なのであり、(「寄せ場」労働運動領域においては)○日労運動のみが!!非妥協・非和解―実力・武装の道を進撃しているゆえに、ここを狙って組対法―拠点破壊攻撃が集中していること!! です。

〈補足 6※※〉90年代の山谷には“ミニ革命”がなかった!!

 私は、80年代に――○日労連帯を契機として出発した――“労学連帯・○○学生実行委員会(学生実)”の活動として、学生数名とともに当時の山谷争議団を訪問し、その(「映画」シーンそのままの)偶然にも青空団交の闘いに参加させてもらったりしていた。だが、90年代にはまったく山谷に縁がなく、98年夏出獄後、しばらくのちの10月にM大(対ゴスペル戦)集中後、その冬にはじめて“山谷越年越冬闘争”を経験した。情緒的表現で申し訳ないが、何より驚いたのは、――すでに95年の○日労旧執行部総脱走後の労働者全体が見違えるほどに示した主体的戦闘的突出があり、私としては「ミニ革命が起きた」とさえ感じてきたのだが――、98-99の山谷・玉姫公園に結集する大半の労働者に“そうした変化・突出”がまったく見られず、ただごく一部の「現役・職人」的な数名の労働者が見せていただけであった。これは、○○(★※地区)95年以前の「施してやっている」型の運動の中で見られた〈一部の現役層と活動家〉と〈他の大部分の労働者〉との深く大きな距離感がそのままだ、と感じたことでした。またその山谷越冬行事・作業の全般にわたって「分業」を固定化し「専門領域」に立ち入らせず、労働者の頭上から「働かざる者食うべからず」方式で★※…暴力的に!…※★統制するKJKのふるまいなどは、95年以前の○日労より絶望的な光景でした。さらに、名目上は“労学連帯”を闘っているはずの“学生を中心とした防衛班”も、“いかに、労働者とともに!!対金町戦を闘うのか”の議論もないまま、代行主義丸出しである上で、逆に“その待機場所が防衛拠点である”という理由で、その場で労働者と交流しようともせず、むしろその場から労働者を排除してしまう。★★※※…そんなやり方が東京の労働者も学生も丸ごとかかわっていた▽▽▽のやり方として継続していたのだ。こうした反労働者的行為を隠蔽し続けて、さも「自分たちは階級的だ」とふんぞり返っている有様、それこそまた「映画問題」そのものなのだ!…※★★

 またその場以外の会場内で独自に労働者と交流しようとすれば、KJKは「持ち場に帰れ」と追い返そうとする。こうして“交流・連帯”をまったく蓄積できない学生達が、しかし他方では、ワッショイ・デモの直前になると、突然「デモに出ようよ」とそこいらの(★※日雇い・野宿の)労働者をさかんに勧誘して回るのである。「労働者の中へ!」分け入ろうとしない学生運動が、どうしていきなり労働者の頭上から「オルグ」にかかるのか。どうしてこんな「労学連帯」が定着したのか。(私には、こうしたことに“KMTグループ・学生主義”の原風景があったと思えてならないのですがどうでしょうか)。

 さらにこの越冬闘争について99年1月すぐにM大・生田で総括会議をやり、開催責任のデバ○が「総括」と称して「防衛総括」のみを提起したので、私から「労学連帯をめぐる総括」を追加して提起したところ、「余計なこと」とばかりにデバ○がさらに「防衛総括」のみをかぶせて「集約」にするという不可解かつ不愉快な場面もありました。今にして思えばこれが“KMT陰謀”に組みしたデバ○の官僚主義統制の混乱の極みであった訳ですが、より困惑したのは――デバ○のみならず――当時の首都圏学生運動において“労学連帯”ということがひとつの具体的課題としてさえ定着していない、と思われたことでした。少なくとも“労働者大衆に分け入り、共同していく力=内在的に推進する力”が鍛えられ育まれない限り、そこでの〈防衛力〉など、実に薄っぺらでしかなく、まぎれこんだスパイの摘発も攪乱情報の粉砕もできず、決定的な敗北を導くことは明らかです。私には「ミニ革命を実現できてない」山谷の状況は、「労学連帯討論が成立しない」学生運動の状況と不可分一体の課題と思えます。

 (※当時も「全国○研」と「寄せ場○研」が切断状況にあったと思われた上、こうした階級的党の根幹にかかわる矛盾が、○.○-○以降10数年を経た今日まで――私から何度か提起したが――“総括課題”にもならない我々の状況とも一体であろうとも思います)。

また<階級性>の成否の問題と同じく、<打倒力・止揚力>は政治スローガンではなく(現在進行の闘いの「はるか彼方」に実現しうるものではなく)現在の闘争・組織方針の下で着々と形成・獲得されていくべき(いきうる)ものだと、こうしたことからも言えると思います。

③木元グループ発生過程における学園拠点破壊―革命的学生運動破壊(と打撃)について

「本論(紙954号)」では、要するに「学生の小ブル性」が“問題の核心”として指摘されているが、だが現実には、KMTグループ発生過程に至る革命的学生運動の状況はどのようなものであったか。討論不足ゆえに“私から見えた範囲”に限定せざるをえないが、それなりに概括しておきたい。

 結論から言えば、私は、90年代○大拠点建設と、これに中途介入したKMTの諸言動や「指導(?)」の中に、同時に特に当時のM大―首都圏学生運動の(90年代後期の)いわば“敗北的状況”が示されており、また実際にも(98-99に見た限り)そうであったと考えているが、なぜそう言えるのかについて示していきたい。

(1).〔90〕以降、90年代九大拠点建設の全体構造(と、その中における木元の「指導?」について)

※以下、書きかけなので省略します。

……………………………………………………

……………………………………………………

 今回のブログ投稿文中で★※…で示した箇所以外はすべて、当時獄中から発信して総括討論提起したものです。今回転用しつつ、自分でもその内容の重大さを再認識させられているのですが…。しかしそれらはすべて▽▽の奥闇に葬られたままです。歴史の隠蔽の上に安住しているものたちは時代の証言者であるY氏や私が「息絶えるのを待っている」のかと思うと、ますます「歴史を明らかにせずして簡単には死ねない」との思いが強くなり、逆に今の自分の生命力になっているようにも感じます。

 乱雑な下書きのノートは、まだ提起も出来ずに眠っています。これから書かねばならないこともたくさんあります。

 ともあれ今回で『行動委員会運動と党建設』(再録・加筆)は終わります。が、その問題意識は継続して、今後は他の個々の闘いの総括へと、『続・行動委員会運動と党建設』といったタイトルで書き下ろしに挑戦していきたいと考えています。

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■■☆コミューン研究☆ №005

 『「マルクス国家論入門」学習ノート』③

★★※※……

■■【闘いの血のにじむ言葉を政治的アリバイ文句にするな】■

 かつて私が活動していた地から遠く東北の地にて働いているのですが、その私の知る限り、

①かつての私に深く関係した▽▽派では「我々は自己批判する」とか「我々は差別を許さない」とかいう言葉を文章の端に加えることがはやっているようです。だが現実に様々な差別(支配・抑圧・分断など)に苦悩し闘っている大衆と(その闘いの現場で、その最前線で)共に闘い共に総括し共に方向を編み出すような格闘の地点に立とうともしないのならば、上のような言葉は「私は潔癖です」とアリバイづくりの免罪符のようなものにすぎません。なんという空疎か。

■■【全障連運動の意義を守る人々と、血叫びを黙殺し続ける人々】■

②また、かつて国─厚生労働省が「支援費制度」攻撃を号令に「障害者の自立?」=社会保障制度の実質解体へと踏み込んだときに全障連○○ブロックが勇敢に先陣を切ってこれと闘ったのですが、すでに融和主義への屈服の道を走っていた「ニセモノ全障連」などの諸君から──○○ブロックの闘いを排除するために──「活動停止」次には「除名」、最後には「公安警察やKMTグループが合体した融和主義のニセ『ゼンショウレン』でっち上げ」などの矢継ぎ早の攻撃にさらされました。そうして、○○ブロックに対する破壊の仕上げとばかりに「組対法」をふりかざした差別弾圧が仕掛けられたわけです。いま▽▽派までも含むすべての精力の中ではこの歴史が完全に消されています。

 ただし、この過程を勇敢に闘った○○ブロックの「障害者」や、これにつねに連帯してきた関東の「病者」だけが、今もこの痛苦な歴史を踏まえ引き継いで、高々と「(真の)全障連の再建を!関東ブロックの再建を!」と訴えています。正直、あきれるのですが、いくらその訴えを聞いても▽▽派では「これに連帯して共に闘う」行動も起こさず連帯の言葉すら言わない団結裂断状態が継続しています。いま、彼らに駆け寄って合流できない「私自身の状況」も「申し訳ない」と思うばかりではあるのですが。

 今の私にできること、またはやらねばならないこと、として、この全障連運動の意義と歴史と展望を(消させず忘却させず)書き記すこと。また同じように、例えば──私が知る限りの──「寄せ場」労働運動=日雇全協の闘いの意義と歴史と展望を書き記すこと。その他、消された諸運動の歴史を正しく書き記すこと。これらは命ある限りの使命だと任じています。…

■■【官僚・イエスマンの改ざんを突破して、マルクス理論の復権を】■

 …歴史を記し展望を示していくその武器は、もちろん(観念的に読み替えられたものではない)マルクスを軸とした階級闘争の視点です。いまや理論自体が「呪文」化されて「官僚とイエスマン」が大量生産されてしまったとも思わざるをえない事情もあります。だから──学者ほどの詳細な展開にはとてもおぼつかないものの──イエスマンとしてではなく自分自身の怒りに立って闘う労働者なら必ず獲得できるし武器にできるほどの「マルクス理論の復権を」と、このブログで、必死に格闘しているところです。

 労働者としての自らの問題意識をもって読んでくれている数名の方々がおられると聞きます。マルクスの、ある意味で難解な言葉も多いのですが、私もできるだけ読者が読みやすいように努力していくつもりです。などなど考えつつ、以下、前回までの「国家論入門」ブログのまとめとして…私の『マルクス著作と思想』ノートからいくつか抜粋紹介などしてみようと思います。

 ……以上は前置きです。  ……※※★★

………………………………………………………………………………………………

★※…『ユダヤ人問題によせて』より

< 人間は自分がつくりだした神に逆に支配されるように、自分たちの労働をつうじて貨幣という神をつくりだし、それを跪いて拝んでいる。政治的解放(宗教信仰上の同権獲得、つまり市民革命)は真の人間的解放への前段階にすぎない。後者は、貨幣が神となっている私有財産世界の廃絶によって実現されるのである。 >

…※★

★※…【フォイエルバッハ疎外論と、マルクスの跳躍】について

「存在こそ主語であって、思想は述語にすぎない」…この唯物論的倒置法がマルクスの覚醒の跳躍台となった。

人間が主語、貨幣は述語!(『ユダヤ人問題によせて』)

市民社会(経済的土台)が主語、国家(上部構造)は述語!(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

……だが問題は、この新しい構図において、貨幣とは何か、市民社会とは何か、の内実がほとんど埋められていないことであった。

…※★

★※…『経済学・哲学草稿』について(1)…【労働疎外論への現代的関心】

 労働疎外論が注目されてきた歴史的社会的背景…は…、

①『経・哲草稿』は、第二次大戦後にあらわになった社会主義諸国のスターリン主義体制に対する、西欧マルクス派の異議申し立ての理論的支柱となった。…ヒューマニストマルクスによる「人間疎外」(=官僚主義的専制)糾弾の書として…賞揚される。

②第二次大戦後に新たな波を迎えた産業技術の高度化、それにともなう労働疎外の深化である。

・1910年代初頭に創始されたフォード・システム(労務管理)…のなかで、細分化された労働の「権力不在性と無意味性」(R・ブラウナー)とは、産業のオートメーション化、エレクトロニクス化ともいい、いっそう深刻の度を加えるにいたった。

・「管理社会化」とよばれる現象も<生産点における疎外の深化の反映>にほかならない。

………………………………………………………………………………………………

「労働者は自分の労働を幸福と感ぜず(『疎外された労働』断片)に、かえって不幸と感じ、自由な肉体的・精神的エネルギーが発展させられずに、かえって消耗し退化する。だから労働者は労働の外部ではじめて安らぎ、労働のなかに自分はいないと感ずる」

………………………………………………………………………………………………

…※★

★※…『経済学・哲学草稿』について(2)…【利潤・地代・労賃】

  ※【資本とは、他人の労働とその生産物を支配する力】※※

< 利潤・地代・労賃という所得は、国民経済学の平板な三分法によれば、資本・土地・労働という生産の三要素からそれぞれ生まれる。しかし、私的所有という観点から見ると、資本と土地とは同じ私有財産といっても性質を異にする。土地とは起源からみても略奪の所産(※セー)であり、本質的に封建的な財産であるのに対して、資本は「蓄積された労働」(※スミス)なのだから。だから資本とは、他人の労働とその生産物を支配する力なのだ。>

…※★

★※…『経済学・哲学草稿』について(3)…

  ※【人間の本質的な生命活動ではない「疎外された労働」】※※

< 人間は、自然の有機的一部として自然に働きかける一方、個々の人間は人間という類=共同体に属して協働しあう存在(類的存在)である。自然対象を共同で加工し、その成果を共同に分かち合う過程で自己を豊かに充足してゆく、これが人間の名に値する生命活動であろう。

 ところが、現在の社会ではそうならない。

………………………………………………………………………………………………

「労働者は富を多く生産すればするほど、…それだけますます貧しくなる。(※なぜなら)労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます安価な商品となる(※からだ)」。

………………………………………………………………………………………………

 搾取の強化、すなわち労働生産性が発展すれば、労働者の生活資料の価値は低くなる。もしも労働組合といった社会的な対抗力がなかったら、生活費が安くなった分だけ資本家は賃金を切り下げてくる。これが市場メカニズムである。>

…※★

★※…『経済学批判』序言…より

「(※『独仏年誌』に論文を発表してからの)私の研究の到達した結果は次のことであった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は…物質的な諸生活関係に根ざしているものであって、これらの諸生活関係をヘーゲルは、18世紀のイギリス人(※A・スミス)およびフランス人(※ルソー)の先例にならって『市民社会』という名のもとに総括している(『法の哲学』)のであるが、この市民社会の解剖学は(イギリス古典派)経済学のなかに見つかるはずだ、ということであった。」

…※★

…………………………………………(★※ここから『マルクス国家論入門』再録を続けます)

……………………………………………………

第1章・マルクス国家論の原型

第二節 政治学批判と経済学批判

■【政治学批判1『独仏年誌』】

 『ユダヤ人問題について』(一八四三年秋)の第一論文でも、市民社会と政治的国家との分離・二重性

マルクス的把握は受けつがれ、より一層明確に次のように表現される。

 「政治的国家が真に発達をとげたところでは、人間は、ただ思考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治的共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自分を共同的存在だとおもっている。もう一つは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力の玩弄物となっている。

 政治的国家は市民社会にたいして、ちょうど天上が地上にたいするのと同じように、精神主義的に臨む。政治的国家は市民社会にたいして、宗教が俗界の偏狭に対立しそれを克服するのと、同じように対立し、同じ仕方でそれを克服する。すなわち、国家もやはり市民社会を改めて是認し、たてなおし、その支配をうけないわけにはいかないのである」。

 マルクスにとってまさにそのような近代の政治的国家と市民社会との弁証法的構造の克服こそがはじめから問題なのである。

 ★※【「政治的解放」批判】…(小見出しは加筆)※★

 近代におけるこのような分裂的な人間のあり方をマルクスは政治的解放ととらえ、それはたしかに人間解放の一大進歩ではあるが、まだ政治的解放にとどまっている点を批判する。

 なぜなら

 「政治的解放は、徹底した、矛盾のない、人間的解放のやり方ではないからである。政治的解放の限界はただちに次の点にあらわれる。すなわち、人間がある障壁から、現実に自由になっていなくとも、国家はそれから自由になりうるということ、人間が自由人でなくとも、国家は共和国でありうるということである」(同上)。

 「政治的革命は、市民生活をその構成部分に解消するが、これらの構成部分そのものを革命し批判することはしない。それは、市民社会、すなわち欲望と労働と私利と私権の世界を、自分の存立の基礎、それ以上基礎づけられない前提、したがって自分の自然の土台としてそれに臨む」(同上)。

 ★※【「人権」論の秘密】…(小見出しは加筆)※★

 すなわち、近代的人権は、市民社会における固有の対立する利己的人間が国家によって普遍的な権利主体として認められた権利であり、どこまでも市民社会を前提、基礎、土台とし、そこからのみ、それと政治的国家との関係からのみ基本的に解明されうるのである。マルクスの人権論は、ここからはじまって、さらに『資本論』において科学的な解明を与えられることとなるのだが、まずここで近代自然法以来の観念論的な天賦人権論が揚棄される突破口がつくり出される。

 政治的解放から政治の不必要な人間的解放の世界へ。

 人間解放のかかる基本路線こそマルクスの国家論を貫くものである。

 ★※…■【一八四三年『ヘーゲル法哲学批判序説』】…※★(※小見出し加筆)

 マルクスは…… ……フランス革命に象徴される近代の政治的革命について次のことが明らかになったとする。

                                                「部分的な、たんに政治的な革命は何にもとづいておこなわれるのであるか?

 それは、市民社会の一部分が自分を解放して普遍的な支配に到達すること、ある特定の階級がその特殊な地位から社会の普遍的な解放をくわだてることにもとづいている。…」

 ……

 (※フランス革命などブルジョア革命における※)近代の政治的解放と政治的国家とは、市民社会におけるある特殊な階級すなわちブルジョア階級が、その特殊な地位から社会の普遍的解放をくわだて、そこに社会の普遍的権利の名のもとに普遍的支配を打ちたてたもの

 …としてつかまえられ、そこにはじめて市民社会の階級性と政治的国家の普遍性との矛盾的統一関係が指摘されたことに注目しなければならない (階級国家論の萌芽)。

 ★※…【「プロレタリアート」の規定(1)】…※★(加筆)

 だが、ドイツではそのような政治的解放、そのような政治的革命による政治的国家の樹立はもはや問題にならない。…

 「…それはラディカルな鎖につながれた一つの階級の形成のうちにある。市民社会のどんな階級でもなような市民社会の一階級、あらゆる身分の解消でもあるような一身分、……ドイツの国家制度の帰結に一面的に対立するのではなくその前提に全面的に対立する一領域、そして結局、社会のあらゆる領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のあらゆる領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域、……社会のこうした解放をある特殊の身分として体現したもの、それがプロレタリアートである」(同上)。

 ★※…【プロレタリアートの規定(2)】…※★(加筆)

「ラディカルな鎖につながれた一つの階級の形成」

★市民社会のどんな階級でもなような市民社会の一階級、

★あらゆる身分の解消でもあるような一身分、

★国家制度の帰結に一面的に対立するのではなくその前提に全面的に対立する一領域、

★社会のあらゆる領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のあらゆる領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域、

……それがプロレタリアートである

「人間を人間の最高存在であると言明する」

    …※★★★★★★(以上、加筆して再確認)★

■【最初の経済学批判──『経済学・哲学草稿』】

 『経済学・哲学草稿』(一八四四年八月)…

 その中心は、※【疎外された労働論】※…

 その※【疎外された労働の自己矛盾の揚棄】※…

 すなわち、

 「人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義

それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義

それゆえに、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、いまいままでの発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義

(『経済学・哲学草稿』)の原理的提示であった。

 国家についても、ヘーゲルが富や国家権力を人間的本質の疎外物としてとらえながら、それがどこまでも抽象的思惟のなかでの疎外にすぎず、したがって、結局はその疎外のなかでの自己肯定、自己確認、国家との妥協に陥っていることを批判し、マルクスはあくまでも現実的な市民社会における現実的な疎外の止揚、「国家の揚棄」(同上)を説いている。

 近代においては、

 「所有者の支配が、私有財産の、資本の純粋な支配として、すべての政治的色あいを脱して現われること、有産者と労働者とのあいだの関係が、搾取者と被搾取者の国民経済的関係に還元されること」(同上)がおこらざるをえない、

 と市民社会と政治的国家との分離を指摘している。

■【政治学批判の継続】

 ★※「論文『プロイセン国王と社会改革──一プロイセン人』にたいする批判的論評」※★

  ★【国家と市民社会の解体へ】★(加筆)

 「国家は自分自身を廃棄しないかぎり、一方における行政の使命および善意と、他方における行政の手段および能力との矛盾をなくすことはできない。なぜなら、国家はこの矛盾に基礎をおいているからである。…」

 だから、近代国家のこの本質的無力を克服しようと思うならば、国家を強化するのではなく、全く反対に、政治的国家と市民社会との矛盾的統一関係そのものをなくしてしまわねばならない。

  ★【労働者の蜂起】【マルクスの革命論】★(加筆)

 労働者の蜂起についてマルクスは次のように述べる。

 「蜂起というものは、すべて例外なく、人間が共同体からひどく孤立しているところでおこるのではないか? …

 労働者自身の労働によって彼らから切りはなされているこの共同体は、生活そのものである。つまり、肉体的および精神的生活、人間の倫理、人間の活動、人間の楽しみ、人間的本質である。人間的本質は人間のその共同体である。この本質からひどく孤立することのほうが、政治的共同体から孤立することよりも比較にならないほど全面的であり、耐えがたく、恐ろしく、矛盾にみちたものであるが、それと同じように、この孤立をなくすこともまた、そしてこの孤立にたいする部分的反抗すなわち蜂起でさえも、人間が公民より、そして人間生活が政治生活より無限であるのと同様、はるかに無限である。

 だから産業上の蜂起は、どんなに部分的であっても、そのなかに普遍的精神をひそめており、政治的蜂起は、どんなに普遍的であっても、形はどれほどりっばでも、そのかげに偏狭な精神をかくしているのだ」(同上)。

  ★【政治的共同体、政治的国家の再建にとどまる政治的蜂起ではなく!】★(加筆)

 「社会革命が全体の立場にあるのは、それが──たとえ工場地帯におころうと──非人間化された生活に対する人間の抗議だからであり、現実の個々人の立場にたっているからであり、また個人がそれから切りはなされていることにたいして反抗するような共同体こそ人間のその共同体であり、人間的本質だからである。

 これに反して、革命の政治的精神の本質は、政治的勢力のな小階級(※←OCR読み取り失敗です※)が、国家制度と支配権からのみずからの孤立をなくそうとする傾向のなかにある。その立場は国家の立場、つまり抽象的全体の立場である。…

 したがってまた、政治的精神による革命は、この精神の制限された分裂的な性質により、社会を犠牲にして、社会のなかに、一つの支配的集団を組織するのである」(同上)。

  ★【社会的精神をもってする政治革命!】★(加筆)

 「政治的精神をもってする『社会』革命というのは、次の二つのうちのどちらかである。

 すなわち、もし『プロイセン人』氏が、『社会』革命を政治革命に対立する『社会』革命と解し、しかも社会革命に社会的精神ではなくて、政治的精神をあたえるとしたら、それは不合理に不合理を積みかさねるものだ。そうでなければ、『政治的精神をもってする社会革命』は、これまで『政治革命』あるいは『たんに革命』と呼ばれていたものを言いかえたにすぎない。革命はすべて従来の社会を解体する。そのかぎり、それは社会的である。革命はすべて従来の権力を打倒する。そのかぎり、それは政治的である。

……

 いやしくも革命というもの──現存権力の打倒と従来の諸関係の解体──は一つの政治行為である。だが革命なしには、社会主義は、実現できない。社会主義は、破壊と解体とを必要とするかぎりで、右のような政治行為を必要とする。

 しかし、社会主義の組織活動がはじまり、その自己目的、その精神があらわれるようになると、社会主義は政治的ヴェールをかなぐりすてる」(同上)。

 マルクスは、フランス革命に代表される従来の革命、「ブルジョアジーの解放──政治的解放」(同上)を、政治的精神をもってする社会革命と批判し、これに対して労働者による革命を、社会的精神をもってする政治革命と規定した。それは、従来の政治的国家、その支配権力に根本的に対立しこれを打倒する以上、政治的である。だが、それはそれにかわる自らの政治的支配、政治的国家の樹立、すなわち再びマルクスの言葉を借りれば、「社会を犠牲にして、社会のなかに、一つの支配集団を組織する」ことを目的とはしない。全く反対に、政治的なるものの否定、克服の上に新たな社会的精神をもってする人間の共同体、社会主義社会をつくり出そうとするのである。

  ★【「偏狭な党」「偏狭な革命」「現代のロベスピエール達」の秘密】★(加筆)

 マルクスはいう。

 「いろいろな政党が存在するところでは、どの政党も、自党のかわりに反対党が政権をにぎっていることに、あらゆる害悪の原因があると考えている。急進的で革命的な政治家たちでさえ、害悪の原因を国家の本質のなかに見ないで、特定の国家形態のなかに見て、これにかえるに他の国家形態をもってしようとしている」(同上)と。

 マルクスにとって、対決すべきは、国家の本質そのもの、政治そのものであった。これに対してフランス革命の英雄ロベスピエールは、政治的精神をもってする社会革命を貫遂しようとして挫折した。これについてのマルクスの批判は次の通り。

 「彼は万人にスパルタ式倹約心をうえつけたいと望む。政治の原理は意志である。政治的理解力が一面的であればあるほど、いいかえればそれが完成していればいるほど、それは意志の全能をますます信じ、意志の自然的かつ精神的限界がわからなくなり、こうして社会的欠陥の原因がますます発見できなくなる」(同上、四三九頁)。

 現代の多くのロベスピエール達もまたこのマルクスの批判をまぬがれることは出来ないのである。

できるであろう。

■【階級国家論──『ドイツ・イデオロギー』】

  ★※【ブルジョアジーの共同利害態としての国家】※★(加筆)

 「ブルジョアジーは、もはや身分ではなくて、一つの階級なのであるから、もはや局地的にではなくて、国民的規模で自己を組織せざるを得ず、彼らの平均的利害に、ある普遍的形式を与えざるを得なくなってきている。私的所有が、共同体から解放されることによって、国家は市民社会と併立し、かつその外に立つ独自な存在となった。だが、実際には、国家とは、ブルジョアどもが、対外的にも、対内的にも、彼らの所有と、彼らの利害とをへ合同的に)相互に保証しあうために必要とした、組織形態に他ならない。……

 国家とは、支配階級に属する諸個人が、彼らの共通利害を実現し、その時代の市民社会全体が総括される形態である。従って、そこから生じる一切の共通の制度は、国家によって媒介され、ある政治的形態をとる、という事になる。そこから法律は意志に基づき、現実の土台から切り離された自由な意志に基づくものであるかのような幻想が生まれる」(同上、五二頁)。

  ★【プロレタリアの共同社会】★(加筆)

 このような階級国家としてのブルジョア近代国家に対して、マルクスは、プロレタリアの共同社会を明確に対置して次のようにいう。

 「共同体において初めて、個人は、自分の素質を全面的に発展させる手段を与えられる。だから共同体において初めて、人格的自由が可能となる。

 共同体に対立する従来の代用物、即ち国家等々においては、人格的自由は、単に支配階級の生活諸関係のうちで育った諸個人にとってのみ、そしてまさに、彼らがこの階級に属する諸個人であった限りにおいてのみ、存在したにすぎない。

 いままで諸個人がそこに結集して形造っていた外見上の共同体は、いつも彼らに対立して存在していた。

 しかも同時に、それは他階級に対するある階級の(表象)連合であったから被支配階級にとっては、それはただ単に全くの幻想的な共同体であったばかりでなく、また新たな蛭椿でもあった。(※←OCRミス※)

 本当の共同体においては、諸個人は彼らの連合の中で、また連合を通して、同時に彼らの自由を獲得するのである」(同上)。

  ★【階級の形成】★(加筆)

 「特定の階級のもとへの、諸個人のこうした従属は、支配階級に対してもはやいかなる特殊利害をも守り抜く必要のないような階級が形成されない限り、決して廃棄する事は出来ないのである」(同上)

 「プロレタリアは、人格として力を発揮するためには、彼ら自身の従来の生存条件1それは同時に従来の社会全体の存立条諸個人が、これまで自分たちにある種の全体的表現を与えるためにとった形態、即ち、国家というものと真正面から対立しており、そして自らを人格として確立するためには、国家を打倒しなければならないのである」(同上)

 すなわち、プロレタリアによる階級国家そのものに対する全面的対立とその打倒、そして共同体の実現である。「ある階級の諸個人がとり結び、そして第三者に対する彼らの共同利害によって成立せしめられている共同関係」(同上)つまり国家に対して、このプロレタリアの共同社会こそ「諸個人は諸個人の自由な発展と運動の諸条件を、自分たちのコントロールのもとにおく、諸個人の連合に他ならない。」(同上)。

  ★★★※…『ドイツ・イデオロギー』における

【「哲学こそ頭脳」の克服…について】…(前掲書『マルクス著作と思想』より)

 『ドイツ・イデオロギー』…の意義とは…ドイツ哲学の批判にとどまらない…<哲学こそ解放の頭脳だ、という考え方の克服>なのである。すなわち…

フォイエルバッハをこえた唯物論の定立、

②現実の社会の構造、およびそれを動かしている運動法則の解明、

③現実の社会がどこから生まれ、革命的変革を経てどこへ行くのかという歴史的展望。

  ★★★※…『ドイツ・イデオロギー』が新たに確立した歴史観(前掲書より)

 「この歴史観は次のようなことがらに立脚している。すなわち、

①現実的な生産過程を解き明かすこと、それも特に直接的な生活(※生命)の物質的な生産から始めて解き明かすこと。

②そして、この生産様式によって産み出され・かつそれと結びつく交通形態を、したがって種々の段階における市民社会を全歴史の基礎とみなすこと。

③さらに市民社会を国家としての作用においても叙述すること、

④また、意識のさまざまな理論的産物・形態の一切つまり宗教・哲学・道徳・等々を市民社会から説明すること、

⑤そして、これら宗教等々の成立過程を市民社会の種々の段階から跡付けること。」

★★★※【世界革命】【共産主義社会のイメージ】について…(前掲書より)

 ★※『ド・イデ』はマルクスエンゲルスの共同執筆の書である。そのため一度下書きされたものにマルクスが欄外に註記を書き込むといったことがなされているという。それで下のような説明となっているようである。※※(←★の加筆)

 ※※【あらゆる分業から解放された生活】※※

 「共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲も持たない。私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝には狩りを、夕べには家畜の世話をし、《夕食後には批判をする》ことが可能になり、しかもけっして狩猟・漁夫・《批判家》にならなくてよいのである」

   ………※《 》はマルクスの註記……下は、上の文章に対するマルクスの欄外註記………

 《革命にとって絶対に必要な実践的前提は、生産力の普遍的な発展である。……なぜなら、生産力の巨大な発展があればこそ、諸民族の変革を互いに助け合う世界史的個人が、局地的個人にかわって形成されるから。共産主義は局地的(朝には狩りを!)であってはならないし、プロレタリア革命は世界市場を舞台とした世界革命でなければならない……》

 ★※… 国際連帯(特に現代日本の場合は日朝連帯)の現実的具体的な闘いの中で、マルクスの言う「世界史的個人」の道が打ち鍛えられていなければ、どうしてプロレタリア世界革命など手繰り寄せることができようか! …(※★加筆)

■※『共産党宣言』…の国家の規定※■

 この階級国家論は、初期マルクスの全思想が要約されているマルクス三十歳の作品『共産党宣言』(一八四七年~四八年一月執筆)において、もっとも端的な表現を得た。

 …ブルジョアジーは、「大工業と世界市場とがくりだされてからは、近代の代議制国家において独占的な政治的支配をたたかいとった。…

 「ブルジョア階級全体の共同事務を処理する委員会」…

 「ブルジョアジーは、生産手段や財産や人口の分散状態を、ますます解消する。彼らは人口を密集させ、生産手段を集中させ、財産を少数の人間の手に集積させた。その必然の結果は、政治上の中央集権であった。べつべつの利害、法律、政府、関税をもっていて、ほとんどたんなる連合関係にあの全国的な階級利害にたつにすぎない独立の諸地方が、一つの国民、一つの政府、一つの法律、一つの関税区域に結びつけられた」(同上)

 「諸君の観念そのものがブルジョア的な生産諸関係や所有諸関係の産物なのだ。同様に、諸君の法も、諸君の階級の意志を法律に高めたものにすぎず、その意志の内容は、諸君の階級の物質的生活条件のうちに与えられているのだ」(同上)。

 「近代工業は、家父長制的な親方の小さな仕事部屋を工業資本家の大工場に変えた。労働者大衆は工場に詰めこまれて、兵隊式に編成される。彼らは、なみの産業兵として、下士官と将校の完全な職階制の監視のもとにおかれる。彼らは、ブルジョア階級の、ブルジョア国家の奴隷であるばかりではない。また毎日毎時、機械の、監督の、そしてとりわけ工場主である個々のブルジョア自身の奴隷とされる。この専制は、それの最後の目的が営利であることをあからさまに公言すればするほど、ますますこせこせした、いとわしく、腹だたしいものとなる」(同上)

 ★※『共産党宣言』の階級闘争論──階級形成※★

 これに対してプロレタリアートおよび共産主義者はどうするのか。マルクスはいう。

 「これまでのあらゆる運動は、少数者の運動か、あるいは少数者の利益のための運動であった。プロレタリア運動は、大多数者の利益のための大多数者の自主的運動である。現代社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会を構成している諸層の上部構造全体をけしとばさないかぎり、起きあがることも背をのばすこともできない」(同上)

 「共産主義者の当面の目的は、他のすべてのプロレタリア諸党の目的と同じである。すなわち、プロレタリアートを階級に形成すること、ブルジョアジーの支配を打倒すること、プロレタリアートの手に政治権力を獲得すること、これである」(同上)

 「労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級の地位に高めること、民主主義をたたかいとることである。プロレタリアートは、その政治的支配を利用して、ブルジョアジーからつぎつぎにいっさいの資本を奪いとり、いっさいの生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう …(同上)

 …公的権力はその政治的性格を失う。本来の意味の政治権力は、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である。プロレタリアートは、ブルジョアジーにたいする闘争のなかで必然的に結合して階級をつくり、革命をつうじてみずから支配階級となり、そして支配階級として古い生産諸関係を暴力的に廃止するとしても、他方では、彼らは、この古い生産諸関係とともに階叔対立の存立条件、階級一般の存立条件を廃止し、それによってまた階級としての自分自身の支配をも廃止する。

 階級と階叔対立のうえに立つ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会が現われる」(同上)。

 ★※「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件である一つの共同体』※★

 ★※【過渡期】論の発展!!※★(加筆)

 ここで注目すべきは、さきの『道徳的批判と批判的道徳』において、プロレタリアートの「革命的権力」として、はじめて階級国家から共同体への移行の過渡期におけるプロレタリア権力への言及がみられたのが、『共産党宣言』では、それがさらに具体的かつ弁証法的にとらえられている点である。

 すなわち一方におけるプロレタリアートの国家、政治権力、政治的支配の確立と同時に他方におけるその政治的支配の廃止という矛盾物として。

 このことは重要である。

 ここでマルクスは実質的にはプロレタリアート独裁のことを語っているともいえよう。しかしまだプロレタリアート独裁という言葉はどこにもつかわれてはいないし、またその弁証法的性格をのぞけば、それをマルクスにおけるプロレタリアート独裁の定式化とみなすことも出来ない。

 マルクスは、そこで、国家すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートといい、またプロレタリアートは民主主義をたたかいとるといっているが、そのばあいの国家といい民主主義といい、それが一体なんであるのかについてのくわしい説明は行なっていない。

 総じて過渡期におけるプロレタリアートの政治権力の問題は、この『共産党宣言』においてようやくはじまったばかりであって、それに関するマルクスの発展した理論は、次の時期にほぼ三十年間にわたって展開された国家論、とくにその国家揚棄=廃止説をみることによってはじめて明らかにされうるのである。

 後にわれわれは、『共産党宣言』の規定がもはや「時代おくれ」として廃棄されてしまうことを知るであろう。(本書参照)。

 ………今回は以上です(★※加筆)

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■■☆コミューン研究☆ №007

 『行動委員会と党建設』(再録&加筆 ③)

★★※※……

 №005、№006と連続して、柴田著『マルクス国家論入門』について紹介しました。……実は、私の仕事が雨のため昨日に続いて休工となり思わぬ時間ができたため、…さらに頑張って、今回はもう一度『行動委員会と党建設』の再録(と加筆)を進めることにします。

 引用中、○○○○として伏字にした部分は、必要に応じて(※※・・・・※※)として加筆して説明しました。

   ……※※★★

………………………………………

………………………………………

■■■<補足>■■■………………………………………

「73○○」引用文=<行動委運動の重層的展開…を基礎とした党建設>の提起は、現在直下に非合法時代の闘争・組織建設論としても、戦略上の核心として明確に定立されるべきである、ということについて

………………………………………………………………………………

学生戦線などの「革命的インテリ」の矛盾に発する運動は、○○○○(※※労働者階級の戦いを軸にした統一戦線※※)の隊列のうちに戦闘的任務を背負って起ちつつ、同時に小ブル性(=賃金奴隷制への非和解性をめぐる<不徹底>性の残滓を一定混在させつつも、マルクス主義的共産主義的綱領・原則と現実の労働者階級(と全人民)の非和解的死闘的闘いの衝撃力を導きの糸としながら、労働者党員を先頭に階級的革命党の建設をも独自に射程に入れつつ闘っていく。

 そしてその闘いは、資本制支配とその国家支配に全面的に対決する他ない<全面的非合法存在><革命的存在>であるプロレタリア階級の<個々のうちに潜在している革命性>が闘いを通して<顕在化=より全面的に解き放たれる>よう、──不断に、新たな時代の、新たに戦闘的革命的に再編されていく行動委運動ーソビエト運動を基礎とし、階級の死活利害と革命的党的突撃力を組織しつつ、またこうして党的に組織された労働者階級の不断の決起と党的闘いがより全面的に発現されるように──闘うべき、ということだろう。

★★※※……(小見出しは加筆です)

■■「大衆─党─大衆」であり「党─大衆─党」ではない!

  「戦略」は「精神主義」にすりかえてはならない! ■■

 未整理ながら<一つの視点>だが、それは例えば<大衆─党─大衆>(=大衆的死活利害に発し、大衆的階級的権力樹立へと還されていく闘い)であり、決して<党─大衆─党>ではない点の重要性として確認すべきことではないだろうか。あるいは、ブルジョア的観念的普遍を粉砕し止揚する<労働者(人民)個々の諸矛盾との対決の総和>たる現実的普遍とは、まさに「73○○」引用文で提示された<行動委運動の重層的展開…の内在的推進>を基礎としてこそ、この地上に巨大に出現させうるのであり、ここにこそ──<理念としてのみならず──二重権力的な<実体>としての<打倒力・止揚力>をついに出現させうるのだ、ということなど、戦略上の核心問題が、まさにこの「73○○」引用文に凝縮して述べられていると思う。こうした戦略上の核心部分を決して「この精神」といった<読み解き>にしてはならない。

■■■<補足>■■■………………………………………

 「○○○号」で言う「生み出した責任」の意味・内容について、──それが<労働者人民に対する「責任」ではないこと>などへの──いくつかの疑問

………………………………………………………………………………

「○○○号」で「KMTグループを生み出した責任」に言及されていることは、例えば「KMTは元々○○派ではなかった」といった、いかなる総括も鍛え上げない論調よりはるかに前進した提起と思うが、

★★※※……【以下は加筆です。

  ■■KMTを生んだ責任回避で破綻する▽▽の根本問題■■ 】

 KMTはそのかつての党内活動も党外活動も「▽▽部」であったし実際そうだった。その「立場」をふりかざして「党内=若き同志たち」に暴虐をふるい、「党外=諸大衆運動」に破壊行為を続けて操作し私物化しようとしてきたのである。またそれらの横暴の成果をもって「党の破壊」を企ててきたのである。 この獄中からの提起では表現を押さえて述べているが、しかし他の「▽▽部」員たちは当初口をそろえて「KMTは元々○○派ではなかった」という表現を乱発していた。だがこれほど決定的な敗北的事態があるだろうか。「重要な責任にある同じ会議で長年同席していたKMTを反革命分子として生み出したことの、会議員としての責任回避・総括回避─歪曲」という見苦しいほどの自己保身の動機がそこにあったのだ。その後続いた弾圧・テロの中で、便宜的臨時編成的に▽▽に参入することになった私は、何よりその「総括ならざる総括」に反対して抗議した。そのことによって▽▽ではなんとか「元々○○ではなかった」というまやかしの言動は表面上は消えたかに見えたが、別の形の「総括ならざる総括」方法が編み出されていった。

 新たな「総括ならざる総括」の特徴のひとつは、「KMTは(学生戦線担当なのだから)学生戦線が生み出したのだ」という詭弁であった。KMTが学生戦線担当であり続けたのは▽▽がそのように承認し任命し続けたからである。あきれるほどの詭弁である。ここで私が批判している「○○○号」論文の基調はまさにこれである。ここには「学生戦線がKMTを生み出した」論から、「□□(私のこと)は第二のKMTだ」論へと橋渡ししていくあさましい意図・目的がこめられている。だから非科学的きわまりない意図的作文になってしまっているし、だから「獄中からの私の批判」は当時も出獄後も握りつぶされているのである。

 新たな「総括ならざる総括」の特徴のふたつめは、それまでの、「KMTを生み出した温床」を「M拠点大学の問題」に切り縮めて決して「東京・山谷の問題」に触れない・触れさせない態度を、──私が獄外にいないこの隙に──改めて「すべては学生の責任」という論調で意思一致し(かつ、私を最悪の分子とレッテル貼りしてしまうことで黙らせ)て、▽▽たちの膝元で繰り返されてきた「東京・山谷の労働運動破壊」さらには「日雇全協破壊」さらには全障連運動破壊・日朝連帯運動破壊など(▽▽として自己批判や総括が問われるような)諸大衆運動破壊の問題を決して総括課題にさせないということである。

 この「○○○号」論文が「我々は差別を許さない」と仰々しく大言壮語を書いたにもかかわらず、この時期に獄外では部落差別・朝鮮人差別・「障害者」差別などの何の学習会も組織されていないし、無実の石川氏に連帯する狭山現地での定例活動も消滅させられたし、より発展させていくはずの「狭山23デー情宣闘争」さえ「○○のビラまき」などと切り縮めた呼称に変更され歪曲されたし、○○地区朝鮮史研究会の活動も消滅させられたし、(当時の弾圧への反撃そのものである)融和運動を粉砕していくはずの全障連攻防も(少なくとも党内の課題としては)消滅させられている。諸君らがそうした無為無策ですましていられる、その生き方自体がとてつもない融和主義・差別主義であり、弾圧者に加担するに等しいことなのだが。

 また、そんなことだから「戦闘的労働者による『映画問題』=『筑豊からの告発』『山谷─日雇全協問題』の総括提起」に対しても「○○(私のこと)の言い訳だ」と捻じ曲げ、しかも「それは○○(私)を批判する同志たちの総意だ」という作文を▽▽が関与してつくり、承認させ、流布しようというスタ的な「イカサマ組織討論」に手を染めてしまうのである。

    (以上は加筆しました)……※※★★

しかしここでは、

1,階級的革命党としての、大衆的階級的闘い(に与えた打撃)への「生み出した責任」=自己批判としては(具体的言及もないが)「課題」としても全く提示されない。まずこのこと自体に大きな違和感がある。

 その上で、他方後段の「○○派の歴史と革マル反革命性」の項目においては、

2・

(1)「…『党軍路線』の軍の発生を許した…」責任、

(2)「…小ブル学生運動主義への転落を許した…」責任、

(3)「対敵共同性、敵との闘いをとおして団結…の解体…」の責任、

(4)「…民主主義的急進性の破産から…路線転換・転向…」の責任、が述べられているが、いずれの突破の課題も、その基礎に具体的現実的な大衆的階級的闘い(の共有と、内在的推進と、検証)が不可欠であるはずである。

 ところが、上述(1)~(4)の課題の提起のすぐあとに、「このように○○派と○○○は…プロレタリアートの利害にこだわろうと執着し…前進してきた。」と、つまり階級的自己批判の表明ではなく、むしろ逆に<○○派の一貫した正当性>が表明されていることによって、結局さらに「生み出した責任」とは、決して<党の労働者人民に対する責任>ではなかったことを再確認させられるのである。

 (※あるいは「責任を有するわれわれ」(「○○○号」)の中に、その責任の濃淡(?)による<二つの立場>が使い分けられた論理となっている、とも考えざるを得ないのである)。

★★※※……加筆して注釈します。

 獄中からの批判提起なので穏やかに押さえて書いていますが、「二つの立場が使い分けられた論理」になっているのは、「▽▽は無謬でつねに正しいのだが、(「○○○論文」の執筆主体である)学生戦線は全責任を負い自己批判しなければならない」という基調だからである。この卑怯によって足踏みを繰り返す他ないのである。

 しかし、より重要な問題は、かつてKMTに重大な打撃を受けたゆえに渾身の力を絞って闘ってきた若き学生同志たちが、今や「KMT」や「第二のKMT?とされた者(私?)」と同列にみなされて「その理不尽と失意のうちに去る」か「イエスマンとなって残る」かの選択を迫られてしまったことである。革命史における「いつか来た道」という他ない。

   (加筆注釈、以上です)……※※★★

★★※※……(小見出しは加筆です)

  ■■「労働者階級自身の打倒力・止揚力」こそ「階級形成」の闘いなのである!

    「止揚力をわがものにした個」など「神」であり宗教である!■■ 

 そしてこの項目の最後では、――少なくとも闘争・組織路線、方法論として見るかぎり――「73○○」引用文とは全く異なった内容が述べられている。

 曰く、「(※具体的には示されないが)『問われている』『新たな飛躍』抜きには」、

(a)「打倒能力と止揚能力を一つながらにわがものとし、もって

(b)『労働者階級自身の事業』の断固たる部分たりえ」ない、と。

 しかし第一に、そもそも〈打倒能力・止揚能力〉を問題にする場合のその“主語”とは、――例えば手許にある『小論集』で確認しても――「革命組織」(3p)や「プロレタリアート(の階級への形成)」(73p)など、つまり“団結の内容”として問題にされてきたとは思うが、本「○○○号」では、「断固たる部分」すなわち“一革命者の内容”として提起すること、言い換えれば〈打倒能力と止揚能力を一つながらにわがものとした“一革命者”〉という、いわば〈革命的団結のうちに(←という但し書きを不要とした!?)“革命的に自立した個”〉といった自己完結した個が措定されてしまっているのである。

★★※※……(以下は加筆です)

 ■■【「革命的団結のうちに革命的に自立した個」 について】■■

 「革命的団結のうちに革命的に自立した個」。闘いをとおして「団結と個」がそのように弁証法的に発展していくことを、「正しい者が正しく行動する」程度の演繹法ほどの内容に捻じ曲げて「革命的に自立した個」というテーマを発明してしまっている。これは実践的にはまったく異質の思想になる。前者は「行動委員会運動─階級闘争の発展のうちに個々人が自立し解放されていく」ことを照らし出すが、後者では「一部の完全無欠の者が烏合の衆を教え導く」となる。ここに「党が絶対」であり「大衆運動は党を粉飾する道具として以外は不要のもの」となる根拠があり、そのような思想が自白されてきたのである。それこそが小ブル思想であることには「党が絶対」である以上、永遠に気づくことはない。

 また、「無欠ではない者」=「正しくない者」例えば「差別者」「抑圧者」「排撃者」などとひとたび烙印を押されれば、その者は「共に闘う資格」さえ失いかねない。そのような「レッテル貼り」だけで「何をもって差別映画と言うのか」の検証もせずに「かつての○○派による筑豊と山谷での大暴れ」は容認されてきた。意義を申し立てて自分まで「差別者」の烙印を押されてたまらないと誰もが卑怯に立ち回ればそうなるほかはない。容認した卑怯者たちは、いつも「自分は知らなかった」という逃げ口上を準備している。風見鶏たちは「イエスマン」になり、「無欠の者」はますます「完全無欠」を演出しなければならない。裁判官や書記や廷吏たち、役所の上司と役人たち、スターリン…、どこにもある光景だ。

   (加筆注釈、以上です)……※※★★

 だが我々は、階級矛盾に発する感性的反逆を出発点とした闘いと団結を通して、そのように鍛え抜かれた(大衆的であれ党的であれ)――不断に対敵性を第一義とした階級的自己批判(の相互批判・自己批判の相互発展的連続・運動)を生き生きと展開しつつ、あらゆる革命的発展可能性を押し広げていく――“闘いと団結の総体の力”として、〈打倒能力・止揚能力〉を課題にしてきたのではなかったのだろうか。

 従ってさらに、こうした非弁証法的な“一革命者”のたて方の上に、必然的帰結として、第二に、上述の〈aをもってbへ〉も、いわば〈「断固たる」をもって「断固たれ」〉と循環してしまっているのではないか。

★★※※……(加筆) 観念論者は必ず循環する! (以上)……※※★★

■■■〈違和感の3〉■■■………………………………………

「KMTグループを生み出した責任」にかけても、その発生過程で先端的に決起し、勝利的に闘いぬいた意義が示されぬ「総括」も、やはり“大衆的打撃と反撃”への着目がないことと同根なのではないか。

…………………………………………………………………

 〔99.○.○-○〕に至る数年間は、まさに転向・総路線転換を策動するKMTらによる戦闘的大衆運動(拠点)破壊と――これを条件にもした――革命党破壊への暴走を許してしまった(私の場合は)敗北的痛恨の数年であった。しかし他方、〈直前の諸事態から○.○-○〉に彼らを追いつめていく過程にはいくつもの見逃せない勝利的闘いがあった。それらはまぎれもなく解体・根絶戦の先端であったはずであり、総括を定立していく闘いも、まずそれらの闘いに孕まれて開始されているはずである。いわば〔99〕以前のKMTらの「(ことさら『中央』をふりかざしての)統制的『指導』的ふるまい」を、諸大衆運動の内在的推進の活動においても党的活動それ自身においても、強烈な桎梏を感じてきたことの“真因”を〈転向・路線転換と破壊・敵対〉として――例えば私の場合は某同志の同志的批判によって覚醒させられ、また若き学生同志たちは私などの反省とつたない助言によって瞬時に決起するなど、それぞれに他の同志の闘いによる「助力」を得つつ勇躍決起し得たという経過ではあれ――、諸同志自身が破壊陰謀を見抜き怒りを爆発させて闘っている。後述するが、それらの怒りの背後にはすでに幾多の打撃を受けてきた労働者人民の怒りと闘いがある。(私の場合は直接にそれらがあった)。だから、その私自身の大衆運動領域を含む経験と実践において、その私には、「○○○号」のいう「生み出した責任(総括)」の視点においては第一に〔○.○-○〕が労働者人民に与えた具体的打撃への痛恨も認識さえも欠落していることに起因して、第二に、先端的に決起した(若き学生同志たちをはじめとする)同志たちの闘いを共有する視点が欠落したのだ、と思える。(※あるいは「自己批判すべき学生戦線」という本論の結論的な論旨が意識されているあまり、学生同志たちの闘い(=肯定的側面)のひとつひとつが「取るに足らない、些末な事柄」として紙背に押しのけられたようにも思える。「予め想定している結論に沿うように一個一個の事実=現実の闘いを足したり引いたりする」すなわち「現実に思想を押し付ける」総括方法ならばそのことによって諸々の誤りが増幅助長されるほかないことは自明である)。

 以下のような闘いは――獄中書簡ではやや詳しく書いたが、省略して列記のみしておきたい。

(1)〔○.○-○〕直前の〔4.○○〕にはKMT・MYI(とHR)が「迷ったら左派につけ」なる無内容きわまる、しかも派閥主義丸出しの恫喝で〈公然たる破壊組織化〉を開始しているが、その時点なりの仕方で粉砕してきた。

★★※※……(加筆注釈)私のこの闘いは▽▽は黙殺して決して歴史から消す。……※※★★

(2)むしろ破壊陰謀の破綻を予感しながら焦りを深めつつあった木元らは、〔4.○○〕には革命的学生戦線をその機関ごと反革命陰謀機関に転落させようとし、「(学生組織としての)本社占拠・三里塚拠点占拠」の号令を試みたが、同時に反撃を開始してこれを流会にして粉砕してきた。

★★※※……(加筆注釈)私のこの闘いは「学生戦線を救った」と自負するが、▽▽はこれも黙殺して歴史から消す。この闘いなくして「○○○号」も「○○○現闘」も前提すらないのだが。……※※★★

(3)さらに〔○.○〕当日の攻防においては、「直ちに本社から去らねば二度と○○(★※学生拠点のこと※)に入れない」という排除・テロ恫喝の本質とともにKMTらの陰謀を瞬時に見抜いて決断した学生同志たちが、占拠策動を粉砕する闘いの先頭に立った。

(4)そしてさらに――〔5.○-○〕陰謀破綻=敗北の中で発生した――KMTグループとしての“制圧”を食い破って決起した○○現闘団や、――転向・路線転換にのめりこんでいたKMTらの学内平和主義によるM大拠点私物化願望にとっての“阻害物”として――長期にわたる差別攻撃・蹂躙・制圧を受けつつもこれを食い破って再結集を果たし、糾弾・報復に決起したM大学生同志の闘いがあり、また獄壁とKMTらによる攪乱という二重の攻撃を食い破ってきた獄中同志たちの闘いがあった。(○○○現行隊、非公然の同志たちのさらに熾烈な決起も推察しなければならない)。

 まさに、労働者人民の利害にかけても〈転向・破壊〉を正面突破・粉砕する〈断固たる闘い〉とは、こうした闘い抜きに論じ得ないはずではないだろうか。

★★※※……(加筆します)

 このM大学生同志の闘いへの迫害について「女性差別主義者KMT」だけの「総括?」はゴマカシである。まずM大だけでなく本社でくり返され得た差別迫害であったことの▽▽自身の総括がない。また「○○○号」も含めて(観念的な決意主義ではない)真に学生運動史の検証に立った学生戦線とM大拠点闘争の──それらが▽▽指導の下にあったことを含んで──総括がない。だから打撃は「○.○─○」直後も継続した。それを跳ね返しても同志の決起があったが、ここにこそ革命的女性解放運動の生命力が秘められていたはずにもかかわらず、なぜかそれは軽視された。おそらくはこうした無内容も一因として、結局、かつてKMTに列した迫害加担者たちは、新たな「レッテル貼り」で再びの迫害に加担した。

   (加筆は以上)……※※★★

……★※(中略)※★…

■■■〈補足〉■■■………………………………………

「73○○」引用文の趣旨に関連して…

72年『党・ソビエト・武装蜂起』『獄中小論集』の検証、および現下の課題について

………………………………………………………………………………

 特に木元グループ発生をめぐる総括視点として、私としては、「73○○」はとても的確な引用であったと感銘した反面、それがどうして「○○○号」論旨のように読まれるのか、どうしても不可解なのである。この不可解は一応置き、――当時の資料としては『党・ソビエト・武装蜂起』しか手許にないこともあり――、それを通して「73○○」のそれが、70年代前期のいかなる階級闘争局面においてうち立てられた原則なのかについて、より詳しく見ておこうと思う。

……………………………………

□.以下、『党・ソビエト・武装蜂起』「プロレタリア革命における軍事路線」から引用…………………

★★※※……(小見出しは加筆です)

 ■■足下に存在する日本プロレタリアの矛盾や苦闘はみえず…スターリニズムに■■

 大衆運動それ自身の中に含まれている暴力的本質の目的意識的全面展開が軍事問題である以上、「大衆組織-行動委員会-党」という組織展開と、別の展開を考えていくのは全くの誤りである。……党は、そういうものとして目的意識的推進力となっていかなくてはならぬ。……組織問題の根本は、大衆組織(組合、自治会)-行動委員会-党という革命運動上の組織路線が、それぞれ相互に軍事的発展を遂げていくということにあるのだ。……コミューンの原則は、……働く階級が同時に政治を行ない、したがって武装をも獲得していくということなのであり、このことは現在的に進行していなくてはならぬのだ。革命の正規軍(注※=「党・行動委」のこと)は、この「大衆組織-行動委員会-党」の武装の発展と、帝国主義軍隊(常備軍)の解体、その相互結合の中で建設されていく。……プロレタリアの大衆運動の中から発展していく革命運動、そして、それに対応した組織の外に「軍」なるものを定立していくことは、「イデオロギー的な党に支配される物理力としての軍」という「疎外」の開始なのだ。また、逆に、こうした構造の中では、統一戦線なるものが非常に恣意的になり、結局「人集めのプール」のような位置におち込む。これらは、コミューンの原則から外れた「軍の疎外」の開始を孕んでいる。…… ……(『党・ソ』141p)

 階級闘争の激化の中で、自らのエネルギーのより一層の革命化を追求することが要求される。日本の民主主義急進派の大衆運動の主流は学生運動であるが、この学生運動が、政治運動と社会運動を通して(自らの社会的矛盾との闘いを通して)、労働監獄の中のプロレタリアートと結合していくことが「発展の途」なのである。しかし、小市民急進派の大部分は、この教育闘争を政治主義的にのり切った結果、依然として「プロレタリア」は言葉の次元に止まり、百万遍「プロレタリア革命」と語りつつも、自らは「現実のプロレタリア運動」、「プロレタリアの矛盾」とは無縁な形で流れている。こうして、権力の弾圧にあい、より激烈な階級闘争の推進が要求されてくるや否や、自分の足下に存在する日本プロレタリアの矛盾や苦闘はみえず、「後進国」の農民や人民の闘いに引き寄せられていく(思想的には、スターリニズムに)。

 ML派、ブント諸派のみならず中核派も、ほぼ同様な形にはまりこもうとしている。……

 ……(『党・ソ』148p)

…………………………………………

 引用はいずれも、直接にはプロレタリア軍事路線の定立のために書かれたものと思われるが、その基礎に据えられた闘争・組織思想は、①〈行動委運動〉を展開しつつ、〈大衆運動〉と〈党建設〉が、(1)闘いを通して、(2)相互連関的に…発展していくものとして、一言で言えば、「大衆運動の中から発展していく革命運動」の「目的意識的推進力」であるべき党、という視点が鮮明に提起されていることがきわめて重要と思う。そしてそうした①②の鮮明な論旨がそのまま「73○○」引用文の論旨であるはずである。

 さらに、『党・ソ』にこのように提起された地平について、改めて要約的にその意義を鮮明化して再提起したと思われる『小論集』の一文もある。「73○○」引用文をどう読むべきかを中心課題としているので、これも示しておきたい。

…………………………………

□.以下、『獄中小論集』「同志NKの営為引き継ぎ、“万国の労働者団結せよ”の今日的定立へ」から引用………………(※)は加筆したもの

 彼(※同志NK)は、60年安保闘争(とブンド)の総括および学生運動路線をめぐった小ブル急進主義運動の意義と限界およびその階級的転換(止揚)に関する問題以来、一貫して綱領・戦略・組織・闘争と団結における階級性を問題にしてきた…… 

(※1)蜂起(革命戦争)―プロ独を実現しうる戦略・戦術(路線)と党(―軍)建設の定立における階級性、

(※2)または、階級性を根底にし、現実につらぬいた路線・組織の飛躍を自己=党の課題にすえんとしてきた。また階級性自体についても

(※3)闘争を媒介とした共同性=団結(団結相互の連合=結合)のうちに発展しうること、および

(※4)分業に規定された個別性の全階級的検証=小ブル性の階級的否定(止揚)の論理を有しており、同時に

(※5)この闘争(実践)と団結の階級的普遍的発展として認識の問題もたてようとしたのである。

 それは、……

(※6)ブンドや日本トロツキズムが対置した「階級的視点」をそのイデオロギー的立場にすぎぬものから……現実の(工場)労働者の階級的矛盾=制約に発しそれへの闘いと団結の発展のうちに定立するものへと、転換=止揚せんとした……。

 ………………(『小論集』69.70p)

★★※※……(小見出しは加筆です)

■■諸大衆運動の前進の「武器となる総括提起」を!■■

 上述の二点の引用・提示の上で、一段の“主張”めいたものを述べておきたい。

 例えば「『大衆組織-行動委員会-党』という組織展開と、別の展開を考えていくのは全くの誤り」(『党・ソ』)といった点から本「○○○号」のKMTグループ発生総括関連を見た場合、『大衆運動(組織)』領域は全く抽象化、というより(何よりKMTらが陰謀的破壊に集中し、反革命出撃拠点に転化せんとしたところの)「山谷」のみならず「M大」さえもが課題にならず、検証点にされない「総括」であって良いはずがない。『党・ソ』『73○○』『小論集』つらぬいて提起されている〈大衆的闘争を基礎として相互発展〉といった具体的立体的現実的な推進構造が、階級的闘争・組織建設にとって決定的であることは明瞭である。しかし「○○○号」ではここが素通りされ――前述〈違和感2〉で指摘したように――全く別に、独自に「断固たる部分」であるための“4箇条①~④”が提示され、これにそった展開になっている。他方、「百回言っても労働者階級の立場になることにはならない」(「○○○号」)という小ブル運動批判の実践的突破口もまた「73○○」引用部分の、しかも“その読みとばされた部分”にこそ示されていることも明瞭である。〈現実の労働者階級の闘いと団結の発展のうちに定立された階級性〉(『小論集』)である。従って、〈KMTグループ発生総括〉も〈小ブル性の止揚の問題〉もまさに「73○○」の〈BX、BY、そしてC〉に立脚した実践的検証として展開されるべきであったはずであり、しかしここが完全に素通りされたことによって、「○○○号」の指摘部分もまた「百回言っても…」の懐疑的思考(実践的には最悪の場合はご都合的「総括」や「方針」)へと循環していく構造に陥っているのである。これは本論が意図することに逆行して“新たな外在性”へと疎外を深めてしまう構造でもある。

 特に問題は〈木元グループ発生総括〉に関わっている。(次章で見ていくが)多くの労働者・「障害者」などの友人たち、戦闘的大衆、そして諸同志がそれぞれの激烈な痛恨を抱えている。またそのことを背負いつつ〈諸同志の痛恨から捉え返した、諸同志なりの教訓や総括をもって、これを諸同志なりの“新たな積極性”に転化して〉闘ってきている。しかし例えば〈革命的団結の内に諸「総括」が不統一に乱立する状況〉は、――「より豊かに共有された総括」を生み出しうる絶好の飛躍の条件(再出発点)とも言いうるが――、乱立のまま長期に固定されれば、〈ただ「総括(・方針)が不統一である」ことと何ら変わらなくなる〉と何ら変わらなくなる。しかもこうした場合、例えば《党的諸機関内部で、比較的共通の前提に立つ同志間で、比較的「完結」しうる討論》の中では比較的「混乱」しないし(そこがまた観念化・党の独善化の入り口として問題だと思うのだが)、そうではなく《常にきわめて多様な個性(社会性)や生活条件や考え方が交錯し鍛えあって、常に「小勝利」や「小敗北」やそれらを通した新たな教訓や新たな問題意識を次々に産出しながら前進している諸大衆運動(拠点)領域での、日々問われては日々応えねばならぬほどの“問題意識の宝庫”からの、階級的諸要求を背負っての「内在的推進」やその「拠点攻防」の総括(・方針)にかかわる党機関的討論》といった場面では、諸同志の〈積極性A〉と〈積極性B〉とが往々にしてすれ違い、あるいはある種の摩擦となる他なくなる。とりわけ「KMTグループの発生」めぐる各々の痛恨における各々なりの教訓が入り乱れて、その「個々の“総括”の乱立」というような“共有されるべき討論土台”の曖昧さも「増幅」要因となって、結果、ある種の“組織活動(運動・拠点建設の闘い)の足踏み状況(=停滞)”がもたらされてしまうのである。

 本「○○○号」の論旨もそうしたひとつの〈積極性〉の表出であると思うが、しかしやはり、「現実の…階級的矛盾に発し、…それへの闘いと団結の発展のうちに定立…止揚する」(『小論集』)全組織的・全同志的格闘をくぐった総括として定立しえない限り、個々の〈積極性〉はどこまでも「個々の…」以上ではありえない。つまり「○○○号」の総括方法においては、再び“他の〈積極性〉とすれ違い、摩擦を生む”ということが止揚されない。

 そして最も重要なことだが、まさに問題は、現在直下=革命的危機下の全運動のソビエト的転換(―その内在的推進)・本格的権力闘争の飛躍を一丸となって闘いとるための“最強の武器”となるはずの“KMTグループ発生総括”をいかに定立するか、にある。

 問題は、

①具体的現実的に権力・KMTグループに多大な攻撃を受け、また現在も継続する攻撃と対峙・対決している戦闘的大衆運動(労働者・被差別大衆・人民とその運動・拠点攻防)にとっての、

②具体的現実的に大衆的打撃と反撃、怒りと闘いにおいて検証された、

③具体的現実的に全運動のソビエト的転換をたぐりよせていく反転攻勢・勝利の展望(=〈蜂起・内戦〉から捉え返された党的な目的意識性)を研ぎすまして大胆に前進していくための“基軸となる総括指針”、

……という意味ではいまだ定立しえていないことの、課題の(革命―全労働者人民にとっての)死活性である。

こうした点を含めて、やはり「○○○号」の関連部分は再検討されるべきではないか。

 (※ 「足踏み…」の危惧は、まず争議共闘についての――内在的推進を闘うべき――階級的革命党としての責任をもった討論に関連するもの。さらに「全障連再生」や「阻止共闘」や――直接に破壊の責任を自覚すべき――「日雇全協」やあるいは、朝鮮反革命戦争粉砕として火急の戦略課題である日朝労働者人民連帯・共闘などをめぐる領域など、念頭において述べている)。

★★※※……(以下は加筆)

 以上、☆コミューン研究☆№001、№002、№003、№004、そしてこの№007にて、獄中提起『行動委員会と党建設』の総論部分をすべて再録・加筆して再提起しました。上記の最後の数行に書いたように、全力で討論提起したいテーマがいくつもありましたが、今ではそれは(第一に▽▽の黙殺によって、第二に私の決別によって)不可能になりました。無念に塗り固められた「内部討論」の思いは獄中の私をいつも絶望の淵に立たせて苦しめていました。が、外部者になった私は、もうその無念の大部分は私一人の中に閉じ込めたままにする以外にないようです。このブログを「単なる暴露」の場にするつもりはないからです。ただし、他方には「日雇全協」や「全障連」の歴史や、消滅させられた「争議共闘」の展望、「革命的日朝(朝鮮人民)連帯戦線」の歴史と展望、「学生運動」などについては、この総括提起と関連する範囲において書き記さねばと考えています。獄中提起『行動委員会と党建設』はそれらの作業を中途で終えてたくさんの課題は残したままです。必要に応じて、今後の未完の各論・再提起の中で加筆しながら明らかにして、何らかの形で今後の諸大衆運動の前進の「武器となる総括提起」となるよう努力しようと考えています。

 今回は以上です。(加筆は以上)……※※★★

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■■☆コミューン研究☆ №006

 『「マルクス国家論入門」学習ノート』②

   (+ 付録…『10月・福岡藁の会通信「無かつ」投稿文』)

★★※※……

 前回から柴田高好著『マルクス国家論入門』を抜粋して紹介しています。その「第一節.政治的国家と市民社会の弁証法」の紹介が少し残っています。今回はその部分を、引き続いて抜粋紹介します。そして後半では(最近、福岡藁の会の通信に投稿した)その文章を、このブログの場を借りて転載します。私は、福島県在住の除染労働者として「フクシマ流れ星」の名で〝労働日記ふう〟のブログも書いていますが、興味あればぜひそれも参照してみてください。また近々、福岡藁の会代表氏が、さしあたりは『amamototadasiの日記』と題して自らの炭鉱労働・日雇い労働や様々な闘いに立脚した新ブログを開設されると聞きますので、それもぜひ参照してみてください。……それではさっそく前回の続きを記していきます。

   ……※※★★

第一節 政治的国家と市民社会の弁証法

■【無制限の選挙】

立法権は、普遍的なものを組織しようとする権力である。それは、国家制度〔憲法〕の権力である。それは、国家制度の上にそびえたっているのである」(『ヘーゲル国法論批判』)

「『立法権』は、政治的国家の統体性であり、したがってまた政治的国家の現象にまで追いやられた矛盾である。それゆえにそれは、同様に政治的国家の解体を定立するものである。……立法権は、反乱を定立するものである」(同上)。

 マルクスは、……間接的代議制か直接的民主制かにふれ、次のようにいう。

「われわれは…国会の要素が立法権としての市民社会であり、市民社会の政治的存在であるということを考察した。したがって、市民社会が集団的に、おそらくは全体的に、立法権のなかに入りこむということ、現実的な市民社会が立法府の虚構の市民社会にとってかわろうとすることは、自己に政治的存在をあたえようとするところの、または政治的存在をその現実的存在にしようとするところの、市民社会の努力にほかならない。政治的社会に変化し、または政治的社会を現実の社会にしようとする、市民社会の努力は、立法権へのできるだけ普遍的な参加の努力としてあらわれるのである」(同上)。

 しかしながら、立法権への普遍的参加のための市民社会の努力は、もしそれが貫徹されれば、市民社会と政治的国家との分離そのものが根本的に否定されることとなるがゆえに、議会において決して実現されることはありえない。媒介機関としての議会は一方では市民社会への国家の代理人、人民に対する行政権の一部でもあった。 すなわち

 「すべての個々人が、『国家の普遍的な事項の協議と裁定とに参加すべき』かどうかという問題は、政治的国家と市民社会の分離から生じる問題なのである」(同上)

「市民社会が立法権に参加するのに代講者によって参加すべきか、または『すべての個々人』が直接に参加すべきか、という問題そのものは、政治的国家という抽象の内部における、また抽象的な政治的国家の内部における問題である。それは、抽象的な政治的問題である」(同上)。

 「一方においては、政治的国家と市民社会との分離が発生したなちば、すべての個々人が立法権に参加することはできない。政治的国家は、市民社会から分離された現存である。市民社会は一方、もしもすべての人々が立法者であるならば自己自身を廃棄するであろうが、他方、市民社会に対立する政治的国家は、市民社会をその尺度に適した形式においてだけ受け入れることができるのである。換言すれば、代議者による市民社会の政治的国家への参加は、まさにその分離と、たんに二元論的な統一との表現である。

 他方においては、まったく逆になる。市民社会は、現実の政治的国家である。そこで市民社会から分離された現存としての政治的国家という表象からだけ、また政治的国家という神学的な表象からだけ、生じるところの要求を設定することは、無意味である。このような状態においては、代表的な権力としての立法権の意義はまったく消滅する。ここでは立法権は、すべての機能が代表的であるというような、たとえば靴屋がある社会的欲求をみたすかぎりで私の代表者であるというような、またすべての一定の社会的活動が類的活動としてただ類すなわち私自身の本質のある規定を代表するような、すべての人が他人の代表者であるような、そうした意味における代表なのである。ここでは人は、彼が推挙する他人によってではなく、彼があり、そして彼がなすものによって代表者となるのである」(同上)。

 他人の自由が自分の不自由であり、自分の自由が他人の不自由となるような市民社会的利己的人間の政治的国家への参加は、限られた一部の人間の間接代表によってしかおこなわれない。他人の自由が自分の自由であり、自分の自由が万人の自由であるような共同社会においてはじめて、市民社会と政治的国家との分離は克服され、決定の審議と執行とに万人が直接参加するという直接民主制が可能となる。

 マルクスにおいてこのような、第一に国家と市民社会との分離二一重性の原理的把握、第二にその矛盾の解決という根本的観点は終始一貫不変であって、われわれはこの視点を決して見失ってはならない。

★★※※……■【当時のマルクスの資本主義批判の視座について】

 当時のマルクスの視座について、『マルクス 著作と思想』(有斐閣)から書き留めた私の獄中ノートがあるので、その一節だけ引用して紹介しておきます。

 「われわれは空理空論をふりかざして世界に立ち向かうのではない。ひとつの新しい原理をかかげて、ここにひざまづけ!などと言いはしない。われわれは世界に向けて、現に世界を動かしている諸原理の中から、新しい諸原理を発展させるのである。」(『独仏年誌』掲載のマルクスのルーゲへの手紙)

 …私有財産制度の根本的廃絶…。廃絶の主体は…労働者である。…資本主義的大工業は生産性をあげるために高度な機械とその体系を、経営の総体を統御する能力をもった──「全面的に発達した」──労働者を企業内で、また社会的に育ててしまうからである。賃労働者は貧しいから廃絶の主体、体制の墓堀人であるのではない。資本主義のもとで生産力の潜勢的=現実的な領有者であるからこそ、きたるべき社会の主人公たりうるのである。

   ……※※★★

■【政治学批判から経済学批判へ】

 以上、マルクスがそのヘーゲル国家論批判の中から、近代における市民社会と政治的国家との分離・

二重性に由来する近代国家の幻想性についての自らの独自の弁証法的把握を確立し、次いでこの矛盾の解決を、市民社会への政治的国家の疎外の回復、政治的国家の彼岸的本質と市民社会の私的本質の廃止、さらには政治的国家と市民社会との解体としての無制限の選挙制によるその民主主義国家の実現に求めていったのをみた。ここにマルクスにおけるマルクス的なるもの、従ってまた、マルクス国家論の基本的方法が明らかに示されている。

 後年マルクスは、『資本論』第二版(一八七三年一月)の後記で次のようにいった。

 「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルにあっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである。ヘーゲル弁証法の神秘的な面を私は三十年ほどまえに、それがまだ流行していたときに、批判した」(『資本論』全集⑳)。

 三十年前というとちょうど一八四三年の『ヘーゲル国法論批判』の年である。マルクスヘーゲル批判が、まず、ヘーゲル国家論批判、政治学批判としてはじまり、そしてその政治学批判の中に、市民社会と政治的国家とのマルクス的な弁証法的把握を確立していったことをわれわれは、しっかりとおさえておかなければならない。ヘーゲルマルクスとの対立は、市民社会と政治的国家との分離に関する共通の把握を前提とし、その上でヘーゲルは国家を、マルクスは市民社会を第一義的に考えたという点にあるのでは全くない。市民社会と政治的国家との弁証法的構造そのものの把握において、マルクスヘーゲルと対立するのである。それは明らかにマルクスにおけるマルクス社会哲学のはじまりである。

★★※※……■【ここでも私の上記の獄中ノートから引用しておきます】

 「人間は自分がつくりだした神に逆に支配されるように、自分たちの労働をつうじて貨幣という神をつくりだし、それを跪いて拝んでいる。政治的解放(宗教信仰上の同権獲得つまり市民革命)は、真の人間的解放への前段階にすぎない。後者は、貨幣が神となっている私有財産世界の廃絶によって実現されるのである」(『ユダヤ人問題によせて』)

 しかし(※※現在のドイツでは)現在の中間階級の力量や意欲をみるかぎり、かれらの力では政治的解放の獲得すらおぼつかない。ドイツでは部分的解放(政治的解放)を実現するためにも全般的解放(社会の根本的変革)が必要である。…

…「この解放の頭脳は哲学であり、心臓はプロレタリアートである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

……※※★★

★★※※……

 ここまでで一応、「第一節.政治的国家と市民社会の弁証法」の紹介を終わります。マルクス国家論ノートとしてはいよいよ次回から、よりダイナミックに展開できていくと(私自身が)期待しています。

 さて、今回はさらに新たな試みですが、フクシマ除染労働に旅立って三年目に突入している私として──福岡の地で(事実上の地域労働組合として)闘われている「福岡藁の会」に連帯の意をこめて──書き送っている「投稿」文を、このブログにも転載させてもらうことにしました。

    ……※※★★

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★★※※…… 以下は、「福岡藁の会」の通信『無かつ』に投稿した文章を

そのままここに転載しました。 ……※※★★

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     ──フクシマ流れ星──

■■「冬近し」…除染労働の現状

 お久しぶりです。福島県東部を縦横に走る阿武隈の山々が今や私の第二の故郷のように感じてきましたが、そのダンゴを並べたようなかわいい山々も盛んに色づいて早くも冬支度に忙しそうです。

 これまで報告したように、この福島の除染の現場では約半数以上が東北地方の労働者。たいていは青年期からの出稼ぎ労働者たちです。九州に生まれ、「学生時代というぬるま湯?」にも恵まれていた私などには、私の経験とは別の意味で「個性のデパート」の中にいる感覚で早やフクシマ三年目の冬を迎えようとしています。

 なかでも私の身近に多い秋田出身の労働者たちのほとんどが(帰る家や農地のある)出稼ぎ労働者です。この国の政治家どもは「やれ復興だ」「やれオリンピックだ」と言うたびに必ずこうした膨大な出稼ぎ労働者たちの労働力を当然のようにアテにしています。「やれ公共事業だ」というときも「工場を起したり壊したり」のときも、膨大な(多くは家族とは離れ離れにされた)日雇い労働者など流動労働者の存在を当然のようにアテにしています。アテにしている。つまり実は「頼りにしている」のに平気で「使い捨て」る、いつでも都合よく「使い捨て」できるように「つねに膨大な労働者(農民)を失業が半失業状態に追い詰めておく」、このあたりが日本支配階級の伝統的な労働者支配「術」だと実感の日々でもあります。

■■原発核武装の計略で労働者は二度殺されていく

 何度か書きましたが、その意味で、今日の福島人民に被害集中させられている原発事故の〝原因〟である福島県相双地区(相馬・双葉地区)への原子力施設(=核施設)の集中を強制してこれた〝その背景・その原因〟として、「意図的な常磐炭鉱の廃鉱→相双地区労働者への失業・出稼ぎ・生活苦の強制→東京電力(侵略?)の受け入れの強制」という悪党どもの計略を絶対に見逃したくないと思っています。

 今、「除染は可能です。また住めるようになります」と、つまり「原発事故なんか軽い、軽い = 原子力・核は安全です」と印象付けたいためのアリバイ「復興」事業が進められていますが、当の相双地区・飯舘村葛尾村川内村などや伊達市福島市にしても、子供や若い女性の激減傾向は止められるはずがありません。「放射能の危険があふれている」のだから当然のことです。他方、山々に囲まれたあちらこちらの田舎の除染現場ではよく老人たちに出会います。「見えない臭いもないない放射能」以外はとても綺麗な自然に囲まれたふるさとなのですから年寄りたちがこの地を離れられないのも当然でしょう。ですが、次の、その次の世代には「必ずこうした地域は子孫もなく廃れてしまう」以外にありません。「ふるさとを元通りに」と願う人々には申し訳ないが、そう断言するしかない、それがこの地で働く私たちの偽らざる実感なのです。

 「いつの日か復興を」の思いは、フクシマ以外の地では「願望」ですが、フクシマでは「幻想」です。福島の労働者にこのフクシマの現実を強いてきた日本資本主義が、今は「オリンピックで日本は元気になります」などとほざいていますが、フクシマに住む労働者も、フクシマで働く労働者も、真綿で絞めるように今「生かされ、使われ、棄てられ、殺されていく」その奴らの計略の真っ最中です。

■■「出稼ぎ」という労働者虐待は永遠に続くのか

 多くの出稼ぎ労働者たちに出会って、いつか声を大に叫びたいと思っていたことがあります。

 「『家族がバラバラにされなければ食えない現実』、それを当たり前のように受け入れるなよ」ということです。(マスコミ・評論家・運動家・読者などすべてに向かって叫びたいことです)。秋田や青森の農村労働者に限らない全国の流動労働者が背負わされている問題なのですが、「中産階級家庭が核家族化してバラバラになっていく」こととは次元が違う、資本主義による──いわば暴力的な──「労働者家族解体」の悲惨として、一度真剣に取り組まねばならないと痛感していることなのです。たまたま私がこの除染現場で知り合った秋田県人のほとんどが「家族の待つ家」があり、「春先には田植えに帰ってまた除染現場にトンボ帰りし、秋になると稲刈りに帰ってまたトンボ帰りし、冬が近づくと雪支度に帰ってまたトンボ帰り」させられています。こんな時と盆と正月だけの「家族との再会」です。次男坊、三男坊になるとそれもなくなります。労働とはつまり放浪なのです。たいていは「俺は全国を渡り歩いてきた」と強がりますが、そうなると「寂しさ」を「酒に、博打に、歓楽街に」まぎらすしかなくなります。仕事も住居も不安定だらけ同士では「友情」が育つ隙間もなくなります。

 ……しかも今では(労働者自身の)労働組合すらなくなって、「口約束」で雇われて「会社都合で裸一貫でクビを切られ」ても対抗手段すら多くは誰も知らないし教えてくれません。つまり流動労働者には「労働法─労働者の権利」などなくなり不当労働行為が大手を振って歩いています。NPO労働法律家が「労働法が労働者の味方です」などと教えたがるのを「悪い」とは言いませんが、そんな声は全然届きません。おおかたの労働者は「雇用者が『クビだ、解雇だ』と言ったのなら証拠を持ってこい」とほざく労働基準監督署の窓口で門前払いさせられてしまいます。その上、労基署にかけこんだ労働者にはあの手この手で「冷や飯」が食わされます。……

 話を戻します。農民から労働者から「家庭」を奪ったのは資本主義です。労働者を独りぼっちにして放浪させて果ては野宿にまで追い込んだあげくにテントまで奪って夜どおし歩かせているのは資本主義です。

 「ホームレス」などという支配者語に怒りもない。争議共同闘争から日雇組合を排除。それもあっさり店終い。そして争議をやらない組合。「行政によるカン集め妨害に怒る言葉」の中でさえ「労働者自身の団結」が課題にものぼらない評論に何ができるだろうか。

 ──農地も魚場も奪って叩き出し、その労働者から安定した仕事と家族も奪い、テントも、カンまでも奪うという資本主義支配!── その資本主義支配に止めを刺すために「その怒り」が主人公になった団結には決して進まない官製NPO型評論家たちも、武器を持った評論家たちも、そんな「救済ウンドー」が労働者解放をたぐりよせるはずがない! ……心の叫びです。

 

■■労災…休業補償のその後

 さて、4月骨折労災で退院後の私ですが、友人たちの忠告どおり、9月から現場で走り回ったのは確かにやや無謀でした。はじめの約1ヶ月間は、やはり夕方には足をひきずる状態が続き、情けないながら時折は後悔の念もちらつきました。用心深く休息をとり体調管理したのが良かったか、最近やっと「確かに徐々に回復に向かっているぞ」と妙な自信もうまれてきました。

 前会社の退職をはさんで、私の8月分の「賃金」にあたる「休業保障」のための「担当医師の印鑑」というやつは、やっとこの10月になって出ました。これを役所に提出して「あとは支給を待つ」となる手順です。ところがこの役所というのがまた曲者で、またも「元の雇用者の印鑑をもらってこい」とぬかすのです。役所の指導どおりに作った書類に同じ役所が難癖つけたわけです。それで私もついにぶち切れ、「そんなにタライ回しされて労働者が生きていけるか」と啖呵切ったわけでした。私が大声で啖呵切ったとたんに「はい、その書類でけっこうです」と役所は猫のように素直になりましたが。

 (このあたりの事情は、私のブログ『フクシマ流れ星』に書きましたのでぜひ参照してください。)

■■『フクシマ流れ星』『☆コミューン研究☆』ブログ状況

 私は、(得意ではないですがやっとのことで)上に書いたような二つのブログに挑戦してなにやら書き込んでおります。お手軽な情報が氾濫しているネットの世界ですから私のブログなどの読者は数えるほどと思われます。注目する人は、おそらく特段に真面目に闘っている人か、または特段に不埒な者か、になると思われますので、それなりに緊張しつつ、しかし「山ほどの悔しさを背負ったまま、黙って死を待つわけにはいかない」と頑張って書いています。(不埒な意図の者も読みたければ読め)。

 この件は、その報告のみとします。

■■ただいま冬支度中!……フクシマ労働者群像

 フクシマも三年目になり、私自身も会社からまた別の会社へと転戦していくと「友人」「知り合い」が多様に増えてきて、それはそれでなかなか愉快です。…どこかで書いたかもしれませんが…前の会社でチンピラ上司連中のイジメにあったAさんは、同じ会社の次の現場でも「一人だけ賃下げ」というイジメにあったようです。「なぜ俺だけ?」と社長に問うたところ、そのチンピラ社長は、なんと「お前は○○さんと付き合ってるからなあ」などとぬかしたそうです。「○○さん」とは私のことです。私が同僚の解雇手当を要求したこと、会社に逆らって私の労災治療を優先したこと、同僚のイジメ問題で労基署にのりこんだこと、または私の「活動歴?」、など「会社に嫌われる筋合い」はいくつか思い当たります。チンピラ業者に嫌われるのなら結構なことです。ですが、現在私が置かれている比較的低賃金で不安定なチンケな現場も、「当初約束された大手の現場を上の会社に断られた」あげくに回されたという、その今現在の私の就労事情にもすでに響いているのかもしれません。つまり労基署役人や除染業者たちのブラックリストに載って「今後の冷や飯食い」が決められてしまったのかもしれません。なにしろ何でもが不透明ですが、まあそんなツバゼリアイも愉快ではあります。(チャンス到来と見たならばチンピラ業者は必ずつぶすつもりです)。

 そんな中、元同僚たちも、現在の同僚たちも、そろそろ「除染労働者の冬支度」が忙しくなります。なにしろ多くの現場では冬の積雪を見込んで現場が中断してしまいます。ほとんどが短期契約である除染労働者たちは、そのほとんどが12月には間違いなく(「契約更新しない」といった形での)事実上の解雇にあってしまいます。その「やりたい放題」がつまり労働者派遣法です。そしてそのほとんどの労働者は新年からの現場にありつかなくてはなりません。下請けのチンピラ業者たちからして──おそらくギリギリまで業者(ヤクザ)同士の莫大なピンハネ賃金分の「分け前」談合に忙しいと思われ──先が見えないのです。ましてやその下の労働者はさらに先が見えません。私も「これからどんな仕事にありつけるのか」まったく先が見えません。みんな先が見えない中で、毎日仕事の合間に必死で情報収集している、そんな「除染労働者たちの冬支度」です。

 

■■ 最後に、日曜日にこの原稿を書き上げるはずが、疲れで月曜日までかかり、その今日も朝から夕方までクワを振り下ろし続ける土木仕事のため、ややモーローとしながら「原稿」の形にたどりつきました。

 前述した☆コミューン研究☆ブログに、この原稿は転載させてもらおうと思っています。貴「藁の会」のブログ挑戦にも大いに期待しています。目指す第一ステージは「黙って野たれ死ぬな」、次の第二ステージはやはり「やられたらやり返せ」ですね。労働者が流してきた血を無駄にさせないために、消させないために、共に奮闘していきましょう。 (2014.10.20夜)

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★★※※…… 〝転載〟は以上。ブログも今回は以上です ……※※★★