☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

『コミューン研究』 No.012

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■■☆コミューン研究☆ No.012

※ 久々の『コミューン研究』ブログ投稿です。

 特に今年に入ってからの除染現場異動に伴う重労働化と多事件・多忙の中で、どうしても作業を進めることができませんでした。

 その間しかし、俺の背中を押してくれる人々との出会いもあり、そして……もう30年もの間共闘・指導してくれている……現在は「福岡・藁の会」代表として闘っている山下直樹氏とじっくり考え・思いを交換・共有する機会に恵まれたこともあって、とにかくできるだけ早い時期に「パンフレットほどであろうとも映画問題だけは整理して明らかにしなければ」と意見一致し、一定の共同作業を進めることができた訳です。

 そんな状況だったからか、偶然も重なって、福岡・藁の会の通信『無かつ』第33号(2015・6・20)には、山下氏も俺も、それぞれの「映画問題についての怒りの一端を爆発させた」ような一文を記すことになった訳でした。

 それで俺としては「それらの文章をぜひ『コミューン研究』にて公表しておきたい」と思いたち、山下氏の了解も得て、今回ここに転載して公表することにしました。

                    (2015・6・23)

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労働・福祉相談窓口  福岡・藁の会   代表 山下直樹

 職場転職の関係で休業になった友人が「藁の会」休憩に帰ってきた。日頃より電話やメールで

やりとりはしているのだが、お互いにこの機会に約30年間に及ぶ歴史を何とか、まとめる作業に取り掛かった。きっかけの一つは映画「山谷 やられたらやりかえせ」が筑豊からの「問題提起」に対して一方では、なし崩し的に上映を続け。一方では「問題提起」部分をカットして居直り上映するという暴挙を平然と繰り返していることをはっきり批判しなければならない。「筑豊シーン「取り直し」を前提にその間は上映「凍結」を主張していた」が其の討議すら無視した状況なのである。

また当時、俺たちと「筑豊ヤマの会」の主張を支持していたようなポーズをとっていた者たちも一方では先ほど書いたカット上映、残りの部分は未だに筑豊からの「問題提起」に対して向き合うこともなく。態度表明を迫ると「今、議論の段階又は知らなかった」と言葉で、はぐらかし結論の先伸ばしにする始末である。俺は階段を外されたと認識している。(事実を消したいのだろう)

生活保護受給」シーンのフェンス越しの隠撮りと、その後、通称「日向墓地」が捏造に近いと金光烈さんの調査によって明らかになっているが映画で案内していた芝さんは最後まで指摘されたことに真摯に向き合わず亡くなった。しかし映画は上映されているこれは本当に黙っていられないことです。長崎・高島で1986年12月に上映運動し上映した一人として怒りが収まらない。

 高島で上映した時に出た炭坑労働者の奥さんと当時、病気で生活保護受給していた元炭坑労働者の上映後の感想を書いておきます。

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◆炭坑労働者の奥さん・・・

「この映画はよかった、なぜ高島閉山前にしなかったのか?映画の中で飲み屋で労働者が出身が三菱方城というところ私も旦那も福岡・方城出身だから山谷が近く感じた。

おかしいなと思ったことは、閉山になって仕事が決まらないときは生活保護に頼るのは当然だと思っているが、こそこそしなければいけないような映画になっていたのが嫌だった。」

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◆元炭坑労働者(生活保護受給)・・・

「九州の炭砿を渡り歩いた。高島で体調を崩し生活保護を取っているが映画の中の「受給シーン」は惨めな気持ちになった。好きで生活保護を取っているのではない

堂々と撮してもらいたい。映画で写っている人もそう思っているはずだ。」

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俺はこのことを真剣に受け止め「筑豊ヤマの会」に報告し現在に至っている。

 もう一つは日雇労働運動についてである。1995年以前の労組は日雇・野宿労働者と向き合う姿勢より支援の意向に重点を置いた活動にあったと思う

 しかしそれは先に記述した映画上映運動の過程で労組を結成したので仕方のない部分もあると割り切っていたが、その映画問題で「筑豊からの告発」を正面から受け止めず筑豊の痛みを共有する事もできず福岡の日雇労組としての決定もせず会議で討論さえしなかった。

 その上、日雇労働者の相談「労災事故」闘争にも参加せず妨害的な行動をした。そのようなことがあったので俺は単独実力決起した。(当時の執行部がはっきりと自己批判すればそのまま執行部にまかせるつもりでいた。)

 しかし脱落した執行部とその取り巻き支援はこともあろうに「党派と組んで労組を乗っ取った」とふれまわり目前に迫っていた「日雇団結夏祭り」つぶしを企てた。

 俺は当時、高島で労組活動「じん肺」労災闘争と生活保護相談、設立していた会「自然大学」で高島での子どもたちの受け入れ「強制連行」の調査と忙しく福岡の日雇運動・労組の支援強化は考えていたが組織を乗っ取るなど微塵も考えていなかった。

 その後、日雇・野宿労働者の結集と団結が深まり順調に日雇労働運動が拡大していった。日雇労働組合の全国組織も「映画問題」を真剣に討議し解決を図る約束も出て安心していた。しかしそれも全く裏切られ現在に至っている。

 また、福岡の日雇労組は高島で活動する俺には何も連絡せず東京発の名称変更を受け入れ独自路線での日雇運動をしているようだった。(この東京発が後に第二組合になっていく)

 労働運動の主体は労働者であると信念を持っている。俺はそのことを忘れない運動であれば理解してやぶさかではない。そのあいだも福岡で色々なことがありましたが拠点を福岡に移してみると労働組合が労働者を選別することを平気で行い闘いとった成果もビラで報告しない。

イベント的に「祭り」「春闘」を開催、業者周り(賃上げ要求)を提案すると拒否

そんなことが度重なり、とどのつまりは雨が降った「祭り」(最後の参加)で放浪癖のある労働者(アルコール依存)を見ていて欲しいとつげ友人宅へ少しの時間着替えに行って帰ってくると会場は真っ暗言い訳は発電機の燃料買い忘れ、頼んでいた労働者はどこいったかわからない

会場防衛は何のためにあるのか

労働者の防衛ではなく自分たち党派と党派支援の防衛とはっきりわかり俺は嫌になった。

 俺は欠点の多い人間であり感情的な人間であるが、自分の保身のためとか損得とか権威を高めるために批判したり実力行使したりは決してしないしした覚えもない。底辺でうごめきあう労働者の声が聞こえて来たとき感情が爆発するのだ。

 「労組を乗っ取った」と言った人、「労組から逃げた」と言った人、その言葉を「真に受けた人たち」、言ったことは必ず覚えておいてくださいよ。近日中にまとめあげて配布しますから期待してくださいね。

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炭砿などの「産業文化遺産」申請に反対で共鳴した人が先月号の「無かつ」を同封しささやかな高島・端島炭砿の資料を送ったが、その後まったく連絡がなくなった。どうしてかなぁー?

本当に「強制連行」され酷使され殺された。朝鮮・韓国・中国人等などの痛みを共有出来ない

自分の闘いとして理解していないのだろうなぁー。そう考えるしかないその惨めさ、あぁ~~

怒りの共有、闘いの共有ができないのであったら、したり顔で考えているような態度をするなよ。

「強制連行」「強制労働」「差別」はもっともっと根の深いものです。

俺もまだまだ学習・調査のスタートラインに立ったばかりと思いますし自覚していますしかし怒りの

共有はあると確信しています。あります。

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 友人の帰福で秋田の「花岡事件」を書いた。野添 憲治さんと会って話をして勇気を貰ったことを聞くうちに、筑豊の林 えいだいさんと無性に会いたくなり今回もいきなり訪ねた

 病弱ながら快く迎えてくれて話を聞きこちらも勇気をもらい自分の不甲斐なさを痛感した。

 万年筆をセロテープで固定して原稿を書いている。その凄さに圧倒された。話の中で朝鮮人問題と炭砿の問題を俺に学習させてくれた横川輝雄さんのことを、えいだいさんが心配していることが気になった。俺はこの何年間か疎遠になっていたがいつも自分の中では長崎の故 岡正治さんと高寶康稔さん、筑豊の横川輝雄さんが俺を指導してくれた尊敬する先輩と思っていたのだ。

 えいだいさん宅から帰って一週間位悩んでいたがとにかく一度会いに行こうと決断し訪問た。

 会って色々なことを体調が悪い中熱の入った言葉で今回も勉強させてもらった、

 本当に会ってよかった

 報告したいことはたくさんあるがこれだけは書いておきたい。

 横川さんは、「山谷やられたらやりかえせ」の「筑豊からの告発」問題はすぐに解決できると思っていたそうだ。(撮り直しの方向その間の上映凍結で)

やっぱり「映画問題」は決着をつけて安心できる報告を横川さんにしたいと思っている。

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流しの労働者(フクシマ流れ星)報告

■「無かつ」読者の皆さんに6月の報告をします。と書きたいところですが、──ブログ読者の方は気付かれてるでしょうが──現在の私はそれまでの除染現場と下請け会社を離れ、次の現場と会社に月末入場・入社というその間を、要するに失業状態ですごしており、今回はフクシマ現地報告としては、次の一点のみの報告として、全般お休みさせてもらおうと思います。

除染危険手当はこそこそと削られた!】

 その一点とは「今年度から環境省の出す(通称)除染危険手当が1万円から6600円に下げられた」ということです。

①約三年前の除染本格開始の時期にはほぼすべての業者が、この「危険手当」の存在すら隠して着服していました。のちにゼネコンとの接待・癒着事件が発覚した福島県の労働局と労働行政は見て見ぬりを決め込んでいました。

②次の年にたまたま新聞などで着服が問題化すると、今度はすべての業者が「手当1万円は払うがその分日当を下げる」手口で「事実上の着服状態」という帳尻あわせを編み出しました。

③そして今度は──財政破綻のツケを労働者に押し付ける意図で──まさにコッソリと危険手当を削り落とし、業者たちが(労働者の足元を見て)日当分を膨らませて帳尻合わせする、という手口に出ています。

 もともと6万円~7万円ほどの「人件費」を(明らかに最低賃金以下の)日当分2千円~6千円ほどまでにごっそりとハネてきたゼネコン・業者どもにとって『10,000-6,600=3,400円』の帳尻あわせなど朝飯前でしょう。

 またそんなことだから、いよいよ総「非正規」化へ、総貧困化へ、労働者全体が追い込まれていくに従って「資本の自由自在、労働者の足元を見た賃金」はいくらでも下げられかねない、

というフクシマ労働者の状況です。

 推移の詳細は、今後の(ブログも含めた)報告で行うこととします。

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■80年代の教訓! 自己陶酔の「総括」は許さない!

  ──「明大生協」「映画『山谷─やられたらやり返せ』」など等──

①いわゆる「映画問題」=『山谷─やられたらやり返せ』製作・上映と政治利用について

【(怒) 労働者不在で「総括をカタる」者たち】

 この号の『無かつ』で会の代表氏が問題の概略を記すと聞いているので私から詳しくは書かないが、80年代に突きつけられた『筑豊からの告発』を中心とするいわゆる「映画問題は、──特にこの過程に関わったすべての者においては──それへの回答をすりぬけては労働者解放の何も書けないほど重大な問いを含んできた、と確信しています。

 私もその(真の意味での)自己批判の課題を負う一人であるし、だからフクシマにて生きて闘うことと一つのこととしてこの課題を背負ってきました。

 少なくとも当時は「ただ上映を強行したい者たち」と「『告発』に応えてそれを批判する(と称した)者たち」がいました。

 前者(上映実・キリスト教市民運動に連なる者たち)は今は厚顔無恥にも『告発』など無かったかの振る舞いで映画上映をもてあそび続けています。

 後者の一部(木元グループ)はより卑劣な態度で前者の者たちと手打ちして山谷争議団~日雇全協~福岡日雇い労働運動の破壊に明け暮れています。

 後者の他の「筑豊も山谷も…福岡日雇い労働運動さえも…傍観・無視していた者たち」は

その後もなおずっと傍観・無視を続けていながら自分たちの「偏狭な本工主義と政治主義」を

「口先の自己批判(という尊大な居直り)」でごまかすことに汲々としており、その帰結として、いかなる労働者・人民にも無縁な空間で観念化を深める一方です。

②80~90年代の国鉄寄せ場解体攻撃の時代に露呈した「労働者不在の思想」たち

【無視できない「96-98生協問題自己批判」なるもの】

 近く必ずこの「映画問題」の真実を明らかにして、上記それぞれの労働者・被差別大衆・人民への敵対に断を下す決意ですが、それに先立って今、なんとしても一言こうした総括課題について書かねばならないと考えたのは、次のようなものを目にしたからでした。

 今月に入って突然「学生…」の名で「96年明大生協…解雇…98年暴力行使…の自己批判」なる、政治臭ばかりで労働者の姿の見えない怪しげな文書が公開されていました。上記の本工主義の者たちが作成したものを下部の学生に公表させたものでしょう。

 20年近くも、しかも木元グループの「分裂」からさえ15年も放置して振り返ることもなかった事態に、なぜ突然言及したのか。

 関連する争議の過程でも「当該パート労働者や被解雇200名の生協労働者に一人でも合流しよう」という提起にも耳もかさなかった者たちが今、一体誰に向かって「自己批判」と言っているのか。

 そうしたことが隠されたままの「自己批判」なるものに怪しげな政治臭で眉をひそめたくなるのは当然のことです。

 かつて木元らが日雇い労働運動の分裂・破壊を企んだとき「差別だ。自己批判だ」と騒ぐことで、内に向けては組織統制・支配を狙い、外に向けては「より優位(?)に政治的手打ち」を狙った、そのヤクザな手口を思わせるゆえに、黙ってはいられないのです。

【全運動解体─総翼賛化攻撃への態度ぬきに「総括」を語れるだろうか】

 90年代の明大学生運動は(生協も含めて)確かに激しい壊滅弾圧にさらされていました。そのことは「あれこれの過ちの言い訳」としてではなく「いかに闘いなぜ敗北したか…の総括課題」として語らねばなりません。

 また「自分たちは正しかったが誰々が(この場合は木元が)暴走しました」のような「止められなかった暴走」論、そんな「他己批判」による自己正当化はすなわち「事実隠蔽と居直り」にほかならずヘドが出そうです。

 そんな屁理屈をなぜ今(?)…おそらくはそれまでの「政敵」に今度は「擦り寄る」事情が生起したのか…その詮索は今は黙ることにしましょう。

 しかし重要なのは、そうした明大学生運動壊滅攻撃の背景には国家権力による総評(型の)労働運動解体、三里塚闘争破壊、部落解放運動解体、全障連解体、日朝連帯運動解体など、特に国鉄国労解体、寄せ場・日雇い労働運動解体攻撃、大学改革攻撃などが激烈に進行しており、その攻撃とひとつのものとして(暴力革命をめざす)党派への壊滅弾圧が同時に進行していた事実。 そのための国家権力による武器として「全運動をゼニの奴隷にする」NPO法や(各種の)自立支援法や大学自治への市場原理の導入・教養部廃止などが功を奏してきた総翼賛運動化攻撃の経過。

 そうしたことによって…例えば寄せ場をめぐっては…「就労現場の闘い」ではなく「失業救済型の運動」へと闘争軸がぶれて分断や対立が強いられ、あるいはこれに便乗した木元らのような御用組合型の集団が養成されてきた、そうした分断・破壊攻撃の経過。

 さらに言えば、その果てに、(それでも行政のゼニにつながれなかった)全障連九州…や福岡日雇い労働運動およびそれに内在する党派の壊滅をもくろんだ組対法に連続する弾圧が生起してきたのです。

 こうした経過のほとんどすべてで自己保身と傍観をきめこんでは後付け・外付け的に「他己批判」で言い訳する者が、組対法弾圧を独善的な精神主義でのりきった結末として「全運動をその看板だけ利用する」まさにソビエト運動の反対物へと転倒している、ということでしょう。

 明大生協解雇問題などを自己批判するというのなら、なぜ同じ時期に(より長期重大な乱闘と分裂・破壊に直結した)映画問題すなわち山谷争議団破壊・日雇全協破壊に一言も言及しないのか? 

 そもそも二組(御用組合)としての従業員労組結成を、「労働者を引き裂いた」責任にかけても総括し闘う方針も見えないのはなぜか?

 「女性パート労働者の怒りと要求」?…しかしなぜ木元グループ分裂後も争議から排除し続けたのか? 

 「本工主義的限界を突破」?…お題目ではなくそのための方針こそ確立すべきではなかったのか?

 「労働組合すらあてにできないギリギリの決起」?…福岡の日雇い労働者による暴力手配師打倒の決起に「まちがったやり方」とツバを吐いた者、それを擁護した者は不問のままか?

 「当該パート労働者…の怒りをぬきにした代行主義」?…この「自己批判」もその代行主義(以下)ではないのか?

 こうした「労働者不在」を克服しようとしない限り「労働者階級自身の事業」などとんでもない欺瞞のままであり、内外への暴力的統制は必然となるはずです。

学生運動の生き生きとした主体性について】

 やや蛇足ですが私の自分史の反省にも関わるので言います。学生運動の総括(自己批判?)を問うならば主体的に(!)取り組むべきです。

 誰が読んでも政治組織の「上」から落下傘で落された「総括?」…そんなことだから「解雇を支持する」事態に陥ったし、むしろ体質はそのままだと告白してしまっている。

 かつて、特に東京・関東では中央直轄指導に学生活動家はとても抗えない上意下達の下にあった。それを知りつつ改革できなかった者の一人として私もあった。

 そうした状況下で、裏切りで粗暴化する木元の横暴で迫害されたのは若き学生たちであった。だから同志を死に至らしめるような事態が続発した。

 ただ自己保身のために木元に「横暴の自由」を与えて傍観していた「上」の者たちもまた、いまだに同じ体質であることを告白している。

 ……こんな「自己批判」はありえません。

 労働者は自らの解放にかけてこんな「党」を求めるわけがありません。

 「党が労働者の党であるか否か」は団結した労働者の闘いが決めるのであって「無批判な信仰」が決めるものではありません。

 総括!

 明大学生運動が70年代から「大学祭の補助金に群がる利権グループを育成する」官僚的御用的体質を継続してきた負の側面を誰か直視したのだろうか? 

 90年代九大学生運動が同様の利権集団を解体する学生自治運動を推進した歴史を「木元指導」も「木元以後」も消し去ろうとしてきたのはなぜか?

 93年徳島大学教養部廃止に迎合した日共民青が自治会を自主解体したのを無批判で追認したのはどういうことか?

 94年九大教養部自治会再建で大学改革と対決した歴史はもう消し去ったのか?

 三里塚現地決起した日雇い労働者を(まるで「余計なことをしゃべるな」とばかりに)排除し続けた現地学生指導の総括はどうか? 

 木元らの脱走ののちただちに「三池闘争」について、続いて「映画問題─『筑豊からの告発』」について集中課題として学習・討論した意義、全組織に共有した意義は、どのように葬られたのだろうか?

 「争議(を闘う)共闘」の結成と無責任な終焉という闘う労働者への背反行為を学生運動もいままた傍観して追認するのだろうか?

 「障害児」殺人事件の差別的予断による一斉連行捜査に対決していた小戸公園野宿労働者の闘いを切り捨てた(弾圧下の)獄外の労働運動「指導」は傍観・追認してよいことか?

 その「障害児」殺人の背景に推察される「地域からの『障害者』の差別排除」を不問にしたことも学生は傍観するのだろうか? 

 いまや「労農水『障』学共闘」の看板もまったくの偽りというほかなく、まして「行動委員会運動─ソビエト運動」などとっくに看板さえ捨てられています。

 こんなことで「資本制支配の経済的土台をゆるがす」などできるわけもなく、したがって「政治的頂点を撃つ」も夢想となってしまっています。

 それらを主体的に捉え返せない学生運動は労働者階級とはもはや無縁でしょう。

【労働者の怒りの原点に立って闘う先達たちに続きます】

 今回は手前勝手な論点ばかりこだわって、読者の皆さんにはわかりづらい話題が多かったことをお詫びします。

 現在私は…朝鮮人強制連行・強制労働・迫害・虐殺などの歴史の真実を消させない・忘却させない闘いに奮闘されている野添憲治氏や林えいだい氏や横川輝雄氏の闘いに感動的に触発されて…藁の会代表氏に協力させていただいて、まず少なくとも「映画問題─『筑豊からの告発』」

の事実を明らかにしていく作業に専念しています。

 そんな中で次のフクシマ除染労働を準備しています。

 またそんな中での端島(通称・軍艦島)の「産業遺産」攻撃(怒)。労働者派遣法改悪(怒)。安保法制化攻撃(怒)。そして「映画問題」当事者である政治組織による「他己批判」(怒)。

 誰でも頭を叩かれれば怒りは爆発します。

 歴史は、労働者解放の未来は、そのような労働者自身の爆発で必ず切り開かれていく、との

信念を表明して今号の報告とさせてください。 

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(今号、以上です)