☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

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■■☆コミューン研究☆ №005

 『「マルクス国家論入門」学習ノート』③

★★※※……

■■【闘いの血のにじむ言葉を政治的アリバイ文句にするな】■

 かつて私が活動していた地から遠く東北の地にて働いているのですが、その私の知る限り、

①かつての私に深く関係した▽▽派では「我々は自己批判する」とか「我々は差別を許さない」とかいう言葉を文章の端に加えることがはやっているようです。だが現実に様々な差別(支配・抑圧・分断など)に苦悩し闘っている大衆と(その闘いの現場で、その最前線で)共に闘い共に総括し共に方向を編み出すような格闘の地点に立とうともしないのならば、上のような言葉は「私は潔癖です」とアリバイづくりの免罪符のようなものにすぎません。なんという空疎か。

■■【全障連運動の意義を守る人々と、血叫びを黙殺し続ける人々】■

②また、かつて国─厚生労働省が「支援費制度」攻撃を号令に「障害者の自立?」=社会保障制度の実質解体へと踏み込んだときに全障連○○ブロックが勇敢に先陣を切ってこれと闘ったのですが、すでに融和主義への屈服の道を走っていた「ニセモノ全障連」などの諸君から──○○ブロックの闘いを排除するために──「活動停止」次には「除名」、最後には「公安警察やKMTグループが合体した融和主義のニセ『ゼンショウレン』でっち上げ」などの矢継ぎ早の攻撃にさらされました。そうして、○○ブロックに対する破壊の仕上げとばかりに「組対法」をふりかざした差別弾圧が仕掛けられたわけです。いま▽▽派までも含むすべての精力の中ではこの歴史が完全に消されています。

 ただし、この過程を勇敢に闘った○○ブロックの「障害者」や、これにつねに連帯してきた関東の「病者」だけが、今もこの痛苦な歴史を踏まえ引き継いで、高々と「(真の)全障連の再建を!関東ブロックの再建を!」と訴えています。正直、あきれるのですが、いくらその訴えを聞いても▽▽派では「これに連帯して共に闘う」行動も起こさず連帯の言葉すら言わない団結裂断状態が継続しています。いま、彼らに駆け寄って合流できない「私自身の状況」も「申し訳ない」と思うばかりではあるのですが。

 今の私にできること、またはやらねばならないこと、として、この全障連運動の意義と歴史と展望を(消させず忘却させず)書き記すこと。また同じように、例えば──私が知る限りの──「寄せ場」労働運動=日雇全協の闘いの意義と歴史と展望を書き記すこと。その他、消された諸運動の歴史を正しく書き記すこと。これらは命ある限りの使命だと任じています。…

■■【官僚・イエスマンの改ざんを突破して、マルクス理論の復権を】■

 …歴史を記し展望を示していくその武器は、もちろん(観念的に読み替えられたものではない)マルクスを軸とした階級闘争の視点です。いまや理論自体が「呪文」化されて「官僚とイエスマン」が大量生産されてしまったとも思わざるをえない事情もあります。だから──学者ほどの詳細な展開にはとてもおぼつかないものの──イエスマンとしてではなく自分自身の怒りに立って闘う労働者なら必ず獲得できるし武器にできるほどの「マルクス理論の復権を」と、このブログで、必死に格闘しているところです。

 労働者としての自らの問題意識をもって読んでくれている数名の方々がおられると聞きます。マルクスの、ある意味で難解な言葉も多いのですが、私もできるだけ読者が読みやすいように努力していくつもりです。などなど考えつつ、以下、前回までの「国家論入門」ブログのまとめとして…私の『マルクス著作と思想』ノートからいくつか抜粋紹介などしてみようと思います。

 ……以上は前置きです。  ……※※★★

………………………………………………………………………………………………

★※…『ユダヤ人問題によせて』より

< 人間は自分がつくりだした神に逆に支配されるように、自分たちの労働をつうじて貨幣という神をつくりだし、それを跪いて拝んでいる。政治的解放(宗教信仰上の同権獲得、つまり市民革命)は真の人間的解放への前段階にすぎない。後者は、貨幣が神となっている私有財産世界の廃絶によって実現されるのである。 >

…※★

★※…【フォイエルバッハ疎外論と、マルクスの跳躍】について

「存在こそ主語であって、思想は述語にすぎない」…この唯物論的倒置法がマルクスの覚醒の跳躍台となった。

人間が主語、貨幣は述語!(『ユダヤ人問題によせて』)

市民社会(経済的土台)が主語、国家(上部構造)は述語!(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

……だが問題は、この新しい構図において、貨幣とは何か、市民社会とは何か、の内実がほとんど埋められていないことであった。

…※★

★※…『経済学・哲学草稿』について(1)…【労働疎外論への現代的関心】

 労働疎外論が注目されてきた歴史的社会的背景…は…、

①『経・哲草稿』は、第二次大戦後にあらわになった社会主義諸国のスターリン主義体制に対する、西欧マルクス派の異議申し立ての理論的支柱となった。…ヒューマニストマルクスによる「人間疎外」(=官僚主義的専制)糾弾の書として…賞揚される。

②第二次大戦後に新たな波を迎えた産業技術の高度化、それにともなう労働疎外の深化である。

・1910年代初頭に創始されたフォード・システム(労務管理)…のなかで、細分化された労働の「権力不在性と無意味性」(R・ブラウナー)とは、産業のオートメーション化、エレクトロニクス化ともいい、いっそう深刻の度を加えるにいたった。

・「管理社会化」とよばれる現象も<生産点における疎外の深化の反映>にほかならない。

………………………………………………………………………………………………

「労働者は自分の労働を幸福と感ぜず(『疎外された労働』断片)に、かえって不幸と感じ、自由な肉体的・精神的エネルギーが発展させられずに、かえって消耗し退化する。だから労働者は労働の外部ではじめて安らぎ、労働のなかに自分はいないと感ずる」

………………………………………………………………………………………………

…※★

★※…『経済学・哲学草稿』について(2)…【利潤・地代・労賃】

  ※【資本とは、他人の労働とその生産物を支配する力】※※

< 利潤・地代・労賃という所得は、国民経済学の平板な三分法によれば、資本・土地・労働という生産の三要素からそれぞれ生まれる。しかし、私的所有という観点から見ると、資本と土地とは同じ私有財産といっても性質を異にする。土地とは起源からみても略奪の所産(※セー)であり、本質的に封建的な財産であるのに対して、資本は「蓄積された労働」(※スミス)なのだから。だから資本とは、他人の労働とその生産物を支配する力なのだ。>

…※★

★※…『経済学・哲学草稿』について(3)…

  ※【人間の本質的な生命活動ではない「疎外された労働」】※※

< 人間は、自然の有機的一部として自然に働きかける一方、個々の人間は人間という類=共同体に属して協働しあう存在(類的存在)である。自然対象を共同で加工し、その成果を共同に分かち合う過程で自己を豊かに充足してゆく、これが人間の名に値する生命活動であろう。

 ところが、現在の社会ではそうならない。

………………………………………………………………………………………………

「労働者は富を多く生産すればするほど、…それだけますます貧しくなる。(※なぜなら)労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます安価な商品となる(※からだ)」。

………………………………………………………………………………………………

 搾取の強化、すなわち労働生産性が発展すれば、労働者の生活資料の価値は低くなる。もしも労働組合といった社会的な対抗力がなかったら、生活費が安くなった分だけ資本家は賃金を切り下げてくる。これが市場メカニズムである。>

…※★

★※…『経済学批判』序言…より

「(※『独仏年誌』に論文を発表してからの)私の研究の到達した結果は次のことであった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は…物質的な諸生活関係に根ざしているものであって、これらの諸生活関係をヘーゲルは、18世紀のイギリス人(※A・スミス)およびフランス人(※ルソー)の先例にならって『市民社会』という名のもとに総括している(『法の哲学』)のであるが、この市民社会の解剖学は(イギリス古典派)経済学のなかに見つかるはずだ、ということであった。」

…※★

…………………………………………(★※ここから『マルクス国家論入門』再録を続けます)

……………………………………………………

第1章・マルクス国家論の原型

第二節 政治学批判と経済学批判

■【政治学批判1『独仏年誌』】

 『ユダヤ人問題について』(一八四三年秋)の第一論文でも、市民社会と政治的国家との分離・二重性

マルクス的把握は受けつがれ、より一層明確に次のように表現される。

 「政治的国家が真に発達をとげたところでは、人間は、ただ思考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治的共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自分を共同的存在だとおもっている。もう一つは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力の玩弄物となっている。

 政治的国家は市民社会にたいして、ちょうど天上が地上にたいするのと同じように、精神主義的に臨む。政治的国家は市民社会にたいして、宗教が俗界の偏狭に対立しそれを克服するのと、同じように対立し、同じ仕方でそれを克服する。すなわち、国家もやはり市民社会を改めて是認し、たてなおし、その支配をうけないわけにはいかないのである」。

 マルクスにとってまさにそのような近代の政治的国家と市民社会との弁証法的構造の克服こそがはじめから問題なのである。

 ★※【「政治的解放」批判】…(小見出しは加筆)※★

 近代におけるこのような分裂的な人間のあり方をマルクスは政治的解放ととらえ、それはたしかに人間解放の一大進歩ではあるが、まだ政治的解放にとどまっている点を批判する。

 なぜなら

 「政治的解放は、徹底した、矛盾のない、人間的解放のやり方ではないからである。政治的解放の限界はただちに次の点にあらわれる。すなわち、人間がある障壁から、現実に自由になっていなくとも、国家はそれから自由になりうるということ、人間が自由人でなくとも、国家は共和国でありうるということである」(同上)。

 「政治的革命は、市民生活をその構成部分に解消するが、これらの構成部分そのものを革命し批判することはしない。それは、市民社会、すなわち欲望と労働と私利と私権の世界を、自分の存立の基礎、それ以上基礎づけられない前提、したがって自分の自然の土台としてそれに臨む」(同上)。

 ★※【「人権」論の秘密】…(小見出しは加筆)※★

 すなわち、近代的人権は、市民社会における固有の対立する利己的人間が国家によって普遍的な権利主体として認められた権利であり、どこまでも市民社会を前提、基礎、土台とし、そこからのみ、それと政治的国家との関係からのみ基本的に解明されうるのである。マルクスの人権論は、ここからはじまって、さらに『資本論』において科学的な解明を与えられることとなるのだが、まずここで近代自然法以来の観念論的な天賦人権論が揚棄される突破口がつくり出される。

 政治的解放から政治の不必要な人間的解放の世界へ。

 人間解放のかかる基本路線こそマルクスの国家論を貫くものである。

 ★※…■【一八四三年『ヘーゲル法哲学批判序説』】…※★(※小見出し加筆)

 マルクスは…… ……フランス革命に象徴される近代の政治的革命について次のことが明らかになったとする。

                                                「部分的な、たんに政治的な革命は何にもとづいておこなわれるのであるか?

 それは、市民社会の一部分が自分を解放して普遍的な支配に到達すること、ある特定の階級がその特殊な地位から社会の普遍的な解放をくわだてることにもとづいている。…」

 ……

 (※フランス革命などブルジョア革命における※)近代の政治的解放と政治的国家とは、市民社会におけるある特殊な階級すなわちブルジョア階級が、その特殊な地位から社会の普遍的解放をくわだて、そこに社会の普遍的権利の名のもとに普遍的支配を打ちたてたもの

 …としてつかまえられ、そこにはじめて市民社会の階級性と政治的国家の普遍性との矛盾的統一関係が指摘されたことに注目しなければならない (階級国家論の萌芽)。

 ★※…【「プロレタリアート」の規定(1)】…※★(加筆)

 だが、ドイツではそのような政治的解放、そのような政治的革命による政治的国家の樹立はもはや問題にならない。…

 「…それはラディカルな鎖につながれた一つの階級の形成のうちにある。市民社会のどんな階級でもなような市民社会の一階級、あらゆる身分の解消でもあるような一身分、……ドイツの国家制度の帰結に一面的に対立するのではなくその前提に全面的に対立する一領域、そして結局、社会のあらゆる領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のあらゆる領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域、……社会のこうした解放をある特殊の身分として体現したもの、それがプロレタリアートである」(同上)。

 ★※…【プロレタリアートの規定(2)】…※★(加筆)

「ラディカルな鎖につながれた一つの階級の形成」

★市民社会のどんな階級でもなような市民社会の一階級、

★あらゆる身分の解消でもあるような一身分、

★国家制度の帰結に一面的に対立するのではなくその前提に全面的に対立する一領域、

★社会のあらゆる領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のあらゆる領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域、

……それがプロレタリアートである

「人間を人間の最高存在であると言明する」

    …※★★★★★★(以上、加筆して再確認)★

■【最初の経済学批判──『経済学・哲学草稿』】

 『経済学・哲学草稿』(一八四四年八月)…

 その中心は、※【疎外された労働論】※…

 その※【疎外された労働の自己矛盾の揚棄】※…

 すなわち、

 「人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義

それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的な獲得としての共産主義

それゆえに、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、いまいままでの発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義

(『経済学・哲学草稿』)の原理的提示であった。

 国家についても、ヘーゲルが富や国家権力を人間的本質の疎外物としてとらえながら、それがどこまでも抽象的思惟のなかでの疎外にすぎず、したがって、結局はその疎外のなかでの自己肯定、自己確認、国家との妥協に陥っていることを批判し、マルクスはあくまでも現実的な市民社会における現実的な疎外の止揚、「国家の揚棄」(同上)を説いている。

 近代においては、

 「所有者の支配が、私有財産の、資本の純粋な支配として、すべての政治的色あいを脱して現われること、有産者と労働者とのあいだの関係が、搾取者と被搾取者の国民経済的関係に還元されること」(同上)がおこらざるをえない、

 と市民社会と政治的国家との分離を指摘している。

■【政治学批判の継続】

 ★※「論文『プロイセン国王と社会改革──一プロイセン人』にたいする批判的論評」※★

  ★【国家と市民社会の解体へ】★(加筆)

 「国家は自分自身を廃棄しないかぎり、一方における行政の使命および善意と、他方における行政の手段および能力との矛盾をなくすことはできない。なぜなら、国家はこの矛盾に基礎をおいているからである。…」

 だから、近代国家のこの本質的無力を克服しようと思うならば、国家を強化するのではなく、全く反対に、政治的国家と市民社会との矛盾的統一関係そのものをなくしてしまわねばならない。

  ★【労働者の蜂起】【マルクスの革命論】★(加筆)

 労働者の蜂起についてマルクスは次のように述べる。

 「蜂起というものは、すべて例外なく、人間が共同体からひどく孤立しているところでおこるのではないか? …

 労働者自身の労働によって彼らから切りはなされているこの共同体は、生活そのものである。つまり、肉体的および精神的生活、人間の倫理、人間の活動、人間の楽しみ、人間的本質である。人間的本質は人間のその共同体である。この本質からひどく孤立することのほうが、政治的共同体から孤立することよりも比較にならないほど全面的であり、耐えがたく、恐ろしく、矛盾にみちたものであるが、それと同じように、この孤立をなくすこともまた、そしてこの孤立にたいする部分的反抗すなわち蜂起でさえも、人間が公民より、そして人間生活が政治生活より無限であるのと同様、はるかに無限である。

 だから産業上の蜂起は、どんなに部分的であっても、そのなかに普遍的精神をひそめており、政治的蜂起は、どんなに普遍的であっても、形はどれほどりっばでも、そのかげに偏狭な精神をかくしているのだ」(同上)。

  ★【政治的共同体、政治的国家の再建にとどまる政治的蜂起ではなく!】★(加筆)

 「社会革命が全体の立場にあるのは、それが──たとえ工場地帯におころうと──非人間化された生活に対する人間の抗議だからであり、現実の個々人の立場にたっているからであり、また個人がそれから切りはなされていることにたいして反抗するような共同体こそ人間のその共同体であり、人間的本質だからである。

 これに反して、革命の政治的精神の本質は、政治的勢力のな小階級(※←OCR読み取り失敗です※)が、国家制度と支配権からのみずからの孤立をなくそうとする傾向のなかにある。その立場は国家の立場、つまり抽象的全体の立場である。…

 したがってまた、政治的精神による革命は、この精神の制限された分裂的な性質により、社会を犠牲にして、社会のなかに、一つの支配的集団を組織するのである」(同上)。

  ★【社会的精神をもってする政治革命!】★(加筆)

 「政治的精神をもってする『社会』革命というのは、次の二つのうちのどちらかである。

 すなわち、もし『プロイセン人』氏が、『社会』革命を政治革命に対立する『社会』革命と解し、しかも社会革命に社会的精神ではなくて、政治的精神をあたえるとしたら、それは不合理に不合理を積みかさねるものだ。そうでなければ、『政治的精神をもってする社会革命』は、これまで『政治革命』あるいは『たんに革命』と呼ばれていたものを言いかえたにすぎない。革命はすべて従来の社会を解体する。そのかぎり、それは社会的である。革命はすべて従来の権力を打倒する。そのかぎり、それは政治的である。

……

 いやしくも革命というもの──現存権力の打倒と従来の諸関係の解体──は一つの政治行為である。だが革命なしには、社会主義は、実現できない。社会主義は、破壊と解体とを必要とするかぎりで、右のような政治行為を必要とする。

 しかし、社会主義の組織活動がはじまり、その自己目的、その精神があらわれるようになると、社会主義は政治的ヴェールをかなぐりすてる」(同上)。

 マルクスは、フランス革命に代表される従来の革命、「ブルジョアジーの解放──政治的解放」(同上)を、政治的精神をもってする社会革命と批判し、これに対して労働者による革命を、社会的精神をもってする政治革命と規定した。それは、従来の政治的国家、その支配権力に根本的に対立しこれを打倒する以上、政治的である。だが、それはそれにかわる自らの政治的支配、政治的国家の樹立、すなわち再びマルクスの言葉を借りれば、「社会を犠牲にして、社会のなかに、一つの支配集団を組織する」ことを目的とはしない。全く反対に、政治的なるものの否定、克服の上に新たな社会的精神をもってする人間の共同体、社会主義社会をつくり出そうとするのである。

  ★【「偏狭な党」「偏狭な革命」「現代のロベスピエール達」の秘密】★(加筆)

 マルクスはいう。

 「いろいろな政党が存在するところでは、どの政党も、自党のかわりに反対党が政権をにぎっていることに、あらゆる害悪の原因があると考えている。急進的で革命的な政治家たちでさえ、害悪の原因を国家の本質のなかに見ないで、特定の国家形態のなかに見て、これにかえるに他の国家形態をもってしようとしている」(同上)と。

 マルクスにとって、対決すべきは、国家の本質そのもの、政治そのものであった。これに対してフランス革命の英雄ロベスピエールは、政治的精神をもってする社会革命を貫遂しようとして挫折した。これについてのマルクスの批判は次の通り。

 「彼は万人にスパルタ式倹約心をうえつけたいと望む。政治の原理は意志である。政治的理解力が一面的であればあるほど、いいかえればそれが完成していればいるほど、それは意志の全能をますます信じ、意志の自然的かつ精神的限界がわからなくなり、こうして社会的欠陥の原因がますます発見できなくなる」(同上、四三九頁)。

 現代の多くのロベスピエール達もまたこのマルクスの批判をまぬがれることは出来ないのである。

できるであろう。

■【階級国家論──『ドイツ・イデオロギー』】

  ★※【ブルジョアジーの共同利害態としての国家】※★(加筆)

 「ブルジョアジーは、もはや身分ではなくて、一つの階級なのであるから、もはや局地的にではなくて、国民的規模で自己を組織せざるを得ず、彼らの平均的利害に、ある普遍的形式を与えざるを得なくなってきている。私的所有が、共同体から解放されることによって、国家は市民社会と併立し、かつその外に立つ独自な存在となった。だが、実際には、国家とは、ブルジョアどもが、対外的にも、対内的にも、彼らの所有と、彼らの利害とをへ合同的に)相互に保証しあうために必要とした、組織形態に他ならない。……

 国家とは、支配階級に属する諸個人が、彼らの共通利害を実現し、その時代の市民社会全体が総括される形態である。従って、そこから生じる一切の共通の制度は、国家によって媒介され、ある政治的形態をとる、という事になる。そこから法律は意志に基づき、現実の土台から切り離された自由な意志に基づくものであるかのような幻想が生まれる」(同上、五二頁)。

  ★【プロレタリアの共同社会】★(加筆)

 このような階級国家としてのブルジョア近代国家に対して、マルクスは、プロレタリアの共同社会を明確に対置して次のようにいう。

 「共同体において初めて、個人は、自分の素質を全面的に発展させる手段を与えられる。だから共同体において初めて、人格的自由が可能となる。

 共同体に対立する従来の代用物、即ち国家等々においては、人格的自由は、単に支配階級の生活諸関係のうちで育った諸個人にとってのみ、そしてまさに、彼らがこの階級に属する諸個人であった限りにおいてのみ、存在したにすぎない。

 いままで諸個人がそこに結集して形造っていた外見上の共同体は、いつも彼らに対立して存在していた。

 しかも同時に、それは他階級に対するある階級の(表象)連合であったから被支配階級にとっては、それはただ単に全くの幻想的な共同体であったばかりでなく、また新たな蛭椿でもあった。(※←OCRミス※)

 本当の共同体においては、諸個人は彼らの連合の中で、また連合を通して、同時に彼らの自由を獲得するのである」(同上)。

  ★【階級の形成】★(加筆)

 「特定の階級のもとへの、諸個人のこうした従属は、支配階級に対してもはやいかなる特殊利害をも守り抜く必要のないような階級が形成されない限り、決して廃棄する事は出来ないのである」(同上)

 「プロレタリアは、人格として力を発揮するためには、彼ら自身の従来の生存条件1それは同時に従来の社会全体の存立条諸個人が、これまで自分たちにある種の全体的表現を与えるためにとった形態、即ち、国家というものと真正面から対立しており、そして自らを人格として確立するためには、国家を打倒しなければならないのである」(同上)

 すなわち、プロレタリアによる階級国家そのものに対する全面的対立とその打倒、そして共同体の実現である。「ある階級の諸個人がとり結び、そして第三者に対する彼らの共同利害によって成立せしめられている共同関係」(同上)つまり国家に対して、このプロレタリアの共同社会こそ「諸個人は諸個人の自由な発展と運動の諸条件を、自分たちのコントロールのもとにおく、諸個人の連合に他ならない。」(同上)。

  ★★★※…『ドイツ・イデオロギー』における

【「哲学こそ頭脳」の克服…について】…(前掲書『マルクス著作と思想』より)

 『ドイツ・イデオロギー』…の意義とは…ドイツ哲学の批判にとどまらない…<哲学こそ解放の頭脳だ、という考え方の克服>なのである。すなわち…

フォイエルバッハをこえた唯物論の定立、

②現実の社会の構造、およびそれを動かしている運動法則の解明、

③現実の社会がどこから生まれ、革命的変革を経てどこへ行くのかという歴史的展望。

  ★★★※…『ドイツ・イデオロギー』が新たに確立した歴史観(前掲書より)

 「この歴史観は次のようなことがらに立脚している。すなわち、

①現実的な生産過程を解き明かすこと、それも特に直接的な生活(※生命)の物質的な生産から始めて解き明かすこと。

②そして、この生産様式によって産み出され・かつそれと結びつく交通形態を、したがって種々の段階における市民社会を全歴史の基礎とみなすこと。

③さらに市民社会を国家としての作用においても叙述すること、

④また、意識のさまざまな理論的産物・形態の一切つまり宗教・哲学・道徳・等々を市民社会から説明すること、

⑤そして、これら宗教等々の成立過程を市民社会の種々の段階から跡付けること。」

★★★※【世界革命】【共産主義社会のイメージ】について…(前掲書より)

 ★※『ド・イデ』はマルクスエンゲルスの共同執筆の書である。そのため一度下書きされたものにマルクスが欄外に註記を書き込むといったことがなされているという。それで下のような説明となっているようである。※※(←★の加筆)

 ※※【あらゆる分業から解放された生活】※※

 「共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲も持たない。私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝には狩りを、夕べには家畜の世話をし、《夕食後には批判をする》ことが可能になり、しかもけっして狩猟・漁夫・《批判家》にならなくてよいのである」

   ………※《 》はマルクスの註記……下は、上の文章に対するマルクスの欄外註記………

 《革命にとって絶対に必要な実践的前提は、生産力の普遍的な発展である。……なぜなら、生産力の巨大な発展があればこそ、諸民族の変革を互いに助け合う世界史的個人が、局地的個人にかわって形成されるから。共産主義は局地的(朝には狩りを!)であってはならないし、プロレタリア革命は世界市場を舞台とした世界革命でなければならない……》

 ★※… 国際連帯(特に現代日本の場合は日朝連帯)の現実的具体的な闘いの中で、マルクスの言う「世界史的個人」の道が打ち鍛えられていなければ、どうしてプロレタリア世界革命など手繰り寄せることができようか! …(※★加筆)

■※『共産党宣言』…の国家の規定※■

 この階級国家論は、初期マルクスの全思想が要約されているマルクス三十歳の作品『共産党宣言』(一八四七年~四八年一月執筆)において、もっとも端的な表現を得た。

 …ブルジョアジーは、「大工業と世界市場とがくりだされてからは、近代の代議制国家において独占的な政治的支配をたたかいとった。…

 「ブルジョア階級全体の共同事務を処理する委員会」…

 「ブルジョアジーは、生産手段や財産や人口の分散状態を、ますます解消する。彼らは人口を密集させ、生産手段を集中させ、財産を少数の人間の手に集積させた。その必然の結果は、政治上の中央集権であった。べつべつの利害、法律、政府、関税をもっていて、ほとんどたんなる連合関係にあの全国的な階級利害にたつにすぎない独立の諸地方が、一つの国民、一つの政府、一つの法律、一つの関税区域に結びつけられた」(同上)

 「諸君の観念そのものがブルジョア的な生産諸関係や所有諸関係の産物なのだ。同様に、諸君の法も、諸君の階級の意志を法律に高めたものにすぎず、その意志の内容は、諸君の階級の物質的生活条件のうちに与えられているのだ」(同上)。

 「近代工業は、家父長制的な親方の小さな仕事部屋を工業資本家の大工場に変えた。労働者大衆は工場に詰めこまれて、兵隊式に編成される。彼らは、なみの産業兵として、下士官と将校の完全な職階制の監視のもとにおかれる。彼らは、ブルジョア階級の、ブルジョア国家の奴隷であるばかりではない。また毎日毎時、機械の、監督の、そしてとりわけ工場主である個々のブルジョア自身の奴隷とされる。この専制は、それの最後の目的が営利であることをあからさまに公言すればするほど、ますますこせこせした、いとわしく、腹だたしいものとなる」(同上)

 ★※『共産党宣言』の階級闘争論──階級形成※★

 これに対してプロレタリアートおよび共産主義者はどうするのか。マルクスはいう。

 「これまでのあらゆる運動は、少数者の運動か、あるいは少数者の利益のための運動であった。プロレタリア運動は、大多数者の利益のための大多数者の自主的運動である。現代社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会を構成している諸層の上部構造全体をけしとばさないかぎり、起きあがることも背をのばすこともできない」(同上)

 「共産主義者の当面の目的は、他のすべてのプロレタリア諸党の目的と同じである。すなわち、プロレタリアートを階級に形成すること、ブルジョアジーの支配を打倒すること、プロレタリアートの手に政治権力を獲得すること、これである」(同上)

 「労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級の地位に高めること、民主主義をたたかいとることである。プロレタリアートは、その政治的支配を利用して、ブルジョアジーからつぎつぎにいっさいの資本を奪いとり、いっさいの生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう …(同上)

 …公的権力はその政治的性格を失う。本来の意味の政治権力は、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である。プロレタリアートは、ブルジョアジーにたいする闘争のなかで必然的に結合して階級をつくり、革命をつうじてみずから支配階級となり、そして支配階級として古い生産諸関係を暴力的に廃止するとしても、他方では、彼らは、この古い生産諸関係とともに階叔対立の存立条件、階級一般の存立条件を廃止し、それによってまた階級としての自分自身の支配をも廃止する。

 階級と階叔対立のうえに立つ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会が現われる」(同上)。

 ★※「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件である一つの共同体』※★

 ★※【過渡期】論の発展!!※★(加筆)

 ここで注目すべきは、さきの『道徳的批判と批判的道徳』において、プロレタリアートの「革命的権力」として、はじめて階級国家から共同体への移行の過渡期におけるプロレタリア権力への言及がみられたのが、『共産党宣言』では、それがさらに具体的かつ弁証法的にとらえられている点である。

 すなわち一方におけるプロレタリアートの国家、政治権力、政治的支配の確立と同時に他方におけるその政治的支配の廃止という矛盾物として。

 このことは重要である。

 ここでマルクスは実質的にはプロレタリアート独裁のことを語っているともいえよう。しかしまだプロレタリアート独裁という言葉はどこにもつかわれてはいないし、またその弁証法的性格をのぞけば、それをマルクスにおけるプロレタリアート独裁の定式化とみなすことも出来ない。

 マルクスは、そこで、国家すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートといい、またプロレタリアートは民主主義をたたかいとるといっているが、そのばあいの国家といい民主主義といい、それが一体なんであるのかについてのくわしい説明は行なっていない。

 総じて過渡期におけるプロレタリアートの政治権力の問題は、この『共産党宣言』においてようやくはじまったばかりであって、それに関するマルクスの発展した理論は、次の時期にほぼ三十年間にわたって展開された国家論、とくにその国家揚棄=廃止説をみることによってはじめて明らかにされうるのである。

 後にわれわれは、『共産党宣言』の規定がもはや「時代おくれ」として廃棄されてしまうことを知るであろう。(本書参照)。

 ………今回は以上です(★※加筆)