☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

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■■☆コミューン研究☆ №009

 『行動委員会と党建設』(再録&加筆 ④)

★★※※……(以下は加筆して注釈しました)…………………

 №005、№006および№008は柴田著『マルクス国家論入門』にあててきました。この№009は№007に続いて『行動委員会と党建設』の再録(と加筆)にあてていきます。が、そもそも私のこの小論は獄中下で2010年4月の「○○○号論文」に接し、そのあまりに観念的に歪められた基調に驚きまた憤慨したことをきっかけに書き始めたものでした。要するに「観念的総括?でごまかすのではなく現実の闘争史に立脚した現実的総括を対置しなければならない」と考えたのです。

 ■【闘争史を消すことは、労働者人民から武器を奪うことである】

「そうでなければ▽▽▽として関わってきたすべての大衆の闘いに対する無責任を固定化してしまう」

「▽▽▽が関わってきたすべての大衆運動が国家権力によって計画的系統的に壊滅攻撃を受けて現在に至っている、その闘争史を語れることすらできなくなってしまう」

「それは敵支配階級によるそれぞれの大衆運動の【現実の現在の破壊】の追認行為である、のみならず【現在から未来への道の破壊】となってしまう」

言い換えれば「『歴史と総括(方針)の破壊』であり、つまり『大衆の武器の破壊』である」

したがって当然それは「利敵行為であり、労働者党としては自滅行為である」

…といった危機感をつのらせたから、私の実際に血にまみれた獄中闘争の重要な一環としてこの小論の作業に着手したのでした。

 しかし「観念的な言葉(=精神主義の号令)」ならば──まるで机の上に積み木を並べたり重ねたりするように──いくらでも並べ立てることができるでしょう。(正確にはそれは「念仏」といいますが)。が、これを粉砕して止揚していく「現実に立脚した総括(指針)となる言葉」は現実の大衆闘争史=現実の大衆の言葉や態度で示された怒りの数々とそれへの党の関わりの重要な部分を(可能な限りすべて)思い出して書き止め、かつ一つ一つの事態の因果関係を明らかにできるように整理していく作業を必要とします。

 ■【実践上、〝党と大衆〟の「板ばさみ」から逃げ出す者は「内在的推進」とは無縁である】

 当時の私の場合、独房の手元にあるわずかな資料を手がかりに「知ることのすべてを書き止め整理していく」ことから始めるのですが、そのわずかな資料さえ獄中闘争への報復懲罰によって何度も奪われ、やっと取り返しては作業を進める、その繰り返しの中での作業となりました。

 幸運にも私は若い頃から「地方の活動家」であったと同時に「使いやすい何でも屋」であることを良しとして党活動の様々な領域を飛び回っていた上、この党が「全運動のソビエト的転換を!」と宣言して「労働者と被差別大衆・被抑圧人民の闘いをもっとも推進しようとしていた時代」=80年代から、「その、いわば労農水『障』学…の諸戦線の破壊が進行すると同時にKMTの横暴が助長されて様々な混乱や破壊が進行した時代」=90年代まで、それらの約20年間に「地区」に足場を置いて闘う機会にめぐまれていました。そこで地区の反戦運動(闘う漁民との連帯)・日雇い労働運動・「障害者」解放運動への連帯を闘い、また在日朝鮮人民・部落大衆との連帯をめざして可能なかぎりを尽くそうとしたり、それらのすべてに責任を取れる学生(自治会)運動の構築をめざしたり、といった活動に存分に飛び回ることができていました。

 確かに当時、80年代初頭に(G大学弾圧投獄からの出獄を機に)地区に帰った私は、一方では地区指導部?たちに「東京でエラクなったのが帰ってきたぞ」と疎まれたり、他方では東京の学生指導部?に「SB軍港なんて小さい基地だろう?地区でアレコレ手を出すのは自信過剰だ。学内運動だけやって中央動員にもっと力を入れろ」と会議のたびにダメ出しを食らっていました。そんな断絶の境目でいつも【地区と中央との、労働戦線と学生戦線との板ばさみ】になっていた、そんな苦しい状況と心境は今も思い出します。

 SB反戦闘争に連帯して現地に飛び込んだのは、現地で(かつての侵略の「戦犯」であった自らの自己批判をかけて)闘う弁護士と(弾圧をものともせずに)闘う漁民の姿に率直に感動したからでした。「青い芝の会」の「障害者」の介護に飛び込んで全障連運動に密着連帯していく経過も、日雇い労働運動に支援連帯として参加していった経過も、それらの大衆運動が当時の「自分と決して無関係ではない」と痛感したからであったし、また、ということは「学生運動はそれらの大衆運動と無関係かのようであってはならない」と確信したからでした。

 わざわざこの「私なりの意識的連帯」の経過に言及するのは、「党の任務」として介護に参加したり労働運動に連帯したり、たとえきっかけがそうであったとしても「任務だから連帯する」だけの者は「任務だから破壊する」ことも容易に手を染めるのであり、これは必ず突破し飛躍しなければならないのだと力説したいからです。

 …前回少しふれましたが、特に「精神病者」「障害者」の、「三里塚に行きたい。介護がいなくて困っている」という叫びも、「全障連運動の再建を!関東ブロックの再建を!」という叫びも、聞こえるのに聞かない態度を続ける者たちの欺瞞のことを念頭に書いています。

 「KMTの▽▽活動のすべてを隠す」ことによって▽▽自身の責任を隠し続ける欺瞞。東京・山谷を舞台にした「労働者福祉会館占拠と、白昼公然の大乱闘と、日雇全協破壊」および口実にされた「筑豊からの提起(『映画問題』)」などのすべてを「何も知らない」と言い張って隠し続ける欺瞞のことを書いています。

 三里塚闘争に結集した労働者に排除をくり返したり、闘う現地労働者を決して労働者として組織しようともしない「労働者党?」の欺瞞のことを書いています。

 ……話しを戻します。

 上に述べたような「板ばさみ」の混迷の中からではありますが、私は、中央や指導部?の指示をただ待つのではなく、自ら様々な大衆運動の中に分け入り、自ら判断して大衆と共に闘い、(大衆運動に対して、党に対して)責任をとっていく」、そのような態度を良しとし、また目指して闘ってきていたことでもあり、どれもこれも不十分ながら、どれもこれも学ばせてもらいつつそれらの闘いもまた共有させてもらってきた(その意味では実に幸運な)活動家であったと思います。……こうしたことは、今回出獄した私の分厚い「罪状」「判決文?」が流布されていた

 党の下に属している以上、「あらゆる大衆運動の内在的推進のために闘おう」と立っている以上、次のことははっきりさせねばならないと思います。すなわち、①党には独自の「路線」があり、②それぞれの大衆運動には「それぞれ独自の発展過程」がある、こと。①は②の「指針」となりうるが、しかし②こそ解放と革命の主人公なのであり、そこでの死活利害は何ものにも優先し、①「指針」はつねに②の死活利害によって検証(つまり自己批判と発展)されなければならない。…ということです。

(念のため、ここでは「精神主義や粛清運動の自己批判?」のことではなく「路線と実践を検証し、より発展した路線と実践で大衆的闘いの活路を開いていく自己批判」のことを言っています)。

 「板ばさみ」はこうした「大衆運動と党の発展」のための避けられない産みの苦しみに他ならず、もっとも生産的な格闘なのだ、と私は思います。

 また当然ながら、党が関わった個々の大衆運動がもし敗北的事態に追い詰められたならば、そこには必ず党の関わりの「誤り」または「不十分」が指摘されねばなりません。「それを明らかにして次の勝利を準備する」「次には必ず勝利できるための大衆の武器を示していく」、それが「労働者党の責任ある総括」なのだと確信しています。でした。

 引用中、○○○○として伏字にした部分は、必要に応じて(★※…・・・・…※★)として加筆して説明しました。

   ……※※★★

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『行動委運動と党建設について』(再録・加筆④)

……………………………

全運動非合法化・破防法攻撃の時代=<蜂起>を射程に闘う時代でこそ、<行動委運動の重層的展開を内在的推進する階級的党>で武装しよう!!

Ⅱ.90中期から〔99〕へと継続された、KMTらによる戦闘的運動・拠点破壊について

 以下に述べていく諸々の〔99.○.○-○〕に先行する破壊陰謀攻撃についての報告は、現在までの私から見えた範囲のもの、という限定的で未整理なものではある。

第一に、90年代中期から〔○.○-○〕まで転向反革命の陰謀をもってなされた、KMTらによる数々の破壊攻撃に言及するにあたっては、そもそもかつての社民的サンディカリスト集団脱走(以下〔80〕と略す)や〔90〕などのあらゆる転向―脱走・敵対がそうであったように、KMTらが〈非公然領域の破壊〉と〈三里塚拠点の破壊〉を企てたことの検証が必要だが、いずれも力量・条件が及ばないのでその“項目”提示のみとする。

 第二に、90年代○○(★※地区)の「(全障連・「寄せ場」・○○大――)三拠点攻防」をはじめとした闘いへの――特に90中期以降に激化した――KMTらの「指導(統制?)的ふるまい」を駆使しての諸破壊攻撃について、私なりの検証を提示する。

〔1〕.は全障連○○ブロック(○○ブロと略す)―障害者解放運動・拠点破壊、

〔2〕.は○日労―日雇全協破壊、

〔3〕.は○○大拠点建設攻防をめぐる破壊…について述べていく。

(さらに、関釜裁判闘争などの日朝連帯運動をめぐる破壊などがきわめて重要なのだが、全国の戦線(的)同志たちの力を得ないかぎり“破壊の全体像”を描くことも困難と思うので、適宜、不可解な事態のみ示していく)。

★★※※……(以下は加筆)

〔2〕を先行して書いたのは、それが闘争史を検証するためにはもっとも特徴的で、かつ緊急を要していると考えていたからです。そして〔2〕〔3〕へと検証と提起を進める計画でしたが、当時の獄中闘争と出獄と、出獄後の困難の中で「下書き」としても中途になってしまっています。が、それはやはり重要なのでこのブログ上で総括作業を継続していこうと考えています。また、日朝(朝日)連帯運動の総括は日本階級闘争の死活的課題と思うので、いかに力量不足とは言え、不可欠と思う視点だけでも提起していくつもりです。……※※★★(以上は加筆です)

 第三に、〔4〕.として――知り得た断片的なことに限定されざるを得ないが、核心的領域としてM大拠点破壊(と革命的学生運動破壊)について述べていく。

 報告中、「年月」など記憶不鮮明なものはやむなく「(頃?)」と記した。

〈補足〉.

 □ 壊滅攻撃下で“展望を喪失する小ブル”の必然としての転向(―路線転換)!

 □ 転向・路線転換の必然としての〈ボス交・取り引き〉〈革命党・運動・拠点・戦士の破壊〉!

………、ということについて

 KMTらは、(闘えば弾圧・獄殺攻撃を受ける)全面非合法化時代が、すなわち〈「闘わねば生きられぬ」労働者人民が総決起する〉革命期=階級決戦の到来を意味すること! 従って、〈大衆と共に、大衆を組織し、大衆(階級)自身が新たな権力基礎を形成していくような闘い=ソビエト・武装蜂起〉こそこの時代の唯一の現実展望であること! これらのことが理解も実感もついにできなかった、という点に、奴らの敗北性・脆弱性反革命転落の核心問題があったというべきだろう。

 そもそも特に――宮○や日○などに顕著であったが――こうした「ことさら尊大ぶった」(=常に他者の「上」に立ち、他者を号令・支配する側に立つことに執着する)者たちのように、実際に――労働者予備軍養成の差別・選別の練兵場であるブルジョア教育過程で――“学級委員・風紀委員・優等(特別待遇)生など”の「体制の認知」をかちえてきた(その半生の階級的自己批判的捉え返しを拒否し嫌悪し逃亡・回避してきた)者らにとっては、いったん手にしたこの精神労働者的支配力を手放すことへの「恐怖」を卵のカラのようにへばりつけつつ“かつての革命の戦列”にあったのだ、といえる。(※宮○・日○……は、小ブル性または非プロまたは学生存在ということを考えるための極端な事例として提出した)。

 他方、一般には、こうした小ブル的存在なりの矛盾感覚に発して○○○○○○(★※労働者階級の)統一戦線の戦列に起とうとしてきた我々は、(個々の差異はあるとしても)例えば

(1)現実の大衆の生活と闘いについての無理解・無内容が暴露される予感(恐怖?)から保身しようとする限り、傾向的には常に労働者・被差別大衆・人民の日常的戦場のはるか遠くに“立ち位置”を求め、“自らの無内容が暴露されないための一定の距離”を決して縮めようとしないだろうし、また

(2)そのように自らを問わせず(1)を固持しつつ、従ってまた傾向的に学生戦線の組織活動(および党活動)においても“一定の距離”を固持して、結果、階級的自己批判と発展の道を閉ざしていくという“特有の消極性”をどこまでも抱え込んでいくだろう。

★※…(加筆→)いま改めて言うならば、KMTらを生み出した母体である▽▽▽そのものが上に述べた傾向に既にまみれていたし、私のような「物申す者」たちの「粛清」をはたした▽▽▽はますますそれを深めるほかないし、実際、今の現実がそうなのである。…※★

しかし逆に、自らの小ブル的存在なりの矛盾に発した闘いの勝利と解放の展望が、――政治的スローガンとしてのみならず――大衆(階級)的現実の生活と闘いの生々しい全てをつらぬく内容として〈労働者―全人民解放〉(=階級的自己批判を通した連帯・合流へ!)にこそ相互の発展を確信する場合は、あたかも「現実を思想に押し付ける」ようにその路線・思想・実践の全格闘をもって“距離”を縮めて…〈共に闘い共に生きる〉ことが欲求となり歓びになっていく。

(※後述するが、例えば“労学連帯・○○(★※地区)学生実行委員会”の活動経験から言えば、学生大衆における後者の欲求は圧倒的に潜在していた)。が、前者のように現れる場合は、どうしても、「学生運動を闘っている」にもかかわらずますます小ブル性(非階級性)を固着させてしまいかねない、その典型例として〈KMTグループ発生〉の根底に「蓄積」されていた非・反階級性の問題があった、…といった総括視点が必要ではないか。

 蛇足かもしれないが、以上はあくまでも小ブル的存在の保身や欲求やその傾向の問題として試論的に提起しているのであり、逆に〈具体的活動形態として“距離”を縮めたか否か〉だけが〈階級的か否か〉の一切の基準である、といった短絡な主張ではない。念のため“労働者人民の生活と闘いとの距離”ということについても、以下の但し書きを付記しておきたい。

 例えば、かつての一時期に「山谷担当」であった転向(路線転換)分子・N村M男が――『図書新聞』2942号のインタビューで――とてつもない路線転換の謬論をまくしたてつつ、「俺たちは最も虐げられた者たちと一緒に闘うんだ」などと(実は国家・行政に従属して活動しながら)ほざいているようなことから逆証されるのだが、“距離”というのは、(A)あたかもモノサシのような、生活と闘いに密着した至近距離といった意味だけではなく、むしろ決定的には、(B)その現実的階級的な要求や利害とともにあろうとする“総路線・全組織活動つらぬく立ち位置”のこととして言っている。組織活動の具体的基礎として(A)が鮮明に位置づけられて総体の闘いを展開していくことが(十分条件ではないが)必要条件である、ということである。

 要約すれば“小ブル性”とは、差別・選別過程にあった自らの半生を通して、〈ある面では排除されたが、ある面では選別されたような社会的存在〉における“反資本・反国家権力”をめぐっての“中間的な不徹底性”のことであり、例えて言えば〈闘う善意と決意の裏側に(いまだ)貼り付いている「二足のワラジ」〉と言えるだろう。

 (※ プロと非プロの違いを〈徹底性〉と〈不徹底性〉として表現してきたのは、「ドイツの国家制度の帰結に一面的に対立するのではなくその前提に全面的に一領域」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)を念頭においたもの)。

 こうした「小ブル性」が階級的革命的に再編されていくためには綱領・組織原則・思想討論が重要であることは言うまでもない。その上で根底的には〈労働者人民の死活要求を共有して(内在的推進を)闘いつつ、もう一度問われる〉ように組織された闘い!……を通して、「二足のワラジ」の(他者=労働者人民と自ら自身にとっての)抑圧的要素・敵対的要素を現実的具体的に暴露され確証し止揚していく闘いとして、より階級的革命的に再編されていく……そうした組織活動が鍛えあげられていくことこそ重要なのである。

 この意味では、まさにKMTらは上述したような階級的組織活動は考えも及ばず、自らの“中間的な不徹底性”を隠蔽するための“ことさら戦闘派(?)ぶった物言い”を乱発して批判を封殺するなどのさもしい政治技術で、“革命への助走期”はなんとか乗り切ったが、だがいざ“倒すか倒されるか―本格的死闘を必然とする革命期”の到来にすくみあがって「二足のワラジ」を履き替え、こうして大衆(運動)的・党的領域にわたる数々の破壊行動を“助命嘆願のサイン”として差し出した。また他方では革命的報復を恐れて長期・細心に革命党破壊を陰謀工作して結局〔○.○-○〕で粉砕され、これ以降は“外”からの破壊を存在(助命)条件として〈権力の一分枝〉にまで転落した。……こういうものとして「発生根拠の止揚」を含んで解体・根絶を闘わねばならないのである。

(※ 奴らの“小ブル”としての“非断固さ”があたかも“元々固定的にあった”ことが核心問題なのではない。その立論では結局「元々KMTは▽▽派ではなかった」などという不思議な評論に帰結してしまうし、現在の我々自身が何を問われているのかさえ見失い、こうして「生み出したことの真の自己批判」は彼岸化されてしまうのである。重要なのは、奴らが〈現実の大衆的闘い(の内在的推進)を通して「もう一度問う」ていく階級化革命化の闘い〉からの逃避を積み重ねてきた、その必然的帰結として、奴らは自ら自身をより反階級的に・より反革命的に「組織」してきたし、――その直線延長上で――現在さらにその反階級性を満開にして敵対を深めているということなのである。我々は革命党としてそれを「許して」きたし今もなお「許して」いる、このことこそが総括の核心問題なのである)。

★※…(加筆→)当時も、今はさらに、KMTらと▽▽▽は上に指摘したような<反階級的な活動ぶり>を同じにしている。そういうことだからメンツ(?)をかけて「解体する」と言い続けてみたものの、自らに「死活をかけても解体するぞ」という階級的根拠を何も生み出さないために、現実には「共存の道」にのめりこんでしまうのである。かつての同志たちはなぜ死なねばならなかったのか、「共存」世界にのめりこみながら一体何に責任をとれるというのだろうか。…※★

以上のことから、KMTらによる〈対敵――ボス交・取り引き〉と〈対同志――革命拠点破壊・戦闘的闘いの破壊=戦闘的同志への攻撃〉とが、陰謀・敵対の同根性をもった一体の攻撃としてそれぞれ生起していったことが――論理必然として――明らかになる。

 この意味で私は「○○(※KMT)指導下での学生戦線の『組織指導』における打撃主義」(「954号」)を「共同性・組織性として」(同上)と、何か固定的な体質のような問題として〈発生総括〉として論じる方法には疑問を感じる。★※…(加筆→)その論法は、「○○(私)はKMT指導下にあったからこいつも打撃主義にきまってる」とする卑怯な扇動のための論法だったのである。だがもし「打撃主義の体質」が問題だ、というのなら、なぜ「指導下の者」が問われ、なぜ「共に指導していた者」が問う側に立っているのか。その厚顔無恥にはあきれるばかりである。…※★

 なぜなら階級社会においては、対敵(対支配階級)関係の如何が第一義的問題として、その関連において共同性・組織性が論じられるべきだからである。つまり、

「この(※団結・共同性の)関係は、資本家(階級)・国家との対抗をめぐったものであり、その対抗の質を問うものであって自立的に立てるならば観念化する」(『小論集』72p)

…という点は決定的に重要だということである。

 そして実際にも、KMTらが〈発生過程〉で行使した組織内暴力や恫喝や「私的制裁処分」は、――少なくともKMT自身の切迫した転向・助命願望を要因として必然化したそれとしてあったこと、従って――この視点が欠落した「954号」の論旨においては、当時のKMT自身が何としても破壊せねばならなかったほどの、つまりKMTの反革命策動を破綻に追い込むような〈諸同志の原則的な闘いがあったこと〉が決してつかめず、消えてしまい、またそうした同志たちの闘いや痛恨が捨象された分、「総括」は観念化・無力化せざるをえないのである。

〔1〕.90年代中・後期=KMTグループ発生の助走過程における全障連(―「障害者」解放運動)への破壊攻撃(と打撃)について

※この章は書きかけなので省略します。

……………………………………………

◆②KMTグループ発生過程における、○日労―日雇全協―全国労働運動への破壊攻撃(と打撃)について

 戦後革命圧殺(50年朝鮮戦争)のただ中で★※…レッドパージに屈した戦争支持運動として…※★出現した総評労働運動も、60年三池・安保、ベトナム反戦闘争から75年ベトナム革命勝利をへて戦後第二の革命期に突入していく過程の中で、再び日帝支配階級の桎梏となり、(今日の帝国主義労働運動=「連合」育成に至る)本格的破壊攻撃が開始されたのが、まさに国鉄分割民営化攻撃に突進した80年代中期であったでしょう。ブルジョアマスコミをフル活用した国鉄労働者攻撃が仕掛けられたこの時期に、同時に突然マスコミは、山谷などで〈ヤクザによる日雇い雇用保険・ヤミ印紙問題〉をあげつらって〈白手帳の規制〉を叫び始めました。つまりこれが「寄せ場」(労働運動)解体の号砲でした。

 90年代後期のKMT・KJKらの山谷「除名・脱退・手打ち」騒動を最後に、日雇全協は事実上破壊され、「山谷争議団」や「(釜共)―釜日労」をはじめとした関連諸団体は、――現在の○日労以外はすべて――「ホームレス法」体制に組み込まれ、帝国主義的労働行政、福祉行政の(絵に描いたような)補完物に成り下がっています。

 「寄せ場」は、歴史的には相対的過剰人口に対する反革命治安攻撃に由来をもちつつ、戦後においては、その、失業・半失業を強いられた(下層)労働者の――日々雇われ、日々解雇される――「就労」拠点であると同時に階級的団結の条件ともなってきました。このように発展した団結と闘いを桎梏とし、破壊しつくすために、――先述した〈ヤミ印紙・不正受給〉扇動・「白手帳」攻撃と労働法制改悪をテコとして――「寄せ場」解体と「寄せ場」労働運動解体とが並行して仕掛けられてきたといえます。全国各地に、都市部でもごく中小かつ分散した単位に「労働者派遣事業」が育成され、「寮・飯場」がこれに看板替えを始めるとともに、こうした業者・ブルジョアジーにとっては、――日々の就労におけるブルジョア側への“規制”が闘い取られてきた――「寄せ場」に労働力を求める旨みはもやは無いゆえに、たちまち「寄せ場」に仕事が来ない状況が必然化します。(まさに不景気によってではなく、攻撃によって仕事が無いのです)。このように「寄せ場」解体は進行したといえます。そして、こうした攻撃の下、労働者の密集条件も激減し、労働者相互の新たな競争と分断が強いられる中で、“青空団交”に象徴される圧倒的闘争力を誇った「寄せ場」労働運動の基盤がゆさぶられ、諸勢力の「もう労働争議の時代ではない。大衆的実力闘争では勝てない」といった敗北主義と路線転換願望が醸成されていったのだと言えるでしょう。

 「労働者派遣事業」の育成が――「寄せ場」解体攻撃であっただけでなく――(首切り・合理化)―総「非正規」化攻撃であったことは、すでに周知のことと思います。そしてこの攻撃下で〈「労働者の大衆的実力決起によって」ではなく「労働・福祉行政へのすり寄りによって」〉延命を企てた(KMTらなどの)すべての勢力が、さらなる敗北、さらなる労働者敵対の道へと追い立てられる状況の対極において、○日労・反安保労研・革労協といった階級的革命的勢力が歴史的反転攻勢のカギを握っている訳です。

 何より私が心躍らせることは次のことです。すなわち、このようにして日帝は、〈失業と就労〉に分断されてきた戦列が、総「非正規」化攻撃の下で巨大な合流を闘い取り、労働者階級がついに歴史的反転攻勢を開始して〈資本制支配の墓堀人〉となる条件を作ってしまったのだ、ということです。それゆえ、だからこそこの、特に80年代中期以降に開始された「国鉄」「寄せ場」をめぐる攻撃、およびそこにつらぬかれた路線転換攻撃・破防法攻撃(とKMTグループ発生)を“総体として一体の攻撃”とて解明し対決・粉砕していく総括と指針を定立しうるか否かに〈労働者解放―全人民解放〉の成否すらかかっているものとして執着せざるを得ないのだ、ということです。

 いわゆる「路線転換グループ」に属する“○○ギリの会”などの実体である日本キリスト教団・浄土真宗大谷派などの中の攪乱坊主どもや、福岡○○労組tt、○日労脱走分子ot、▽▽▽脱落分子=県労働部ksなどは、80年代後期から――〔90〕後はその残党も巻き込んで――越冬実(=共闘会議)の場で、公然と「県や市の準備する越冬施策の枠にそって越冬要求を絞り込むべきだ。実力対決路線はやめろ。完全黙秘はやめろ」と主張し、我々(主に学生実)は延々とこの論戦を闘っています。そうした闘いを通して、彼らの路線転換・敗北主義と反労働者的背反を暴き、結局、我々が実践的先頭で築いてきた戦闘的労働者(・大衆)との共闘地平において、やつらを論破・粉砕しています。

 ※「野宿の仲間に腹一杯食わしてやりたい」が口癖であったARK裁判当該のARKさんなどは、労働者大衆に近づきもせずやる気も全くないOTなどの旧執行部の面前で「組合は学生がやるしかないなあ、ははは」などと、わざと挑発して対峙していたくらいです。その彼の表現はともかく、…です。従ってARKさんなどは、(常に逃げ場を準備していたトクなどと違って)、〔95〕年には――“組合代表”を引き受けた戦闘的労働者とともに――イの一番に態度を鮮明にして当時の○日労の新たな一歩を共に闘っています。※

 そうした我々の、越冬実―学生実の経験から、《しかし、当時の山谷をめぐるKMTやKJKは、「金町だ」「差別映画だ」などと利用的言いがかり的に振りかざしたことはあったとしても、真に労働者階級の利害を貫徹するための大衆的・実践的格闘を“政治主義”ですりかえ乗り切ったにすぎない》ことは、今となっては確信に満ちて見抜きうることです。

 (例えば、真に大衆闘争に責任を取る者が、自ら「除名(分裂)・脱退(分裂)」をもって「決着」にしたがるはずはありません。なぜならそれは“大衆を引き裂く”ことなのですから)。こうした点について、以下、私に可能な限り整理して報告しておこうとしています。

(1)路線転換攻撃下(=総翼賛・全運動非合法化攻撃下)における○日労破壊について

 現在、「山谷争議団」を名乗り、かつ「新宿連絡会」を名乗り、あるいは「釜日労」や「NPO釜ヶ崎」を名乗り、あるいは「○○ギリ」や「スープ」等を名乗り、あるいは総じて「反失連」などとも名乗る雑多な潮流を総称して、とりあえず路線転換グループと呼ぶことにします。これは、KMT・KJKらが己の〈路線転換策動〉を押し隠す意図をもって命名した呼称と思われることが“引っかかり”ますが、改めて〈路線転換・本流〉と〈亜流(=KMTら)〉と押さえつつ論を進めます。

 95年の旧○日労執行部連中の総脱走までは、“○日労”の支援共闘会議として「越冬実」なる全員参加型会議が月一回ほどのペースで継続しています。そもそも84年(か?)の組合準備会以来、――のちに分かったことですが、映画「山谷・やられたらやり返せ」上映運動を契機に立ち上げられた経過上――、筑豊・長崎をはじめとした元炭鉱労働者の闘いや在日朝鮮人民・部落大衆の闘いを背景としつつも、組合執行部自体には戦闘的労働運動の要素が皆無であり、財政などの諸条件も日本キリスト教団等の丸抱え的状況からの出発だったことから、「越冬実会議」で論議された方向性を基礎に「組合執行部会議」があるような“非階級性”がそもそもあった、ともいえます。(私の視野は、そうした越冬実での論争・闘争にもとづくものです)。越冬実内の学生実(労学連帯・○○学生実行委)に属した私は、路線転換グループとの共闘者であり対決者であり、当時の「寄せ場」運動領域をめぐっては、当時のKJKら寄せ場労研のかつての「同志」であり、部分同調者であり、部分非同調者であり、最終的には対決者(自己批判と粉砕を闘う者)として本論に着手し共有しようとしているということです。

 そもそも旧執行部(と独自に密着していた福岡○○労組)などが、対ヤクザ・対ファシスト戦の飛躍にいかに敵対していたか、机出しも争議もいかに逃避してきたか、対行政闘争においていかに陳情主義・敗北主義であったか、不当逮捕弾圧のたびにいかに完黙闘争に敵対したか、野宿者差別襲撃を実力糾弾したARK裁判闘争にいかに無責任であったか(いかに越冬実情宣班=学生実に丸投げしてきたか)、「障害者」の連帯をいかに無視し続けてその地裁―国家権力糾弾闘争を傍観し分断していたのか、等々のていたらくについては、(一つ一つがとても重要ですが)、本論の前提として確認しておくのみとし、全般、〈KMTグループ発生の総括のため〉に絞り込むようにし、上述列記したことがらの詳細は、展開上必要なもの以外は省略します。

(2)90年代前半期の○日労破壊攻撃

 ――日帝反革命労働政策(攻撃)下での総路線転換の始動について――

 80年代中後期を通して、徐々にであれ戦闘的密集を開始した○○(★※地区)の日雇い労働者に逆行するように、80年代路線転換グループ(となる潮流)も〔90〕に転落しつつあった(○○★※地区)▽▽派(部分)も、天皇Xデー攻撃とペレストロイカ=「社会主義の破綻」扇動の中で、それぞれの路線転換と脱走を準備しつつあったといえます。

1.「朝だけの寄せ場」といわれた築港もかげり始めた90年代初頭頃、旧執行部は(そもそも机出し・争議はやらなかった上で)越冬でも夏まつりでもビラ一枚出さず、事務所家賃も出さず、ついには電話も止め、あげくには(戦闘的労働者は排除しての)抜き打ち会議で「委員長・OTの部屋への事務所移転」=事実上の事務所閉鎖「決定」まで強行するに至りました。もって戦闘的労働者や学生実(と〔90〕後の(○○★※地区)▽▽派を守った我々)との切断を図ったものと思われます。(特徴的事態①)

2.また90年代初頭の越冬実会議では、ひとつに合○労組t.(Tシャツ訴訟の会)を尖兵とし、これに〔90〕残党N.U.らが合流して「完黙闘争をやめろ」大合唱をくり広げ、我々が全力で論破する事態が生起。(特徴的事態②)

3.さらに93.94年頃(か?)、元▽▽派(県職労・県労働部職員)ksらが尖兵になって、「越冬要求は県や市の労働行政・福祉行政の枠内に止める改良要求とし、実力対決方針をとるべきではない」などと(OTらを代弁する立場で)主張し始め、まさにのちの「ホームレス法」を先取りするような露骨な路線転換が主張され、我々はこれと全面対決する論争を闘っています。越冬・夏まつりの実戦場では労働者大衆の戦闘的突撃力が我々の側を後押しするゆえに、我々がさらに突出する対極で、組合執行部(OTら)はますますニヒリストを演じて、ビラも出さず、まつりの場では参加労働者とともに宿泊も片付け作業もしないといった状況になっていきます。(特徴的事態③)

4.またこの時期は、「映画問題」=「筑豊からの告発」をめぐる対立が最も激化した時期です。KMTらにとっては〈山谷分裂問題〉だったのでしょうが、我々にとっては〈映画問題〉です。○日労内でも、OTなどの上映実行委員会の息のかかったキリスト教市民運動潮流は〈無視・傍観・居直り〉をきめこんでいます。大多数が「上映実」の側でのらりくらりの敵対を続ける中、Y氏や我々やhm(後述)の一定の討論と接近が開始されていきます。(特徴的事態④)

《補足 1※》

 ところで、○日労において90年代初頭の「映画問題」は、当初は「筑豊ヤマの会」hm(日雇全協内においては筑豊ヤマの会を代表して「告発」を提起した、○日労の担当メンバー)と、同「ヤマの会」のメンバーである戦闘的労働者Y氏に○○(★※地区)の我々が連帯して(なんとか)“共に闘う”布陣を形成しうるかに見えたが、この件をめぐって山谷争議団―全協との討論にあたっていたhmが、突然「▽▽派には裏がある。信用できない」と敵意をむき出しに、私などが説明を求めてもとりつくしまもない状態となり、完全にやる気をなくし、ほどなく失踪するように○○(★※地区)(○日労)から消えてしまうという不可思議な事態もありました。総!体として市民主義丸出しで出発していた80年代○日労の中にあって、相対的「戦闘派」であったhmの驚くような脱走でした。

 ……今となっては私の推測の域を出ないのですが……しかし、その後〈KMT・KJKらによる「映画問題」の利用――山谷での騒動と手打ち――KMTグループ発生〉へと推移した事態から見るとき、確かに「KMT・KJKらには裏があった」訳です。挫けるhmも実に情けないが、私は〈KMT・KJKらが「ヤマの会のhmを取り込め」と、何らかの破壊工作を仕掛けた〉結果ではなかったか、などを考えざるをえません。(諸同志との突き合わせが全く出来てないので私だけの推論にすぎません。但し、これは“私の課題”ではなく“▽▽派の課題”です)。

《補足 2※》

 上記①~④のいずれも反プロレタリア的敵対への転落を刻印する事態でしたが、特に〈事態①〉=組合全機能の破壊の強行は、日々命がけで闘い生き抜く日雇い・野宿労働者の命綱を断ち切る行為に等しく、こうした反労働者行為に、正当にも闘う労働者の実力弾劾が叩きつけられていきました。しかし、こうした真相(旧執行部の敵対と労働者の闘い)を押し隠しつつ総逃亡をゴリ押しするために、まず直接に争団連(争議団連絡会議)の全国会議の場において、上述○○労組tによる〈KFによる○日労執行部襲撃と乗っ取り〉なる百%のデマが流布されていった訳です。

《補足 3※》

 このようにして、旧○日労執行部総脱走後の、戦闘的に再生された新たな○日労の歴史が95年(頃?)から開始されました。○○合同労組tらによる反○日労・反▽▽▽デマ扇動と○日労パージ攻撃に対しては、再生された○日労執行部の確認の下に、〈事態の真相を明らかにし○日労破壊と全国労働運動破壊を許さぬ〉ために、パンフレット=『旗は翻る』(計300部ほど)が――学生実も全力投入しつつ――作成されています。何より、争団連に流布されたデマを粉砕するために、革命的労働戦線のすべての労働者同志の“武器”となるよう期待したものでしたが、完成したパンフレットのほとんどが突然消失し、――〔99.○.○〕以降に至って――全国の労働者同志の誰もその存在すら知らないという事態が再確認されただけでした。後日談ですが、96年頃に○○大学で講演したOG弁護士に、集会終了後にこのデマの真偽について質問されています。口頭であれ、私から真相を伝えたところ、OG氏の疑念はたちどころに解消したようでした。説明の機会さえあれば真相はそれほど明白かつ説得力あることがらなのであり、パンフは当時の▽▽▽にとって(革命的労働運動防衛の立場に立つ者にとって)絶好の武器になるはずのものでした。それを「邪魔」と考えた者は――いかに私の推論が過ぎると言われたとしても――(現在から捉え返せば)すでに破壊陰謀を開始していたKMT・KJKら以外には考えられないことです。

★★※…直接に「パンフレット回収・隠蔽」に加担したものが誰かは百%明らかなのだがついに自主報告はなかった。いまは「彼」が「映画問題を報告した同志」とされ、私が「それを隠蔽した者」と、彼らの党史に一行加えられているそうである。その一行は加えても、決して二行目からの総括文は未来永劫書かれることはない。…※★

 またちなみに、こうした問題領域について、いつまでたっても私は“自説”や“推論”という限定付きでしか述べられない状況であり、そうであれば、私が「黙った」時、こうした歴史はすべて忘却の彼方にと考えることはとても虚しいことではあります。何より「全国的な『寄せ場』日雇い労働運動再建・戦線再建の機運がないことの無力感でもあります。そうしたこだわりもあって、ややしつこく記しています。

《補足 4※》 山谷―KMTグループ発生の総括の困難について。

 〈権力〉がすべて承知している上で、〈路線転換グループ〉と〈KMTら〉とが革命的戦闘的労働運動破壊と▽▽▽破壊をそれぞれのやり方で、それぞれの“破壊の成果”の奪い合いを演じつつ、そうした〈三つ巴〉の束になっての破壊攻撃を我々は許し、大きく傷を負っています。〈総括討論の難しさ〉このこと自体がこの破壊の巨大さを逆証しています。しかし何とか〔○.○―○〕を前後しての決定的な反撃戦において勝利し粉砕してきた、と見える訳です。ただ、これ以降続発していく山谷争議団「除名」・日雇全協「脱退」騒動、○日労管理の映画フィルムの現「KMTグループ山日労」への強奪と、(「告発」当該の確認もない)勝手な「筑豊シーン」カットによる「解決」(?)、つまり『筑豊からの告発』のもみ消し強行、山谷労働者福祉会館占拠・乱闘…そして“手打ち”…その公然の暴力的全過程への権力の全面的傍観=つまり官許!! KMTらの行動はすでに権力公認! …といった事態が一体として捉えられる必要はあるはずです。

 つまり、〈権力〉と〈路線転換グループ〉と〈木元ら〉のそれぞれの運動/組織破壊の“三つどもえ”の思惑が交錯していたとしても、すでにこの“三つどもえ”は相互非和解ではなく、何らかの「手打ち」を求め、かつ、革命的労働運動破壊・革命的組織破壊を“共通の敵”として射程に入れている以上、〈上述のような真相を暴くパンフ〉などあってはならぬ、として解明できる事態であります。また〈KMTら〉にとっては、おそらく“あの手この手”で労働者同志たちの「山谷」領域への接近を封じていただろうと思われますが、こうした〈パンフ〉が、労働者同志たちの(=反○○労研の)組織的検証の入り口となってしまうことを、奴らは恐れたのだと思います。

 くり返しますが〈推論〉はどこまで論じてもやはり推論にすぎません。ただし、結果もまた歴然としています。特に労働者同志たちが、そして全ての同志たちが、この領域にドシドシ踏み込んで、こうした個々の事態を全体像としてつかみとり、いつか〈私の独り言〉を大きく踏み越えてより確たる総括と闘争指針を打ち立てられるものと期待しつつ、“素材”ほどの意味はあるものとして記しました。

《補足 5※》

 『筑豊からの告発』を最も戦闘的に体現し闘ってきた労働者(★※Y氏)が、その怒りにおいてKMTグループの反階級的敵対を見抜き、自らも奴らの標的となることを辞さず、文字通り命を賭けて森田同志防衛を闘った意義を共有するのではなく、逆に、tk(kg)らが――闘いから逃亡する己れの「正当」化のために、己れの命乞いのために森田同志防衛から完全逃亡し、同志を虐殺攻撃の前にさらして――逆に戦闘的労働者に「逃亡者」の汚名を着せたことの許し難さ。

★★※※……総括のない▽▽▽において、この「逆立ち」の歴史は見事にくり返された!!…※★★

 だがこのデマ扇動がたとえ一瞬一ミリでも我々に浸透したと感受していた当該労働者の虚しさはいかばかりだったか。

★★※※……闘う労働者への打撃はさらにまたくり返された!!…※★★

 また7.22以来の大量逮捕弾圧下の“地区的な蓄積の継承”の裂断を強いられる中ではあれ、tkやkgの“口先の戦闘性”に隠した“底深い敗北性”を我々はどのように見抜き得なかったのか。

★★※※……「見抜く」どころか「大合唱」がいまや流儀ではなっている!!…※★★

 こうした痛恨とKMTグループ発生を許した痛苦さは(我々にとって、また労働者人民に与えた打撃において)加重して重なり合うし、それだけにまた、こうした具体的事実を踏まえて、例えばこうしたKMTグループ(発生)に対する現実の階級的闘い・階級的怒りから、KMTグループとこの日帝国家権力の攻撃を改めて鮮明に全人民の標的にしてさらし打倒していくような“総括”を定立し、共有したいのです。

《補足 6※※》 ……「予想される弾圧」を「理由」とした、(95年頃?につぐ2度目の)97年のKMTの「中央指示」による『別行動=潜行』指令…の意味について……

★★※※……何のことを言っているのか、まず説明しておきます。ごく最近、京都大学に私服警察が潜入して大衆的に摘発されて反撃を受け、弾圧、そして闘いが巻き起こっているようです。まさに当時、すばらしい進撃を開始した○日労と私たちはまったく同じような私服警察の攻撃を受け、例えて言えば京都大学学生たちの闘い以上の闘いをやり抜いています。私服警察が「助けてくれえ」と泣き声をあげるほどの大衆的弾劾の闘いです。労働者たちも私たちも勝利感やさらなる戦意にあふれていました。ところが、です。なんとその翌日にKMTが○○の地にすっとんできて言うには、「弾圧があるからお前(=私)は身を隠せ」と。さらに、戦闘的な労働者に対しては「事態の報告のビラをまくな」と…▽▽派の名において……重大な圧力をかけています。こうして私が団結のすべての線から切断されている間に、東京・山谷で「会館占拠─白昼公然流血の大乱闘─手打ち(=山谷争議団破壊と日雇全協破壊)」がしかけられ、他方では「映画フィルム強奪─筑豊シーンカット(─手打ち)」がしかけられました。それは東京での大事件です。▽▽▽が「何も知らなかった」とは言わせません。ともあれ、そうした一連の事態につながる○○地区と○日労をめぐる弾圧と反撃と事態隠蔽のことを言っています。…※★★

 ★※…当時の私にしてみれば…※★「(一時的)別行動」にはそれなりの“意味”があるが、「(長期・出口なき、かつ別任務でもない)別行動」の場合には“意味不明”となる他なく、つまりそれは単なる「苦行」のような日々になっていきます。実際それは〈財布の裏付けはまったくなく、帰る家も共同生活の場もなく〉、一人でサラ金取り立てから逃れる失業者であるような日々の連続であったゆえに、またしかも実際、大半は日々“失業”の連続であったゆえに、とてつもなく過酷な日々であった訳です。もちろん幾度もの“野宿”を織り交ぜながら何とか“生活”をつなぎつつ、やっと〈○○工場の一定期間の集中作業に、下請け業者□□の補助として△△飯場から、一定期間の日雇い仕事にありついた〉時の「幸福」感と、そうした肉体労働の日々も、今となっては全て(左翼としては)貴重な体験となった訳ですが、当時はそんな冗談も言えぬほどの状態であった訳です。

 そうした日々は、〈KMTの陰謀〉という視点から見るとき、まさに〈邪魔者=陰謀の阻害物が封じ込められた日々〉であった、と今では確信しているのです。当時の私の、この「長期別行動」について、特に学生の公式の会議では〈KMTはどう説明していたのか〉聞き調べておけばよかった、とやや後悔していますが。★★※※……当時の▽▽▽とその学生戦線責任者たちの「沈黙」はあまりにも許しがたい。が、今は、彼らが出獄した私に極悪人かの「烙印」を準備して、そして今日に至っている。またこの時期にKMTが闘う労働者に数々の圧力をかけて計り知れない困難を強いた事実は、本人から▽▽▽CCに直接に報告された。怒りをもって、である。CCは確かに「▽▽▽として必ず自己批判します」と約束した。だが未だに当該労働者とその運動に対する説明も自己批判もないと聞く。(私には、またも闘う労働者の渾身の告発・弾劾をそっくり隠蔽した上で「お前が映画問題を持ち出した」という事実を歪めた悪罵が通告され流布された)。要するに、こういう反労働者的な行為の数々が、つまり『映画問題』の核心問題なのである。…※★★

(3)95年以降の○日労破壊攻撃――総路線転換進行下での、KMTらの転向(革命的大衆運動―革命党破壊)策動について

 上述(2)で述べた95年以前の数年が、中核派の公然たる路線転換(=屈服・武装解除)と、「路線転換グループ」(=総体として言えば新左翼右派ブロックあるいは反天連系潮流)の、いわば〈体制内改良路線から、行政機関一体化路線(=翼賛化)へ〉の総転落の進行と、そうした状況でのKMTらの〈動揺〉ないし〈転向画策〉の時期であったとするなら、(3)95年以降に生起した諸事態は、より具体的で計画的系統的な〈革命的運動破壊――革命党破壊による延命・命乞い〉のための陰謀実行期であり、(革命党破壊・乗っ取りを粉砕された)KMTグループとしての発生の助走期(=具体的破壊の始動期)であったことを示していると思います。

1.(96年?)夏まつり――県警公安摘発闘争に関連する諸事態

 旧執行部総脱走と、「FNRはKFが乗っ取った。だから支援するな」なるデマ扇動敵対以降、最初となる(96?)夏まつりは、「寺まわり」等の新たな支援を創造しながら、また戦闘的労働者を軸に、○○(※地区)の労働者総体の、目を見張るような一挙的戦闘化と自主的団結力を生み出しながら見事に成功しました。私などは、この時の(キリスト者や旧執行部――市民主義者らの、「施してやっている」ような“偽善”のくびきから解き放たれた労働者総体の)自主的闘争主体への一瞬にしての変わり様に感激し、「ミニ革命が起きた!!」と感受し、今もこの記憶が私の確信になっているほどです。

 また他方、福岡の公安どもは、“調べ”や“ガサ”のたびに、何度も、「お寺からカンパ集めるやら誰が考えたとか」などと、つまり96年FNR破壊の失敗を悔しがっているほどでもあります。この画期的勝利を刻印した(96?)音○公園夏まつりに対して、公園横のJR施設をJRが県警に提供し、その一室を拠点に公安3名がカメラを設置して夏まつり全参加者の調査を構えていました。だが戦闘的労働者と森田同志がこれを発見して摘発。「警察だ!」の一声で、まつり参加労働者の大半が一斉に“一室”に駆け上がって突入し徹底的につるしあげ、団結力に羽交い締めされた公安どもが「俺たちは革マルじゃない。警察だ」とぶざまに命乞いする事態まで強制しています。

 それから日を置かずKMTが○○(★※地区)にかけつけ「弾圧対策」と称してやったことの第一は、私に(一回目の)「別行動」を指示したことでした。「対策」「指示」というわりには何の組織的フォローもない“私の第一回目の数ヶ月間の放浪”……ということ。(この「96別行動」期間中に、山谷労働者福祉会館騒動が発生した、と事後的に知ることになりました)。さらに、KMTが○○(★※地区)で「対策」した第二は、この闘いの報告(暴露反撃)ビラ=FNRの〈摘発粉砕勝利ビラ〉の配布を阻止し回収さえ指令したこと――(初版はすでに築港で配布されてしまっていたらしいが)――だったということを、私は99.○.○-○以後に知ることになりました。また、戦闘的労働者○氏が――〔○.○-○〕を受けて――何度も、「だから俺がずっと、KMTとかカKJKとか信用できん、と言うてきたやないか」と言ってきたことの意味は、つまりこの「弾圧を避けるために、闘いの勝利報告ビラをまくな」としたKMTらの「指示」の反階級性に怒ったゆえであることを軸としていることを、最近になって知らされています。(まず○○(★※地区)の我々として反省せねばならないことです)。また、こんな「指示」でFNRビラを阻止されるということが、――いかにデタラメであれ――「▽▽の指示だ」というふるまいによって検証力を鈍らせてしまっている実態や関係を痛苦に捉え返さねばならないことです。(のちに、この「対策」にはD肥も関わっていた、と聞きましたが、真相は定かではありません)。こうして記録し報告するのも恥ずべきこととは思うのですが、断じて風化させられないことなので、あえて記しています。(こうしたことがらにふれて、全国の同志が、このKMTグループ発生助走期の、真の奴らの姿と、我々の闘いの意義も限界も浮かび上がらせ、ともに歴史的に真に決着つけていくことを期待して記しています)。

2.映画問題(「筑豊からの告発」)の破壊(=「手打ち」)事態

 他方、96年秋(?)か、私が「(一回目の)別行動」を指示されている頃、山谷での“乱闘―手打ち”が奇妙に進行していたことは前述しました。――この頃、96年冬には、○大学友会攻防でついに勝利した訳だが――、この頃、戦闘的労働者とともに開始した〈「筑豊シーン」の撮り直し=三池争議の意義を継承する日雇労働運動の基調で作る方向性〉の討論を勇躍開始したのだが、突然KMTに「筑豊シーンはカットでケリだ」「撮り直す金などどこから出すのか」「▽▽の指示に従え」などと(○地区に)中止指令が出され、ふがいなくも(!!)私はKMT(中止指示)と○(★※Y)氏の“板挟み(?)”となり、――中途半端に――“無策・無方針(実質追従)”によってKMTの破壊行為を許してしまった。

※※ その上で、KMTの「指示」にもとづいて行動しなかったことを「▽▽指示違反」とされ、ゆえに「自己批判しろ」「当面は労対会議と労働運動に一切関わるな」とされています。(これは〔99.○.○-○〕まで解除されていません)。端的に言えば、私は当時、「筑豊からの告発」を“唯一受け止めていく方針”としていたその〈シーン撮り直し方針〉と〈○(★※Y)氏(=元炭鉱労働者・在日……として闘う○氏)との信頼関係〉を裏切っています。ここが私の(…と▽▽▽の)最大の自己批判事項です。

 さらに、97年春に――のちのM大ゴスペル弾圧にうり二つの――○大弾圧・○日労弾圧が発生し、またも……今度は無期限の……「別行動(★※潜伏してろ、ということ)」を「指示」され、結局97年12月の不当逮捕でそれは「終」わり、98年8月に出獄するまで私は事実上○○(★※地区)の戦列に居ません。

 そしてこの間に、さらに、

①(FNR責任管理の)映画フィルムが山谷(現・KMTグループ「山日労」)に強奪され、

②(告発当該たちには)無断で「筑豊シーン」をカットした上、独自に「改編ナレーション」の紙切れを付け、

③この形で、山谷で上映することで「解決!?」……(これらの混乱の中で「筑豊ヤマの会」が解散を強いられたこともあり……)、こうして“もう「筑豊からの告発」問題はなくなった”とするKMTの屁理屈がごり押しされています。

※※ これが、山谷問題での「手打ち」相手である日本キリスト教団・小田原紀男ら市民運動集団や上映実(――路線転換グループ)が大喜びする「結果」となっていることは、誰にも分かると思います。こうして、片や路線転換グループは“大手を振って”……、他方KMTらは独自に“権力の意にそって”……、それぞれ着々と(上映をやりつつ)日雇全協破壊=運動諸領域の“ぶん取りあい”に歩を進めることができる訳です。(だから私は、山谷でのこの一連の騒動を「手打ち」と言っています。この点、諸同志の意見を待っています)。

④さらにこの時期、KMTらは私的陰謀拠点の“足場固め”とばかりに――事実上の、路線転換グループとの“棲み分け=共存”の形となる――「全国寄せ場交流会」づくりに奔走し、そのため例えば「○○日雇労働組合」は強引に「○○・築港日雇労働組合」に解消させられることになってしまっています。まるで“築港=日々の就労現場”には当初から関心のない○○(★※地区)の路線転換グループと平和共存をめざすかのように、です。事実、――それまでは組合の活動領域であった――“北九州”“久留米”はこれで路線転換グループの“自由の空間”となっていきました。(また現在の○○(★※地区)市内における“KMTグループ=「築港の組合」”と“美野島教会に連なるNPOグループ”の露骨な“棲み分け=協力関係”というその形にもそれは示されています)。

※※ 特に北九州は、〈「ホームレス法」体制〉による反革命福祉行政(=人民虐殺行政・政策)の突破口となり、この(官民一体の)北九州市福祉生活保護)行政の下で一連の労働者虐殺が相次いだ訳です。

 改めて言うまでもなく、①~④は全て、戦闘的労働者や筑豊ヤマの会などが示してきた“意志”を逆なでする内容です。この過程で筑豊ヤマの会は、事実上の解散に追い込まれています。日雇全協も解体を余儀なくされました。このように(我々は)、日帝の「寄せ場」(労働運動)解体攻撃に痛恨の敗北を喫し、少なくとも当時の▽▽▽として、あまりに無力だった(と思う)のです。ともかくこれ以降、上映実(市民運動?)や路線転換グループは、上記「告発」への完全居直りで上映を続行しています。(また当時は――「▽▽▽」としての――KMTらによって、今はKMTグループによって、上映が続行されています)。09年にも――『救援』紙上や『図書新聞』紙上でで――上映実・池内淳平がぬけぬけと「山谷―やられたらやり返せ」上映予告を出しています。

(4)KMTらによる山谷争議団と日雇全協破壊(私的陰謀「運動」=「寄せ場交流会」づくり)について

 表題に述べているとおり、KMTらの山谷――「寄せ場」破壊の全体像を見た私なりの“結論”は、つまりそれが一貫して、KMTらの総転向陰謀の、(M大拠点破壊と並んで)――ひいては革命党の路線そのものを変質・破壊するための――私的陰謀「運動」として、「全国寄せ場交流会」づくりが工作されていた、ということです。

A.「沖日労」をめぐる「分裂・再編」も同時進行していますが、具体的に検討する条件・力量が、私にはほとんどありません。(関連諸同志の解明課題にしてもらいたいことです)。

B.また阪神大震災の“被害”が、何より被災地域労働者に集中することについて、当時の○○(★※地区)で「党的集中方針が必要!」と討論し、(直接には森田同志から)西日本某会議に提起したことを“契機”に、しばらくしてKMTが「▽▽▽の指示」として「釜ヶ崎労働者の会」構想を持ち出し、しかも「そもそもの提起地区(=○○(★※=私たち))が人的財政的条件を作れ」としてきた。○○(★※地区)では――これを――“乱暴”ではあるが“積極方針”と受け止め、これに全力をつくしている。その後、私や森田同志は、それが必ずしも「中央的統一方針」ではなかったことに気付かされ困惑させられてもいく。★★※※……KMTが「好き勝手」に振る舞い、他の▽▽がこれを許し、影で「KMTの指示で動いた者」に悪罵を投げる、というようなこと、それこそ派閥主義ではないのか。派閥主義は▽▽▽の共同責任ではないのか。「954号論文」=「学生の責任」論を発明した▽▽▽は果たして正当か!…※★

 さらに現在、この「釜ヶ崎労働者の会」は、〔○.○―○〕めぐる坂○の小器用で卑劣な立ち回りとともに全成果をさん奪され、またそれは完全に――FNR破壊分子・OT克を擁する――路線転換「釜日労」と仲良く共存している。

C.度重なるFNR破壊の失敗の末、〔○.○-○〕以降のFNR乗っ取り策動も組合労働者に粉砕され、こうしてニセ「組合」をでっち上げて権力・路線転換グループとの“ブルジョア統一戦線”を展開している、この福岡の状況は周知として省略します。

D.そして何より、〈日雇全協破壊―「寄せ場交流会」づくり〉とその陰謀推進の主戦場は“山谷”です。

(a)ISやGDが木元らに放逐された〈真の理由〉は何か?

(b)いわゆる「映画問題」討論は、○○(★※地区)以外(特に首都圏)ではどう討論され、または“閉ざされ”ていたのか?

(c)争議団「除名」・全協「脱退」の〈真の理由〉は何か?

(d)会館占拠・乱闘と――小田原紀男と山田○樹の――「手打ち」の〈真相〉とは何か?

(e) (★※…下書きで、空欄になっている、そのママです)

(f)結果、現状として、双方がそれぞれに勝手に「映画」を上映している………これはどういうことか?(KMT流の「映画問題のケリ」とは何だったのか?)

(g)結果、現状として、(全国的に)一方の“反失連”と、もう一方の“寄せ場交流会”が並存・共存(○○では美野島教会で合流・結託さえしている)……これは何を意味するか?

 これらは、日帝国家権力の80年代からの「寄せ場」(労働運動)解体攻撃と、――別の側面から言えば――「ホームレス法」攻撃・総「非正規」化攻撃との関係において、当時、いかなる役割を果たす陰謀であったのか、自ずと全体像は浮かび上がると思います。

(※例えばこうした現実の階級闘争史の解明と対決=現実の階級闘争の強化こそが“KMTグループ発生総括の中心課題”だと私は思うのです)。

 上述(a)~(g)等の不可解事態について、私がどのような「推論」をもって全体像を見ているかはいまや説明の必要はないでしょう。(a)~(g)は、党の総体として、同志的共同で討論・検証されてこそ意義をもち、真の武器に転化されるものなので――すでに10数年も過ぎている現実は苦しいですが――そうした闘いを期待します。

 その上で現状はこうです。現在直下、KMTグループと路線転換グループは、それぞれに互いに干渉せず(○○では協力し)それぞれに映画上映をくりかえしていること! 全国的には「寄せ場交流会」と「反失連」との棲み分け・共存が成立しており、何よりまず山谷現地において「山日労」と「山谷争議団」として棲み分けており、さらに○○においては美野島教会で完全に合流していること!

 しかも浄土真宗・木村某や、キリスト教団西福岡教会・有川某などは連名で「○日労は二つあり、一方(=真の○日労のこと)はニセモノです」なる“回状”を回すほど、KMTグループとは蜜月関係にあること! これが現状です。

 つまり旗を振る日帝国家権力とその旗にひれ伏すKMTグループ・路線転換グループどもと、全てが〈総翼賛〉なのであり、(「寄せ場」労働運動領域においては)○日労運動のみが!!非妥協・非和解―実力・武装の道を進撃しているゆえに、ここを狙って組対法―拠点破壊攻撃が集中していること!! です。

〈補足 6※※〉90年代の山谷には“ミニ革命”がなかった!!

 私は、80年代に――○日労連帯を契機として出発した――“労学連帯・○○学生実行委員会(学生実)”の活動として、学生数名とともに当時の山谷争議団を訪問し、その(「映画」シーンそのままの)偶然にも青空団交の闘いに参加させてもらったりしていた。だが、90年代にはまったく山谷に縁がなく、98年夏出獄後、しばらくのちの10月にM大(対ゴスペル戦)集中後、その冬にはじめて“山谷越年越冬闘争”を経験した。情緒的表現で申し訳ないが、何より驚いたのは、――すでに95年の○日労旧執行部総脱走後の労働者全体が見違えるほどに示した主体的戦闘的突出があり、私としては「ミニ革命が起きた」とさえ感じてきたのだが――、98-99の山谷・玉姫公園に結集する大半の労働者に“そうした変化・突出”がまったく見られず、ただごく一部の「現役・職人」的な数名の労働者が見せていただけであった。これは、○○(★※地区)95年以前の「施してやっている」型の運動の中で見られた〈一部の現役層と活動家〉と〈他の大部分の労働者〉との深く大きな距離感がそのままだ、と感じたことでした。またその山谷越冬行事・作業の全般にわたって「分業」を固定化し「専門領域」に立ち入らせず、労働者の頭上から「働かざる者食うべからず」方式で★※…暴力的に!…※★統制するKJKのふるまいなどは、95年以前の○日労より絶望的な光景でした。さらに、名目上は“労学連帯”を闘っているはずの“学生を中心とした防衛班”も、“いかに、労働者とともに!!対金町戦を闘うのか”の議論もないまま、代行主義丸出しである上で、逆に“その待機場所が防衛拠点である”という理由で、その場で労働者と交流しようともせず、むしろその場から労働者を排除してしまう。★★※※…そんなやり方が東京の労働者も学生も丸ごとかかわっていた▽▽▽のやり方として継続していたのだ。こうした反労働者的行為を隠蔽し続けて、さも「自分たちは階級的だ」とふんぞり返っている有様、それこそまた「映画問題」そのものなのだ!…※★★

 またその場以外の会場内で独自に労働者と交流しようとすれば、KJKは「持ち場に帰れ」と追い返そうとする。こうして“交流・連帯”をまったく蓄積できない学生達が、しかし他方では、ワッショイ・デモの直前になると、突然「デモに出ようよ」とそこいらの(★※日雇い・野宿の)労働者をさかんに勧誘して回るのである。「労働者の中へ!」分け入ろうとしない学生運動が、どうしていきなり労働者の頭上から「オルグ」にかかるのか。どうしてこんな「労学連帯」が定着したのか。(私には、こうしたことに“KMTグループ・学生主義”の原風景があったと思えてならないのですがどうでしょうか)。

 さらにこの越冬闘争について99年1月すぐにM大・生田で総括会議をやり、開催責任のデバ○が「総括」と称して「防衛総括」のみを提起したので、私から「労学連帯をめぐる総括」を追加して提起したところ、「余計なこと」とばかりにデバ○がさらに「防衛総括」のみをかぶせて「集約」にするという不可解かつ不愉快な場面もありました。今にして思えばこれが“KMT陰謀”に組みしたデバ○の官僚主義統制の混乱の極みであった訳ですが、より困惑したのは――デバ○のみならず――当時の首都圏学生運動において“労学連帯”ということがひとつの具体的課題としてさえ定着していない、と思われたことでした。少なくとも“労働者大衆に分け入り、共同していく力=内在的に推進する力”が鍛えられ育まれない限り、そこでの〈防衛力〉など、実に薄っぺらでしかなく、まぎれこんだスパイの摘発も攪乱情報の粉砕もできず、決定的な敗北を導くことは明らかです。私には「ミニ革命を実現できてない」山谷の状況は、「労学連帯討論が成立しない」学生運動の状況と不可分一体の課題と思えます。

 (※当時も「全国○研」と「寄せ場○研」が切断状況にあったと思われた上、こうした階級的党の根幹にかかわる矛盾が、○.○-○以降10数年を経た今日まで――私から何度か提起したが――“総括課題”にもならない我々の状況とも一体であろうとも思います)。

また<階級性>の成否の問題と同じく、<打倒力・止揚力>は政治スローガンではなく(現在進行の闘いの「はるか彼方」に実現しうるものではなく)現在の闘争・組織方針の下で着々と形成・獲得されていくべき(いきうる)ものだと、こうしたことからも言えると思います。

③木元グループ発生過程における学園拠点破壊―革命的学生運動破壊(と打撃)について

「本論(紙954号)」では、要するに「学生の小ブル性」が“問題の核心”として指摘されているが、だが現実には、KMTグループ発生過程に至る革命的学生運動の状況はどのようなものであったか。討論不足ゆえに“私から見えた範囲”に限定せざるをえないが、それなりに概括しておきたい。

 結論から言えば、私は、90年代○大拠点建設と、これに中途介入したKMTの諸言動や「指導(?)」の中に、同時に特に当時のM大―首都圏学生運動の(90年代後期の)いわば“敗北的状況”が示されており、また実際にも(98-99に見た限り)そうであったと考えているが、なぜそう言えるのかについて示していきたい。

(1).〔90〕以降、90年代九大拠点建設の全体構造(と、その中における木元の「指導?」について)

※以下、書きかけなので省略します。

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 今回のブログ投稿文中で★※…で示した箇所以外はすべて、当時獄中から発信して総括討論提起したものです。今回転用しつつ、自分でもその内容の重大さを再認識させられているのですが…。しかしそれらはすべて▽▽の奥闇に葬られたままです。歴史の隠蔽の上に安住しているものたちは時代の証言者であるY氏や私が「息絶えるのを待っている」のかと思うと、ますます「歴史を明らかにせずして簡単には死ねない」との思いが強くなり、逆に今の自分の生命力になっているようにも感じます。

 乱雑な下書きのノートは、まだ提起も出来ずに眠っています。これから書かねばならないこともたくさんあります。

 ともあれ今回で『行動委員会運動と党建設』(再録・加筆)は終わります。が、その問題意識は継続して、今後は他の個々の闘いの総括へと、『続・行動委員会運動と党建設』といったタイトルで書き下ろしに挑戦していきたいと考えています。