☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

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■■☆コミューン研究☆ №005

 『「マルクス国家論入門」学習ノート』①

★★※※…… №001から№004まで──読者の方には読みづらいとは思いつつ──「論争」的な文章を発表してきました。が、これから闘いはじめるための学習資料として読まれている若干名の方がおられると聞き、「もう少し読みやすく分かりやすいもの」も書かねばと考えました。もちろん…「学歴」にしても「所属していたフラクション」にしても…学生運動経験者ながら私は「サラブレッド」ではありません。自力で入門書を書けるほど網羅的系統的な学習指導がなく、そのぶん運動参加以前からの「独学」にまかせてきた者です。そんな「サラブレッド」ではない「雑種犬」が今はさらに「野良犬」になって吠えようとしているわけです。「野良犬」という自称には少しも卑下の意味はありません。むしろ解放と革命の主人公はサラブレッドなんかではなく必ず野良犬たちのものだからです。……

……ともかく今回は、私がとても共感して学んできた『マルクス国家論入門』(柴田高好著)を手がかりに辿りながら、このブログを私自身の学習ノートにしつつ紹介もしよう、と考えました。そういうわけで、今回は『「マルクス国家論入門」学習ノート』①と題して、「本文の抜粋」と「私の感想」とを書き込んでいきます。

 今後当分は、このブログで、これまでの「論争的な、歴史検証的なもの」と、今回から始める「マルクス学習ノート」とを(ブログ更新時の問題意識のままに)入り混じらせながら、いずれかにそって書いていくつもりです。

 ……ほとんどはこの著書からの抜粋であり、私のコメントは※※から※※間での部分として記しました。半ば読者のために、半ば自分自身のノートとして、というブログですから、それでも読者には不親切な記述になると思いますので、読みにくいところは軽く斜め読みですませながら読んでもらえば幸いです。 なお手元には本書の未完成の粗雑なOCRデータしかないので時折不正確な抜粋紹介になっているかもしれないことを予めお断りしておきます。(前書き、以上)※※★★

■□■『マルクス国家論入門』(※※ノート※※)

 第一節 政治的国家と市民社会の弁証法

 

■【ヘーゲル国家論】

※※最初はヘーゲルの国家論です。はじめての読者にはもっとも読みにくくなってしまうが、やはり学問的な意味でマルクスの思想をみていくとき、それが「ヘーゲルの『市民社会と国家の分裂』の視点を批判的に継承していること、その『観念論』批判として展開していること」から目を離すわけにはいかない、と考えるので、その部分は書きとめました。※※

 「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである」

 「国家を一つのそれ自身のうちで理性的なものとして概念において把握し、かつあらわそうとする」

        (『法の哲学』藤野・赤沢訳)

 ヘーゲルは市民社会における富の不平等を認め、「近代国家はむしろこの不平等を基礎として立っているほどである」ともいっている。

 だが本質的に特殊的欲求の体系としての市民社会は、かかる外的国家、市民国家の依存性の体系をこえて、そこに一方における富の過剰と他方における貧困の過剰とを不断に生み出してくる。ヘーゲルによればこの矛盾こそは近代市民社会を苦しめる重大問題であり、「禍の本質」である。

 そこで「市民社会は、こうしたそれ自身の弁証法によって駆り立てられ」海外貿易と植民にのり出してゆかざるをえない。イギリス工業社会の発展とイギリス古典経済学とに導かれてヘーゲルは、近代市民社会をこのようにえがき出す。

 これに対して、本来の国家、近代国家、政治的国家は、ヘーゲルにおいて、かかる市民社会とは決して混同されてはならぬものである。

 まことに、ヘーゲルにあって「倫理的理念の現実性」「実体的意志の現実性」であり「地上における神」としての普遍的国家は、「より高いものであって、そのような個人の生命および所有をさえも国家自身の権利として請求し、それを犠牲に供することを個々人に要求する」ものなのである。

 ヘーゲルにおいては、それまで同一視されてきた市民社会と政治国家とは明らかに分離されている。すなわち、一方は個々の特殊的欲望のせめぎ合う世界として、他方は個人を超えた普遍的全体性の場所として、あたかも地上と天上との如く、相互に対立せしめられているのである。

 だが、この両者は対立し矛盾し合うばかりでなく、また相互に依存し合ってもいる弁証法的関係にあるとされる。

 「私的権利と私的福祉、家族と市民社会、こうした諸圏に対して、国家は一面では、外面的必然性であり、それらの上に立つより高い威力であって、それらの法律も利益もこの威力の本性に従属し、依存している。しかし他面、国家はそれらの内在的目的であって、国家はおのれの強さを、おのれの普遍的な究極目的と諸個人の特殊的利益との一体性のうちにもっており、また諸個人が同時に権利をもつかぎりにおいて国家に対する義務をもつ、という点にもっている」

というのがそれである。

 「外面的必然性」とは両者の分離を、「内在的目的」とはその結合をあらわしている。この後の面においては、ヘーゲルにとって、国家、とくに近代国家は、古代国家やアジアの専制国家と異なって、まさに「具体的自由の現実性」であり、そうでなければならないのである。

 すなわち

 「近代国家の本質は、普遍的なものが、特殊性の十分な自由と諸個人の幸福に結びつけられていなければならないということ、それゆえ家族と市民社会との利益が、国家へ総括されなければならないということ、しかし目的の普遍性は、おのれの権利を保持せずにはおられないところの特殊性自身の知と意志のはたらきをぬきにしては前進することができないということ、この点にある。だから普遍的なものは実現されなくてほならないが、他方主体性も完全かつ活発に展開せられなくてはならない。この両契機が力強く存続することによってのみ、国家は分節されているとともに真に組織された国家とみなされうるのである」

 「まことに特殊的利益は無視されてはならず、まして抑圧されてはならないのである。それは普遍的なものと一致させられなくてはならないのであって、これによって特殊的利益そのものも、普遍的なものも、ともに維持されるのである」

 「国家の目的が市民たちの幸福であるとは、しばしば言われたことである。たしかにそのとおりであって、もし市民たちがしあわせでなく、彼らの主観的目的が満たされず、この満足の媒介が国家そのものであることを彼らが認めないならば、国家の基礎は脆弱なのである」。

 ここでは、特殊性と普遍性との分裂、対立とは全く反対にくりかえしその一致、一体性が力説されている。

 このように特殊性と普遍性との、市民社会と国家との、個人自由と国家権力とのヘーゲルにおける対立と統一の関係は、きわめて微妙であって、マルクスはこれを「解けない二律背反」(『ヘーゲル国法論批判』)といっている。

※※……………………………

★★★【プロレタリア革命、…観念的普遍を現実的普遍の形成で転覆すること】★★★

 「普遍」「特殊」といった言葉は哲学者が好む言葉で一般にはなじみが薄いですね。さしあたりは「全体の」「個々の、個々人の」といった意味に置き換えつつ読めば、理解しやすくなるのではないでしょうか。

 私はNH氏という革命的理論家であり実践者であった氏の遺した「著作集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」に学び共鳴してきたが、氏は著作の随所で【資本主義支配においては、観念的普遍はブルジョアジーのものである。これをプロレタリアートの現実的普遍によって転覆する】と、プロレタリア革命について述べていました。当然ながら氏は「個々の労働者の革命能力」のようなものを論じているのではなく、「現実的普遍」つまり「個々の労働者の矛盾との闘いの総和」として「生きた労働者の団結と闘いの形成」「階級の形成」にあくまでこだわり、その「現実的普遍」がプロレタリア革命を成就させるのだ、と力説したはずです。

 これは、【現実の労働組合や労働者党は、……一時的に抜きん出た個々の労働者がカリスマ化することはありうるとしても……あくまでもその団結や運動の内容として「革命的な力」が形成されなければ必ず観念化したり無力化したりということに陥ってしまう】という示唆でもあります。

 だからまた氏は「現実の矛盾との闘いの総和」を形成するために「行動委員会運動」にこだわり「ソビエト運動」にこだわり、そのもっとも直接的な実体として「地区ソビエト」とそれを基礎にしそこに責任を果たす「地区党」が基盤であることを力説したのだと思います。

 階級としての労働者は、ついには「全国党」を自分たちの武器として必要としますが、それは決して上に述べたような「行動委員会運動──地区ソビエト──地区党」という竹林のように縦横の水脈に根を張っていない(都市の公園の上っ面に植樹されたような)虚勢だけの大木に置き換えてはならないものであるはずです。

 しかし現在の〝この現実〟では、NH氏の理論は──自称「継承者」たちには──「言葉の上っ面ばかり剽窃」はされても「中身は形骸化」させられてしまっています。

 50年朝鮮戦争=人民虐殺戦争に加担した総評に対する無批判。戦後日本労働運動の岐路に位置する三池闘争に対する無総括・無継承。「去るも地獄」というその「去らされた労働者の行方」への完全な無関心。それは今も「『寄せ場』から労働者が消えた」と言いつつ、その「消えさせられた労働者たちの行方」に全く無関心ですます冷酷な姿勢へと継承されて、労働者を「ホームレス」などと蔑む行政役人や偽善をまとった貧困ビジネスらと歩調をあわせてしまっています。

 したがってまた口先では「総非正規化」と言いつつ非正規労働運動の軽視(蔑視?)と無為無策。その基軸にあったはずの日雇全協破壊への加担。KMTに全権を渡して東京・山谷の闘いの破壊に加担した者たちの見苦しいほどの居直り。当然にもその無総括、または総括提起への排撃。

 そうしたウルトラ本工主義の必然的帰結として、日朝(朝日)連帯─国際連帯運動への完全な無関心。部落解放同盟攻撃に対する無関心。全障連運動破壊への無関心。さらには「三里塚反対同盟農民と日雇い労働者の共闘」への再三の妨害、または破壊。「障害者と農民が育て上げた共闘内実」の(それぞれの闘いに政治主義的にしか関わらないことによる)形骸化、…などなど。それほど無実践・破壊に手を染めてきた自分の姿に気づかぬふりで「革命的労農水障学共闘」などとアジれてしまう「裸の王様」ぶり。

 まさに「現実の労働者に根を張らない」という意味で「日共・社民党民主党」などと「こうした党」とはコインの裏表でしかありません。NH氏が全力で示した《労働者階級の宝》のような革命指針が形骸化させられていることと現在の労働者の強いられた後退状況とはまさに不可分一体です。私の場合はそうした危機感と悔しさで焦ってきました。「決別」以前も今もです。

 それで、この枯れ果てさせられた大地からであれ、何としても「ブルジョアジーの観念的普遍を転覆する現実的普遍=労働者階級自身の団結と闘いの再興を期したい」として「野良犬」の闘いに歩み出し、それでこうしたブログに着手してきた事情でもあります。…横道にそれましたが… ★★

………………………………………※※

■【へーゲル国家論批判の開始──理性国家論】

 大学卒業後一八四二年、二十四歳の若きマルクスは、はやくもヘーゲル自然法批判を宣言した。

 「もう一つの、私がやはり『ドイツ年誌』に予定していた論文は、国家の内部体制に関するかぎりでのヘーゲル自然法の批判です。その核心は、どこまでも自分と矛盾し自分を止揚する両性体としての立憲君主制にたいする攻撃です」と。マルクスにおけるマルクス独自の国家論形成へのあゆみはここからはじまるということが出来る。

                                                ヘーゲルの倫理的世界にあっては、普遍性と特殊性との直接的な未分化的一体としての家族が否定されて、普遍性と特殊性との分裂・差別としての市民社会に移行する。この市民社会的分裂は、さしあたり分裂状態を制御する国家としての外的国家・強制国家・悟性国家を生みだす。ここでは諸個人は外的国家の市民として自分自身の利益を目的とする私的人格にすぎない。そこでこのような分裂的市民社会、外面的国家をさらに否定し、否定の否定としての弁証法的発展の結果、そこに普遍性と特殊性とのその統一態・現実態としてあらわれるものこそが本来の国家だとヘーゲルはいう。

 このヘーゲルの国家論にたいしてマルクスは、「『ケルン新聞』第一七九号の社説」(一八四二年七月)で、[最新の哲学のいっそう理念的で、いっそう根本的な見解は、全体の理念から出発する。それは、

国家を大きな有機体として考察するが、この有機体では法的、倫理的、および政治的な自由が実現されねばならず、また個々の公民は、国法に従うことによってほかならぬ彼自身の理性、人間的理性の自然法則に従うのである」といって、「人間性の国家」、「理性国家」というヘーゲル的な「国家の概念」を展開する。この面ではマルクスヘーゲルの理性国家論をうけつぐ。だがしかし同時にマルクスは「理性的自由の実現でないような国家は邪悪な国家である」とはっきり断言し、理性国家論の原理的観点から現実の国家におる否定的なもの、その矛盾に強く目をそそいではなさない。マルクスヘーゲルからはなれるのはこの一点からである。

 現実の国家がみずからの理性的存在性をたんなるタテマエと化し、実際は少数の私的利害・私有財産の手段に堕してしまっていることについて、青年マルクスはT木材窃盗取締法にかんする討論」一八四二年十月)の中でつぎのように告発している。

 「国家がただ一つの点においてでも、それ独自の流儀をすてて私的利害でふるまうほどにおちぶれるときには、ただちに国家は、国家的手段を行使するという形式は維持しながらも、事実上私有財産の限られた領域にわが身を売りわたさなければならないことになる。私的利害は非常にずるいものであるから、このような帰結をとことんまでつきつめて、きわめて偏狭でみすぼらしい姿をとった私的利害がそのまま国家活動の範囲であり規範である、と主張するようになる。こうなると国家がまったくその品位を失墜してしまうことは別としても、逆に被告人にたいして理性と法に反する仕打ちがとられるようになってくる。なぜなら、偏狭な私有財産の利害のことで頭がいっぱいになってしまえば、被告人の利害などもうとう目に入らなくなるのがしごく当然の成行きだからである。ところで、ここで私的利害が国家を私的利害の手段にまで引きさげようと試み、またそうするほかない、ということが明らかにされたからには、種々の私的利害の代表機関である議会は、国家を堕落させて私的利害の思想にかえてしまおうと望んでおり、またそうせざるをえないのだ、と結論しても、なんの文句のつけようがあろうか?」

「国家の機関は一つのこらず、森林所有者の利害が聞き、見はり、測り、かばい、つかみ、走るための耳、目、腕、足となりはてるのである」。

 ここには近代国家における普遍性と特殊性、公共性と私的性格、理念性と現実性、タテマエとホンネの内的矛盾・二重性が事実上語られている。

マルクスはそのへーゲル批判を、フォイエルバッハのようにけっしてヘーゲルから再びカントやルソーの自然法論にあともどりした線で行なっているのではない。まったく反対に、ルソー、カントらにたいするヘーゲル的否定をさらに否定するより高次の弁証法止揚の方向をめざしているのである。

 市民社会と政治的国家とを同一視した自然法思想を否定してヘーゲルは、はっきりと両者を分離せしめたが、このヘーゲルの観念論的把握をさらに否定して唯物論的把握を行なったのがマルクスであった。

■【『ヘーゲル国法論批判』──幻想国家論】

                                                一八四三年にはいるとすぐその年のはじめの一月、マルクスはこういっている。

「国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見のがして、すべてを行為する諸個人の意思から説明しようとする。だが民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している諸関係というものが存在する」と。

 諸個人の主観的意思から独立した事物の客観的諸関係のなかに国家の必然性を探求するという唯物論的方法がここで語られている…。

 そして…『ヘーゲル国法論批判』(一八四三年七月-八月)において、ヘーゲル国家論に対する批判を介してのマルクス国家論の基本的方法が確立された。

 この『ヘーゲル国法論批判』こそ…とくにマルクス政治学・国家論にとって最も重要な基本的方法論が、ここで明確に確立されている…。…まずここにおけるマルクス国家論の基本的方法と精神の原点に立ち帰り、これを起点として発展させたマルクス国家論の原理によってレーニンその他の国家論がいまや批判されねばならぬのである。

 「ヘーゲルにあって比較的深いものは、彼が市民社会と政給的社会の分離を矛盾と感じている、という点にある。しかし、彼がまちがっているところは、彼がこの解消の見せかけで滴足し、これを事実そのものだとしているところにある」(『ヘーゲル国法論批判』)。

 マルクスのこの言葉が示すごとく、マルクスは、一方において近代における市民社会と政治的国家との分裂と統一の弁証法的関係という、近代に固有の本質的把握をヘーゲルからしっかりと受け継ぐ。同時に他方マルクスは、そのヘーゲル的解決のまやかし、失敗を徹底的に批判し、全くマルクス独自の解決をこれに与えることによって、ヘーゲル的矛盾を内在的に止揚してゆくのである。

 市民社会と政治的国家との二つの領域の分離・対立・断絶・二重化、近代社会に特有のこの矛盾を、マルクスはどこまでもつかんで離さない。

 市民社会が直接的に政治的性格を有し、市民社会と政治的国家とが未分化であり、従ってまた市民社会における私的身分がただちに政治社会の公的な身分でもあった中世封建社会、その封建社会に対する否定物としての近代社会は、市民社会を政治的国家から、政治的国家を市民社会から、それぞれ同時に分離し区別するところに成立する、そこでは市民社会の私的身分はもはや直接には政治的国家の公的身分ではない。公的身分は私的身分から、私的身分は公的身分から、両者は全く分離して自立化せしめられているのである。

 近代においては、市民社会が政治的国家から分離し自立化しただけではない、政治的国家も市民社会から分離し自立化したのである。

 「もちろん、私的な領域が自立した現存を得たところで、はじめて政治的国家制度そのものがつくりあげられるということは、自明のことである。商業と土地所有が自由でなく、なお自立していないところでは、政治的国家制度もまた存しないのである。中世は不自由の民主制であった。国家そのものの抽象化は、私的生活の抽象化がもっぱら現代の特徴なのであるから、もっぱら現代の特徴をなしている。政治的国家の抽象化は、現代の産物である」。

 「キリスト教信者が天国においては平等で、地上においては不平等であるように、個々の人民の成員が、その政治的世界という天国においては平等であり、社会という地上の存在においては不平等である」ということである。

 政治的国家における万人の法的自由・平等(普遍性)と市民社会における現実的不自由・不平等(特殊性)という、フランス革命が完成したこの矛盾こそ…近代国家の特質をより明らかならしめるもの…。

 「現実には、家族や市民社会は国家の前提であり、まさにそれが本来活動するものな

のであるが、思弁のなかではこれが逆立ちさせられるのである」

 「家族や市民社会は、自己自身を国家にするのである。まさにそれらが原動力である」

 「政治的国家制度は、その最高の頂点においては、私有財産の国家制度である」

 「政治的国家にはなにがのこされるのか? それは政治的国家が規定されているにもかかわらず、それが規定しているのだという幻想である」

 

 ヘーゲルとは全く逆に、市民社会と政治的国家の矛盾は、マルクスにあってはあくまでも市民社会の優位の下に統一され、関連づけられているのである。

 マルクスにあっては、政治的国家の内的分析、その解剖は、このような市民社会と政治的国家との弁

証法的関係の把握を大前提とし、それをはっきりふまえた上で行なわれる。

 かくて普遍性と特殊性との分裂の止揚解決態としてのヘーゲルの理性国家は幻想にすぎず、現実の近代国家はマルクスにあっては、まさにこの普遍的形式と特殊的内容との矛盾的統一としてつかまれるにいたったのである。

 「普遍的な事項は、それが人民の現実的な事項であることなしにできあがっている。現実的な人民の事項は、人民の行動なしに存在している。国会の要素は、人民の事項としての国家の事項の幻想的な現存である。普遍的な事項が普遍的な事項であり、公共的事項であるという幻想か、または人民の事項が普遍的な事項であるという幻想が生まれる。われわれの国家においても、ヘーゲルの法の哲学においても、結局『普遍的な事項が普遍的事項である』というタウトロギーの命題が、実践的意識の幻想としてしかあらわれえないところまできたのである。国会の要素は、市民社会の政治的幻想である」

  (※※「タウトロギーの命題」とは「同義反復」といった意味か※※)

 「官僚が市民社会にたいしての国家の代理人であると同時に、国会は国家にたいしての市民社会の代理人である。したがって、それはつねに二つの相反する意志の協定である」

 「国家制度は、他の諸領域にたいする普遍的な理性として、これらの諸領域の彼岸として、展開される。その場合に、歴史的課題は、政治的国家を現実的世界にとりもどすことにあった。しかしそのさい特殊な諸領域は、それらの私的な本質が、国家制度あるいは政治的国家の、彼岸的本質の廃止とともに廃止されるということ、また政治的国家の彼岸的存在は、それら諸領域の自己疎外の確認にほかならないということを、意識していない」(『ヘーゲル国法論批判』)

 すなわち、政治的国家は市民社会の自己疎外の産物であり、従って歴史的課題は、政治的国家を市民社会の現実界にとりもどすこと、つまりその自己疎外の回復にあり、しかもそのさい政治的国家の彼岸的本質の廃止とともに市民社会の私的な本質もまた廃止されるということ、これがこの時のマルクスの解答であった。

★★★※※

【忘れさせない!消させない!

スターリン主義批判として「国家権力解体!」、なのである!】…………………

 この初期のマルクスの方法論を代表するといわれる『ヘーゲル国法論批判』では、「市民社会と国家の分離」を常に意識していく方法論が力説されている。それは少なくとも、のちのレーニン的な「暴力国家論」とはまるで次元が違う。本書の著者・柴田は、ここから丁寧にマルクス自身の、そしてエンゲルスの、最後にレーニンの「国家論」へと分析を進め、何が歪曲され欠落してしまったかを明らかにし、彼なりのこの方法で、いわゆる「スターリン主義」といわれる敗北的(反労働者的)国家論の秘密を解明していく。

 その出発点として、今回紹介した「市民社会と国家の分離」およびそれを基礎にしつつ「ヘーゲル観念論批判」…というマルクスの方法論はきわめて重要と思う。私の経験の中で学ばされてきた「社会的基礎を揺さぶりつつ政治的頂点を撃つ」といった革命の戦略指針も、したがって蜂起へ攻め上っていく「スト・デモ・ゲリラ」という戦術問題も、この(決して封建社会やそれ以前ではない)近・現代の資本主義支配に特有の「市民社会と国家」ということに的をはずさない戦略指針なのだ、と改めて思う。

 (「ストができても弾圧で負けたら意味がない」などといった短絡議論は、そもそも「ストへ!」と切迫する現実の労働者の死活利害に悪罵で敵対している上で、「敗北的前進」の意味もわからないサヨクニヒリズムであり、具体的にも「それ」で三池闘争をはじめとした重要な闘いの歴史も意義も「切って捨て」て敵対しているのである)。

 私(とわれわれ?)の先達であったH氏は、すでに80年代の獄中から「この本(=柴田の本)はスターリン主義批判として重要な提起を含んでいるので必読だ」と獄中回覧を提起していた。H氏は、この書物の提起も吸収しながら、獄中者組合討論に参加しつつ、ここで明確に「国家権力の解体」を提起し、また「死刑制度の廃止」さらに決定的思想として「犯罪者解放」を提起していった、と思う。

 (これは、80年代当時にはまだ「革命勝利したら反革命を弾圧するのだ。だから監獄は解体してはならない」という議論が未分化に混在していた思想状況に対する決着であり飛躍であった。「党は最初から完璧であった」かのように歴史を改ざんしたい者には、この「飛躍」の明確化が迷惑かもしれないが、事実はそうである。

 また、「ルンペン・プロレタリアート」論を口汚く連呼した当時のマルクスについては、私はそれが「当時のマルクスの限界」であったとはっきりさせ、さらなる「飛躍」を明確にすべきと提起してきたが、提起は「握られた」ままである。しかしすでに、特にH氏の提起した「犯罪者解放」の意義が「当時のマルクスの限界」を正面突破しようとしていた、と私は理解し学んできた。支配者が労働者を「ホームレス」と呼び捨てたとき、労働者階級の重要な層としての「野宿労働者」の反撃を叫んだのは、その意味も込めてである。)

 その──NH氏もH氏も亡きあとの──この党では、いつのまにか「国家権力解体」を暴力的闘争のスローガンかのように歪小化して、結果「強がり文句」を並べて得意がっているような陳腐な議論が流行ってしまったのだが、そうではなく「国家権力解体」とは「ソビエト・コミューン権力樹立」の中身として、決してレーニン・スターリン的な「革命国家を守れ。強化せよ」的な誤り(=ソビエト運動破壊)を許さない意味で明確に「国家権力解体・監獄解体」として提起されたのである。その次元で「獄中者解放」「犯罪者解放」であり「獄中人民連帯」なのである。

 残念ながら、いくら警鐘をならしても──「ソビエト」「大衆運動」を強調したり実践したりすることが、まるで「暴力闘争反対派・武装反対派」のように聞こえたり見えたりしまう小心な猜疑心の塊のような諸君たちには──この批判的指摘がついに伝わらなかった。(この諸君たちは、小心な猜疑心に追い込まれた連合赤軍が何をなしてしまったか、一度くらいはまじめに考えたほうがよいだろう。もし立ち止まって考えられるのなら)。

 この歪曲、この落差は、いわゆる組対法弾圧をめぐる評価と闘い方にもくっきりと現れた。詳しくはここでは述べないが、「全障連つぶし」=「差別弾圧」という問題がある。私(たち)は、「全障連破壊を許さない」という怒りで闘ってきたし、だから「差別弾圧を許すな」と叫んだ。だが「とってつけた」ように体裁で「差別弾圧と(も)言ってみた」ような者たちは「全障連の歴史を消すな!強大に再生していこう!」などとはカケラも思わず平気な顔で「自前では何も為さないのが流儀」になっている。…それで弾圧に勝てる、革命に向かって闘っている、と思い込んでいるところが、とてつもない観念化にまみれている証左であることに一人でも気づけばよいとは思うのだが。

 ともかくも、そうした痛恨と執念をこめて、さらにこの書物の紹介は続けていくつもりです。

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★★今回は以上です★★