☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

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■■☆コミューン研究☆ №004

 『行動委員会と党建設』(再録&加筆 ②)

 …前号(再録&加筆①)に続くものです。

★★★………改めて述べておきますが、ここに『行動委員会と党建設』と題している小論は国家権力の弾圧下に囚われていたその獄中から「路線崩壊の危機感」をもって渾身の力で準備し提起したものであり、出獄後も、決別後数年を経ても、無視黙殺(または隠蔽)されているものです。徹底した宗教(観念論)批判を生命力とするマルクス主義を標榜する者が「(建設的)批判」から逃亡したり「事実」を隠蔽したりする行為の負債は必ず幾千万労働者の血で支払わされる結果になります。官僚たちのプライドや私のプライドなど取るに足りません。「組織者」であれ「一人の労働者」であれ、もしその者が「労働者解放の旗」をかざすのならば、その者は全力で「労働者の武器=解放の理論と実践と団結」を守らなければなりません。この小論は、獄中の私なりにその緊張をもって全力で提起したし、それが黙殺されて党の何の力にもならなかった末の、改めての再録・加筆による公開記録の決断もそうした意味です。

 前置きは以上として、当時、党が発表した「○○○号」掲載論文への「違和感」つまり「批判」を視点的に提起した部分の再録・加筆─再提起を続けていきます。……★★★

………以下は前号の小論に続くもの………

■【「行動委員会運動への実践」が問われているとき、

 「断固たたかいます」の決意主義でごまかしてはならない!】■(※小見出しは加筆した)

………………………………………

〈違和感の1〉.「断固たれ」の「精神」ではなく、「内在的推進の総路線」こそが問われているのではないか!

 「○○○号」の“読み解き”においては、まず「この精神(※『73○○』引用文のこと!?)は、革命的学生運動においても同じである」とされている。しかしどうしてこの「73○○」引用文の内容を指して「この精神」となるのだろうか。これはどう読んでも「アジテーション」や「闘争精神の鼓舞」ではない。ここでは「もう一度問われる」べき「党員は大衆の外にいるのではない(=階級的内在性)」ということが、――

(1)例えばスタや小ブル運動とは区別されて〈外在的でないはずの我々〉の「内在性」が予め“前提”とされてしまっているためか、

(2)また例えば、予め、本「○○○号」の展開において、〈はじめに「より断固たれ!」の結語ありき〉へと先走りし、規定された論理構成となってしまったために、

――問題は「内在的推進を闘う??」者の資格として「より断固たる者」たりえているのか否か、にあるのだと誤って“読みこまれ”てしまっているのだろう。

 言い換えれば、この「73○○」引用文で言う「断固たれ」の内容が、まさに〈――このような、大衆と党の相互媒介的・弁証法的な闘争・組織建設の闘いを通しながら、その組織実践を基礎にしてはじめて!!――内在的に(階級的に)闘いうるのだ〉という提起と分かちがたく一体であることが“読み落とされ”ていると思われる。その結果、問題は「この精神!」「より断固たれ!」の問題だ、と論旨がすり替わっているのである。

 「○○○号」の、こうした「総括」や「問い」は、どうしても〈「この精神」を有しているか〉〈断固としているか〉を〈起点〉とし、「総括―克服していく闘争方針」も、おのずと「その〈精神性〉や〈断固さ〉の検証を独自に定立して闘うこと」となり、そのために「73○○」でいう

〈BY①を通してBY②を闘う〉闘争指針や、

「闘争を媒介とした共同性」や「『階級的視点』を…闘いと団結の発展のうちに定立する」(※上述『小論集』)といった推進構造・闘争構造、

…「73○○」でいうBX①~④、BY①②がきわめて不鮮明になってしまう、

と危惧している。

 「○○○号」では、引用文の「もう一度問われる」について、なぜ「もう一度(!!)」なのかが全く説明されない。この「もう一度」とは、大衆的闘争・組織建設を基礎とした党建設を、相互実践的に一巡して〈もう一度(!!)その実践において内在性=階級性が問われる〉こと、およびその連続であり弁証法的発展であることを鮮明に提示している引用文全体にとっての決して見逃せない“要”である。この時代の議論を正確に共有できてない私にとっても、まさにこの内容において解放派は、70年代の革共主義などの小ブル急進主義の〈外在性〉への決定的訣別・分岐を刻印したものと理解しうる一文、と読める。

 しかし上述「○○○号」の“読み解き”は、この点の再度の不鮮明化であり、これで〈大衆化と革命化の同時的・相互媒介的な推進〉を定立しうるのか、このように危惧はある。

■【「学生は労働者より断固たれ」なる号令!?…そんな号令を叫ぶひまがあるなら

 「学生よりはるかに怒りと戦闘力に満ちた労働者の闘い」

 に連帯して学ぶべきではないのか!】■(※小見出しは加筆した)

……………………………………

〈違和感の2〉.「学生運動は○○(※労働者同志のこと…※加筆注釈)以上に断固たれ」でいいだろうか!

 その上で「断固たれ」の中身として、「○○○号」で①「資本と断固として闘う」、②「国家権力機構や弾圧と…」、③「差別と…」、④「ファシスト、小ブル反革命どもと…」と列記されている点について基本的に異議はない。

(但し、

(1)多様な課題がある中で、いかなる視点からこの①~④の列記か? 

(2)「あらゆる差別・様々な差別と闘う」ではなく「差別(一般?)と闘う」といった表現でいいのか?

 など若干不安な表現とは思う)。

 ★★★★★★★★

(↑)この部分は──獄壁を越えねばならないデリケートな議論であるため、かなりトーンダウンして批判している。

 よりハッキリ言えば、社会的差別は部落差別・朝鮮人差別・「障害者」差別・女性差別などなど多様に在るし、その抑圧・分断の状況もそれぞれの闘いの発展段階もまったく一様ではない。何を「差別」と言うべきなのかからすでに差別との闘いは始まっているし、ひとつひとつの「差別」に気づかず生きていたり「闘っている」と思い込んでいたり、そのこと自体も差別なのである。あるいはこの様々な差別に満ちた社会に「いくらか」反対し「いくらか」気づかないままで居るほかないすべての人民が「様々な差別性」を断ち切れていないはずなのである。……だからこそ、その一つ一つの告発であり糾弾である行動委員会運動が絶対に必要だし、まさにここで共に闘いここで党を打ち鍛えねばならないのである。

 しかしこの筆者は「差別と闘う」「断固として」と一般論で簡単に書けてしまう。この筆者はのちに「我々にはまだ差別と闘う資格がない。だから実践で後退しても仕方がないではないか」とも言っている。この社会もこの我々も「差別に満ちているから闘う」のではないのか。そうではない上の次元に立って「闘う君」は一体何者なのか。

 良く(?)言えば「何かの差別問題について勉強はした者」「自分がまだ出会っていない(他の領域の)社会的差別に対する糾弾の闘いを知らずに済ませていることの緊張がない者」の一知半解丸出しの表現である。よりはっきり言えば「自分は(ある)差別を許さない、と思う」「だから私は差別者ではない」といった傲慢な観念に囚われた有害きわまりない能書きである。彼は、彼らは、その傲慢な自負によって、「まだ出会えていない差別(・抑圧)との闘いを無視できる」「出会っていても知らぬふりができる」ことによって、様々な差別を再生産する側にはっきり立っている。……だからあの『筑豊からの告発』も、あるときは涙ながらに聞き、次の瞬間にはさっぱりと黙殺できて平然とできるのである。だから政治的にヘイトスピーチに「怒り」をあらわにしてみせつつも傍らの「帰化朝鮮人労働者の苦悩や闘いも連帯も知らぬ顔で蹴散らせるのだ。だから女性差別者の暴力に加担し、涙ながらに謝罪したと思えば、再び痛めつけ、またも隠蔽する、そんなことを平然とできるのだ。(※詳細は別途、怒りをもって書く!)

   ★★★★★★★…以上は、このブログのために加筆した★★★★★★★

 あるいはまた、「我こそ」「我々こそ」闘いの先頭に立つのだ!という気概や敢闘精神といった次元ならば、例えば私なりにも常にかくあるべく自らに問うてきた。革命的学生運動における「立場の転換」の実践的検証点として提起されることにも賛成である。だが「○○○号」では、上記の①~④の提起について「この精神は革命的学生運動においても同じである。いや学生運動の場合は、その労働者階級の立場に立った闘いへの転換が問われるがゆえに、○○(※労働者同志たちのこと…加筆注釈)以上に『断固たる部分』であることが問われる」…と説明されている。

★★★★★★……(以下、加筆注釈する)

 「立場の転換」すなわち「革命的労働者の立場への転換」に言及するのならば、工場で、工事現場で、野宿の現場で、貧困ビジネスの支配の下で、呻吟しつつ闘っている現実の労働者の怒り、悔しさに満ち満ちているが未だ公然と闘いの叫びをあげられない労働者の怒り、そうした怒りに密着し、その団結と闘いのために勝利のために共に連帯し共に悩み共に闘う実践に躍り出なければならない。労働者階級の怒りとは何なのか、どのような重さなのか、まずそのことを知らねばならない。それらに一ミリも近づくことなく、それどころか「日雇い労働者を団結から遠ざけること、自分も遠ざかること」で坊ちゃん嬢ちゃんの安寧を守ろうとする某○○現闘たちのような「タタカイ」?、それに何の違和感もない小官僚たち、その実践のどこに「立場の転換」があるのか。「労働者より断固たれ」、それこそ観念論の極みである。

 ちなみに「党に結集する労働者」が「革命的労働者」だ、とする(この党で流行っている)用語法は、諸君たちの趣味の問題であり、労働者階級の思想や科学とはまったく別物である。

   ★★★★★★★★……(以上、加筆した)

 しかしKMTグループ発生めぐる総括や闘争・組織建設基調として「学生こそ(○○より)断固たれ!」のように言う作風は――実際それはよく耳にしてきた口調なのだが――往々にして「学生がしっかりしていないから敗北したのだ」といった「総括」の作風と一体である。もちろん自らの限界だらけの闘いを振り返って、「私が、我々がもっとしっかりしていれば、もっと未然に、もっと徹底的に奴らの陰謀を粉砕しえたのに」と思わぬ日は(大げさでなく)一日たりともない。しかしそのこととは区別されて、○○紙上、全労働者人民と全党への表明として「KMTグループを生み出した責任を有する我々(学生戦線)」として〈自己批判を“代表する”学生戦線(=階級闘争の重要な環である階級的自己批判の闘いを代表する学生戦線)〉というのは、――第一に全ての闘う労働者人民に対して、第二に労働戦線や被差別戦線の同志の――結局、頭上に立っているといえないか。

★★★★★★★……(以下、加筆注釈する)

 はっきりさせたいが、長年もの間に中央部に所属して、現場ではまるで「全権」をふるってきたKMTを「生み出した責任」が「学生」にある、というペテン師の論法には呆れるばかりである。この官僚たちは「KMTと共に会議」をやったことがなかったのか? 「東京・山谷で暴走に暴走を重ねたKMT」に「暴走の自由」を与えたのは「学生」か? 横暴を為すたびに「中央決定」をふりかざしたKMTのそれはすべて「なかったこと」か? 「ありもしない決定?」に従わされた「学生」の苦しみには「中央」は責任がなかったのか? それこそ官僚的自己保身ではないのか?

   ★★★★★★★……(以上、加筆注釈した)

 例えば、いわゆる「受験競争」に端的な労働者選別競争に(程度の差はあるが)勝ち抜き、他者を蹴落とし、そうして体制に認知された「序列」「学歴」「資格」のみならず選別的に訓練され擦りこまれた「強度の支配階級の思想」やその「弁舌力」や「情報操作力」など、本源的に《資本・国家権力の力》を己の「力」として他者の上に立ってきた自らの半生についての、階級的自己批判的な緊張ある実践をもって、労働者(人民)自身とその現実の闘いこそが軸となった(大衆と党をつらぬく)闘争・組織建設を自らの任務として闘おう!といった問題提起、ということであれば、誤解ないようそのように示すべきだろう。

 それにしてもやはり「○○○号」では〈基礎〉とすべき労働者(人民)自身の闘いの推進をめぐる現実的検証――特にKMTグループ発生過程で攻撃を受けつつ対決・粉砕してきた大衆的怒りと闘いに対する“我々”の現実的検証――は「課題」としても提示さえされてなく、むしろ存在論的展開が軸となっており、しかもその上に「(○○より)断固たるべき学生戦線」が提起されていることへの違和感は残ってしまう。

 エピソード的なことがらだが、例えば確かに某労働者同志から「学生戦線の責任が大きい」という批判もあったことは緊張をもって踏まえねばならない。その上で別の角度からの批判もあった。

(1).○○年○.○―○直後の――初の対KMTグループ対峙戦となる――ゴスペル公判闘争の折り、私は、結集した○○○○同志などの労働者同志に、何より第一声「我々学生戦線が至らぬため、あのような部分を生み出し、申し訳ありませんでした」と謝罪した。しかし○○同志は、その後の○.○○弾圧の獄中にて〈その謝罪・自己批判への違和感〉について考え抜き、「そうではない。革命的労働戦線こそがもっとしっかりていれば、こんなことは許さなかったのだ。出獄したらあいつ(=私のこと)にぜひそれを言わねば、と考えてきたのだ」と、某A.B.の労働者同志たちに力説していたということであった。それは○○同志が虐殺襲撃を受ける前夜の討論、として、ぜひ私へと伝えて頂いたものであった。

 その後私なりに、この○○同志が遺したこの言葉・思想の意味を考え、それは(○○同志の気概や敢闘精神といった次元のみならず)路線・思想上の根本問題として、――KMTグループを生み出した責任とともに、その正面突破の革命的責務を満身に引き受けて立つ――「労働者階級の革命性」「労働者階級自身の事業」ということを突き出したのだ、と受け止めている。私自身に対しても、彼の同志的全力をもって「そのことを取り違えるなよ」と教えようとしたのだ、と考える。

(2).他方、90年代中期よりKMTらによって、またKMTグループ発生以降さらに継続してきた○○○―日雇全協破壊やいわゆる「映画問題」または「筑豊からの告発」の闘いへの敵対・破壊に対して怒りを燃やして闘っている○○の戦闘的労働者などのその怒りを共有し共に闘おうとするとき、①そうした現実の労働者人民の闘いへの打撃を具体的検証課題として提示せず、②むしろ存在論的に〈学生戦線の主要な責任〉と提示する「自己批判」によって、新たな共通の階級的対峙線を再定立しうるとは考えられない。(※ この点、詳細は後述する)。

(3).

 ……※★一部省略する

(4)・端的に言うならば、仮にもし学生戦線において「学生戦線こそは○○以上に断固たるべし!」を定式化するとすれば、次の瞬間にそれは、「○○以上に断固としている我々学生戦線!」といった新たな、ある種の<前衛主義>を胚胎してしまうのではないか。実際、「73○○」引用文のBX、BYにそった(そうした現実の大衆的階級的攻防とその内在的推進にそった)総括・方針・実践(とその中での相互批判ー自己批判)ということが、「○○○号」の<読み解き>のように、いわば「すり抜けられた総括」となるなら、やはりそれは──まさに、いかに「階級性」を強調しても──どうしても主観的な論理構造に陥らざるを得ないだろう。

★★★★★★ 今回はここまでとします ★★★★★★★