☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

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■■☆コミューン研究☆ №006

 『「マルクス国家論入門」学習ノート』②

   (+ 付録…『10月・福岡藁の会通信「無かつ」投稿文』)

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 前回から柴田高好著『マルクス国家論入門』を抜粋して紹介しています。その「第一節.政治的国家と市民社会の弁証法」の紹介が少し残っています。今回はその部分を、引き続いて抜粋紹介します。そして後半では(最近、福岡藁の会の通信に投稿した)その文章を、このブログの場を借りて転載します。私は、福島県在住の除染労働者として「フクシマ流れ星」の名で〝労働日記ふう〟のブログも書いていますが、興味あればぜひそれも参照してみてください。また近々、福岡藁の会代表氏が、さしあたりは『amamototadasiの日記』と題して自らの炭鉱労働・日雇い労働や様々な闘いに立脚した新ブログを開設されると聞きますので、それもぜひ参照してみてください。……それではさっそく前回の続きを記していきます。

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第一節 政治的国家と市民社会の弁証法

■【無制限の選挙】

立法権は、普遍的なものを組織しようとする権力である。それは、国家制度〔憲法〕の権力である。それは、国家制度の上にそびえたっているのである」(『ヘーゲル国法論批判』)

「『立法権』は、政治的国家の統体性であり、したがってまた政治的国家の現象にまで追いやられた矛盾である。それゆえにそれは、同様に政治的国家の解体を定立するものである。……立法権は、反乱を定立するものである」(同上)。

 マルクスは、……間接的代議制か直接的民主制かにふれ、次のようにいう。

「われわれは…国会の要素が立法権としての市民社会であり、市民社会の政治的存在であるということを考察した。したがって、市民社会が集団的に、おそらくは全体的に、立法権のなかに入りこむということ、現実的な市民社会が立法府の虚構の市民社会にとってかわろうとすることは、自己に政治的存在をあたえようとするところの、または政治的存在をその現実的存在にしようとするところの、市民社会の努力にほかならない。政治的社会に変化し、または政治的社会を現実の社会にしようとする、市民社会の努力は、立法権へのできるだけ普遍的な参加の努力としてあらわれるのである」(同上)。

 しかしながら、立法権への普遍的参加のための市民社会の努力は、もしそれが貫徹されれば、市民社会と政治的国家との分離そのものが根本的に否定されることとなるがゆえに、議会において決して実現されることはありえない。媒介機関としての議会は一方では市民社会への国家の代理人、人民に対する行政権の一部でもあった。 すなわち

 「すべての個々人が、『国家の普遍的な事項の協議と裁定とに参加すべき』かどうかという問題は、政治的国家と市民社会の分離から生じる問題なのである」(同上)

「市民社会が立法権に参加するのに代講者によって参加すべきか、または『すべての個々人』が直接に参加すべきか、という問題そのものは、政治的国家という抽象の内部における、また抽象的な政治的国家の内部における問題である。それは、抽象的な政治的問題である」(同上)。

 「一方においては、政治的国家と市民社会との分離が発生したなちば、すべての個々人が立法権に参加することはできない。政治的国家は、市民社会から分離された現存である。市民社会は一方、もしもすべての人々が立法者であるならば自己自身を廃棄するであろうが、他方、市民社会に対立する政治的国家は、市民社会をその尺度に適した形式においてだけ受け入れることができるのである。換言すれば、代議者による市民社会の政治的国家への参加は、まさにその分離と、たんに二元論的な統一との表現である。

 他方においては、まったく逆になる。市民社会は、現実の政治的国家である。そこで市民社会から分離された現存としての政治的国家という表象からだけ、また政治的国家という神学的な表象からだけ、生じるところの要求を設定することは、無意味である。このような状態においては、代表的な権力としての立法権の意義はまったく消滅する。ここでは立法権は、すべての機能が代表的であるというような、たとえば靴屋がある社会的欲求をみたすかぎりで私の代表者であるというような、またすべての一定の社会的活動が類的活動としてただ類すなわち私自身の本質のある規定を代表するような、すべての人が他人の代表者であるような、そうした意味における代表なのである。ここでは人は、彼が推挙する他人によってではなく、彼があり、そして彼がなすものによって代表者となるのである」(同上)。

 他人の自由が自分の不自由であり、自分の自由が他人の不自由となるような市民社会的利己的人間の政治的国家への参加は、限られた一部の人間の間接代表によってしかおこなわれない。他人の自由が自分の自由であり、自分の自由が万人の自由であるような共同社会においてはじめて、市民社会と政治的国家との分離は克服され、決定の審議と執行とに万人が直接参加するという直接民主制が可能となる。

 マルクスにおいてこのような、第一に国家と市民社会との分離二一重性の原理的把握、第二にその矛盾の解決という根本的観点は終始一貫不変であって、われわれはこの視点を決して見失ってはならない。

★★※※……■【当時のマルクスの資本主義批判の視座について】

 当時のマルクスの視座について、『マルクス 著作と思想』(有斐閣)から書き留めた私の獄中ノートがあるので、その一節だけ引用して紹介しておきます。

 「われわれは空理空論をふりかざして世界に立ち向かうのではない。ひとつの新しい原理をかかげて、ここにひざまづけ!などと言いはしない。われわれは世界に向けて、現に世界を動かしている諸原理の中から、新しい諸原理を発展させるのである。」(『独仏年誌』掲載のマルクスのルーゲへの手紙)

 …私有財産制度の根本的廃絶…。廃絶の主体は…労働者である。…資本主義的大工業は生産性をあげるために高度な機械とその体系を、経営の総体を統御する能力をもった──「全面的に発達した」──労働者を企業内で、また社会的に育ててしまうからである。賃労働者は貧しいから廃絶の主体、体制の墓堀人であるのではない。資本主義のもとで生産力の潜勢的=現実的な領有者であるからこそ、きたるべき社会の主人公たりうるのである。

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■【政治学批判から経済学批判へ】

 以上、マルクスがそのヘーゲル国家論批判の中から、近代における市民社会と政治的国家との分離・

二重性に由来する近代国家の幻想性についての自らの独自の弁証法的把握を確立し、次いでこの矛盾の解決を、市民社会への政治的国家の疎外の回復、政治的国家の彼岸的本質と市民社会の私的本質の廃止、さらには政治的国家と市民社会との解体としての無制限の選挙制によるその民主主義国家の実現に求めていったのをみた。ここにマルクスにおけるマルクス的なるもの、従ってまた、マルクス国家論の基本的方法が明らかに示されている。

 後年マルクスは、『資本論』第二版(一八七三年一月)の後記で次のようにいった。

 「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルにあっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである。ヘーゲル弁証法の神秘的な面を私は三十年ほどまえに、それがまだ流行していたときに、批判した」(『資本論』全集⑳)。

 三十年前というとちょうど一八四三年の『ヘーゲル国法論批判』の年である。マルクスヘーゲル批判が、まず、ヘーゲル国家論批判、政治学批判としてはじまり、そしてその政治学批判の中に、市民社会と政治的国家とのマルクス的な弁証法的把握を確立していったことをわれわれは、しっかりとおさえておかなければならない。ヘーゲルマルクスとの対立は、市民社会と政治的国家との分離に関する共通の把握を前提とし、その上でヘーゲルは国家を、マルクスは市民社会を第一義的に考えたという点にあるのでは全くない。市民社会と政治的国家との弁証法的構造そのものの把握において、マルクスヘーゲルと対立するのである。それは明らかにマルクスにおけるマルクス社会哲学のはじまりである。

★★※※……■【ここでも私の上記の獄中ノートから引用しておきます】

 「人間は自分がつくりだした神に逆に支配されるように、自分たちの労働をつうじて貨幣という神をつくりだし、それを跪いて拝んでいる。政治的解放(宗教信仰上の同権獲得つまり市民革命)は、真の人間的解放への前段階にすぎない。後者は、貨幣が神となっている私有財産世界の廃絶によって実現されるのである」(『ユダヤ人問題によせて』)

 しかし(※※現在のドイツでは)現在の中間階級の力量や意欲をみるかぎり、かれらの力では政治的解放の獲得すらおぼつかない。ドイツでは部分的解放(政治的解放)を実現するためにも全般的解放(社会の根本的変革)が必要である。…

…「この解放の頭脳は哲学であり、心臓はプロレタリアートである」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

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 ここまでで一応、「第一節.政治的国家と市民社会の弁証法」の紹介を終わります。マルクス国家論ノートとしてはいよいよ次回から、よりダイナミックに展開できていくと(私自身が)期待しています。

 さて、今回はさらに新たな試みですが、フクシマ除染労働に旅立って三年目に突入している私として──福岡の地で(事実上の地域労働組合として)闘われている「福岡藁の会」に連帯の意をこめて──書き送っている「投稿」文を、このブログにも転載させてもらうことにしました。

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★★※※…… 以下は、「福岡藁の会」の通信『無かつ』に投稿した文章を

そのままここに転載しました。 ……※※★★

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     ──フクシマ流れ星──

■■「冬近し」…除染労働の現状

 お久しぶりです。福島県東部を縦横に走る阿武隈の山々が今や私の第二の故郷のように感じてきましたが、そのダンゴを並べたようなかわいい山々も盛んに色づいて早くも冬支度に忙しそうです。

 これまで報告したように、この福島の除染の現場では約半数以上が東北地方の労働者。たいていは青年期からの出稼ぎ労働者たちです。九州に生まれ、「学生時代というぬるま湯?」にも恵まれていた私などには、私の経験とは別の意味で「個性のデパート」の中にいる感覚で早やフクシマ三年目の冬を迎えようとしています。

 なかでも私の身近に多い秋田出身の労働者たちのほとんどが(帰る家や農地のある)出稼ぎ労働者です。この国の政治家どもは「やれ復興だ」「やれオリンピックだ」と言うたびに必ずこうした膨大な出稼ぎ労働者たちの労働力を当然のようにアテにしています。「やれ公共事業だ」というときも「工場を起したり壊したり」のときも、膨大な(多くは家族とは離れ離れにされた)日雇い労働者など流動労働者の存在を当然のようにアテにしています。アテにしている。つまり実は「頼りにしている」のに平気で「使い捨て」る、いつでも都合よく「使い捨て」できるように「つねに膨大な労働者(農民)を失業が半失業状態に追い詰めておく」、このあたりが日本支配階級の伝統的な労働者支配「術」だと実感の日々でもあります。

■■原発核武装の計略で労働者は二度殺されていく

 何度か書きましたが、その意味で、今日の福島人民に被害集中させられている原発事故の〝原因〟である福島県相双地区(相馬・双葉地区)への原子力施設(=核施設)の集中を強制してこれた〝その背景・その原因〟として、「意図的な常磐炭鉱の廃鉱→相双地区労働者への失業・出稼ぎ・生活苦の強制→東京電力(侵略?)の受け入れの強制」という悪党どもの計略を絶対に見逃したくないと思っています。

 今、「除染は可能です。また住めるようになります」と、つまり「原発事故なんか軽い、軽い = 原子力・核は安全です」と印象付けたいためのアリバイ「復興」事業が進められていますが、当の相双地区・飯舘村葛尾村川内村などや伊達市福島市にしても、子供や若い女性の激減傾向は止められるはずがありません。「放射能の危険があふれている」のだから当然のことです。他方、山々に囲まれたあちらこちらの田舎の除染現場ではよく老人たちに出会います。「見えない臭いもないない放射能」以外はとても綺麗な自然に囲まれたふるさとなのですから年寄りたちがこの地を離れられないのも当然でしょう。ですが、次の、その次の世代には「必ずこうした地域は子孫もなく廃れてしまう」以外にありません。「ふるさとを元通りに」と願う人々には申し訳ないが、そう断言するしかない、それがこの地で働く私たちの偽らざる実感なのです。

 「いつの日か復興を」の思いは、フクシマ以外の地では「願望」ですが、フクシマでは「幻想」です。福島の労働者にこのフクシマの現実を強いてきた日本資本主義が、今は「オリンピックで日本は元気になります」などとほざいていますが、フクシマに住む労働者も、フクシマで働く労働者も、真綿で絞めるように今「生かされ、使われ、棄てられ、殺されていく」その奴らの計略の真っ最中です。

■■「出稼ぎ」という労働者虐待は永遠に続くのか

 多くの出稼ぎ労働者たちに出会って、いつか声を大に叫びたいと思っていたことがあります。

 「『家族がバラバラにされなければ食えない現実』、それを当たり前のように受け入れるなよ」ということです。(マスコミ・評論家・運動家・読者などすべてに向かって叫びたいことです)。秋田や青森の農村労働者に限らない全国の流動労働者が背負わされている問題なのですが、「中産階級家庭が核家族化してバラバラになっていく」こととは次元が違う、資本主義による──いわば暴力的な──「労働者家族解体」の悲惨として、一度真剣に取り組まねばならないと痛感していることなのです。たまたま私がこの除染現場で知り合った秋田県人のほとんどが「家族の待つ家」があり、「春先には田植えに帰ってまた除染現場にトンボ帰りし、秋になると稲刈りに帰ってまたトンボ帰りし、冬が近づくと雪支度に帰ってまたトンボ帰り」させられています。こんな時と盆と正月だけの「家族との再会」です。次男坊、三男坊になるとそれもなくなります。労働とはつまり放浪なのです。たいていは「俺は全国を渡り歩いてきた」と強がりますが、そうなると「寂しさ」を「酒に、博打に、歓楽街に」まぎらすしかなくなります。仕事も住居も不安定だらけ同士では「友情」が育つ隙間もなくなります。

 ……しかも今では(労働者自身の)労働組合すらなくなって、「口約束」で雇われて「会社都合で裸一貫でクビを切られ」ても対抗手段すら多くは誰も知らないし教えてくれません。つまり流動労働者には「労働法─労働者の権利」などなくなり不当労働行為が大手を振って歩いています。NPO労働法律家が「労働法が労働者の味方です」などと教えたがるのを「悪い」とは言いませんが、そんな声は全然届きません。おおかたの労働者は「雇用者が『クビだ、解雇だ』と言ったのなら証拠を持ってこい」とほざく労働基準監督署の窓口で門前払いさせられてしまいます。その上、労基署にかけこんだ労働者にはあの手この手で「冷や飯」が食わされます。……

 話を戻します。農民から労働者から「家庭」を奪ったのは資本主義です。労働者を独りぼっちにして放浪させて果ては野宿にまで追い込んだあげくにテントまで奪って夜どおし歩かせているのは資本主義です。

 「ホームレス」などという支配者語に怒りもない。争議共同闘争から日雇組合を排除。それもあっさり店終い。そして争議をやらない組合。「行政によるカン集め妨害に怒る言葉」の中でさえ「労働者自身の団結」が課題にものぼらない評論に何ができるだろうか。

 ──農地も魚場も奪って叩き出し、その労働者から安定した仕事と家族も奪い、テントも、カンまでも奪うという資本主義支配!── その資本主義支配に止めを刺すために「その怒り」が主人公になった団結には決して進まない官製NPO型評論家たちも、武器を持った評論家たちも、そんな「救済ウンドー」が労働者解放をたぐりよせるはずがない! ……心の叫びです。

 

■■労災…休業補償のその後

 さて、4月骨折労災で退院後の私ですが、友人たちの忠告どおり、9月から現場で走り回ったのは確かにやや無謀でした。はじめの約1ヶ月間は、やはり夕方には足をひきずる状態が続き、情けないながら時折は後悔の念もちらつきました。用心深く休息をとり体調管理したのが良かったか、最近やっと「確かに徐々に回復に向かっているぞ」と妙な自信もうまれてきました。

 前会社の退職をはさんで、私の8月分の「賃金」にあたる「休業保障」のための「担当医師の印鑑」というやつは、やっとこの10月になって出ました。これを役所に提出して「あとは支給を待つ」となる手順です。ところがこの役所というのがまた曲者で、またも「元の雇用者の印鑑をもらってこい」とぬかすのです。役所の指導どおりに作った書類に同じ役所が難癖つけたわけです。それで私もついにぶち切れ、「そんなにタライ回しされて労働者が生きていけるか」と啖呵切ったわけでした。私が大声で啖呵切ったとたんに「はい、その書類でけっこうです」と役所は猫のように素直になりましたが。

 (このあたりの事情は、私のブログ『フクシマ流れ星』に書きましたのでぜひ参照してください。)

■■『フクシマ流れ星』『☆コミューン研究☆』ブログ状況

 私は、(得意ではないですがやっとのことで)上に書いたような二つのブログに挑戦してなにやら書き込んでおります。お手軽な情報が氾濫しているネットの世界ですから私のブログなどの読者は数えるほどと思われます。注目する人は、おそらく特段に真面目に闘っている人か、または特段に不埒な者か、になると思われますので、それなりに緊張しつつ、しかし「山ほどの悔しさを背負ったまま、黙って死を待つわけにはいかない」と頑張って書いています。(不埒な意図の者も読みたければ読め)。

 この件は、その報告のみとします。

■■ただいま冬支度中!……フクシマ労働者群像

 フクシマも三年目になり、私自身も会社からまた別の会社へと転戦していくと「友人」「知り合い」が多様に増えてきて、それはそれでなかなか愉快です。…どこかで書いたかもしれませんが…前の会社でチンピラ上司連中のイジメにあったAさんは、同じ会社の次の現場でも「一人だけ賃下げ」というイジメにあったようです。「なぜ俺だけ?」と社長に問うたところ、そのチンピラ社長は、なんと「お前は○○さんと付き合ってるからなあ」などとぬかしたそうです。「○○さん」とは私のことです。私が同僚の解雇手当を要求したこと、会社に逆らって私の労災治療を優先したこと、同僚のイジメ問題で労基署にのりこんだこと、または私の「活動歴?」、など「会社に嫌われる筋合い」はいくつか思い当たります。チンピラ業者に嫌われるのなら結構なことです。ですが、現在私が置かれている比較的低賃金で不安定なチンケな現場も、「当初約束された大手の現場を上の会社に断られた」あげくに回されたという、その今現在の私の就労事情にもすでに響いているのかもしれません。つまり労基署役人や除染業者たちのブラックリストに載って「今後の冷や飯食い」が決められてしまったのかもしれません。なにしろ何でもが不透明ですが、まあそんなツバゼリアイも愉快ではあります。(チャンス到来と見たならばチンピラ業者は必ずつぶすつもりです)。

 そんな中、元同僚たちも、現在の同僚たちも、そろそろ「除染労働者の冬支度」が忙しくなります。なにしろ多くの現場では冬の積雪を見込んで現場が中断してしまいます。ほとんどが短期契約である除染労働者たちは、そのほとんどが12月には間違いなく(「契約更新しない」といった形での)事実上の解雇にあってしまいます。その「やりたい放題」がつまり労働者派遣法です。そしてそのほとんどの労働者は新年からの現場にありつかなくてはなりません。下請けのチンピラ業者たちからして──おそらくギリギリまで業者(ヤクザ)同士の莫大なピンハネ賃金分の「分け前」談合に忙しいと思われ──先が見えないのです。ましてやその下の労働者はさらに先が見えません。私も「これからどんな仕事にありつけるのか」まったく先が見えません。みんな先が見えない中で、毎日仕事の合間に必死で情報収集している、そんな「除染労働者たちの冬支度」です。

 

■■ 最後に、日曜日にこの原稿を書き上げるはずが、疲れで月曜日までかかり、その今日も朝から夕方までクワを振り下ろし続ける土木仕事のため、ややモーローとしながら「原稿」の形にたどりつきました。

 前述した☆コミューン研究☆ブログに、この原稿は転載させてもらおうと思っています。貴「藁の会」のブログ挑戦にも大いに期待しています。目指す第一ステージは「黙って野たれ死ぬな」、次の第二ステージはやはり「やられたらやり返せ」ですね。労働者が流してきた血を無駄にさせないために、消させないために、共に奮闘していきましょう。 (2014.10.20夜)

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★★※※…… 〝転載〟は以上。ブログも今回は以上です ……※※★★