☆コミューン研究☆  労働者自身の事業による解放のために

″労働者自身の事業による解放″を目指す一労働者のブログです

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■■☆コミューン研究☆ №002 『行動委運動と党建設』①はじめに

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 ★改めて、ブログ開設の趣旨★

 ★自称「労働者党」がなぜ後退していくのか★

 先日より覚えたてのsimplogブログ『フクシマ流れ星』を始めて、そこで私の除染労働日記らしきものを記してきました。基本的に現場から現場へ、寮からまた別の寮へ、といった半放浪ペースで生活しています。そうした事情から、資料も時間も足りないものばかりですが、それは「執念」と「労働現場に立っている力」で補おうと考えつつこの「はてなブログ─『☆コミューン研究☆』」をやっとのことで開設したわけでした。

 予め断っておかねばなりませんが、これから記していこうとする私の文章は、おそらくある時は特定の「活動家」たち・評論家たちのことを述べたり、ある時は特定の党派のことを述べたり、その一部の影響力を持つ人々のことを述べたり、ある時は特に新左翼諸党派のことを述べたり、ある時は戦後日本労働運動のことを述べたりするとき、その場合その対象を明確にせずにあえて一般論のように書くかもしれない、ということです。それは、どんな許しがたいと思う人々や党派であってもその問題は二次的問題であり、あくまでも労働者階級にとっての主要な敵はこの日本資本主義とその国家権力である以上、私の文章は出来る限り国家権力の弾圧力に利用されないための「あいまいな言葉」はあえて使って読者の力で読んでもらうしかない場合がある、など考えているからです。また読者の方々には「誰のことか」などの詮索を期待しているのではなく、このブログを参考にして「労働者の団結・労働者自身の党とは、労働者の解放とは」あるいは「マルクス主義とは」の理論と実践を共に議論し深め再確立していく労働者階級の共同作業を進めていくことを期待しているということです。

 さてその上で、■№1☆(とその続き)で、私は予告的に、私が権力の鉄鎖につながれていた過去に(かつての同志たちに向けて)提起したがまったくうやむやに握りつぶされてしまった小論=『行動委員会運動と党建設』の原理的な一部の引用文を紹介しておきました。

 ★なぜこの小論にこだわるのか、なぜこの小論から始めるのか★

 第一に、そのテーマ=「行動委員会…」こそは労働者革命を自任する党の建設にとってあいまいにしてはならないはずの課題である(と確信する)にもかかわらず、それはあいまいにされてきました。このことと〝ひとつのこと〟として「今日に至る、労働者が階級の武器である団結と自らの党を奪われている敗北的状況」が加速されてきたと確信しているし、それを今こそ隠させず欺瞞させず明らかにしていく作業で「労働者自身の団結」「労働者自身の党」という〝最大最強の、階級の武器〟が取り戻されねばならない、と考えているからです。

 第二に、その作業は当然ながら机上のオシャベリや百万言の強がり文句などでなしえるものではありません。マルクスを読むにせよ、階級闘争の歴史を論ずるにせよ、「労働者階級自身の事業」ということを理論的にも実践的にも(つまり弁証法として)根幹で踏み外しておきながら、そうした空虚な自分たちを補う「飾り文句」にして事足りたかのように欺瞞する者たちは、それにどんな理屈を取って付けようと必ず有害な「宗教」または「スターリン主義」とやらへの逆戻りを深めるしかありません。言い換えれば、「自己利害」を美化し補強するためにずるがしこく「ある時期のマルクスの言葉」を借りてきて「正当」か「戦略的優位性」かのように言い抜ける政治屋の理論活動(?)は厳しく批判されねばなりません。あるいは、他の誰か(たち)の思想=闘い方・生き方の〝闘った全体像〟も〝現在的な格闘〟も〝闘いの発展可能性〟もあえて(!)論じず、論じさせず、ただ「政治的意図をもって〝言葉尻〟を取ってみたり、それを〝全体像〟かのように歪めて組織する」政治屋や官僚の汚れた歴史学も厳しく批判されねばなりません。

 ただし、この戒めを現在の私に向けたとき、学習不足に加え、またどうしても〝独りもがき〟のように日常的な相互批判討論の条件に乏しい、きわめて非弁証法的な理論作業の状況では、私自身も常に独善的な論法に堕落する危険がつきまとうと思われます。この点については、可能な限り(聞こえたり聞こえなかったりする)私への正当な批判や「不当な批判」に耳を傾けるしかないし、また闘う労働者たちや「かつての若き同志たち」に〝より正しく〟批判されていくしかないのだと思います。〝より正しく〟と書いたのは、上に述べたようなせせこましい政治屋やそのイエスマンの小官僚の合唱で「批判したつもり」にならず、より正しく階級闘争の事実と現実に立って「批判される」「相互批判していく」ことを期待している、ということです。

 ……回りくどくなりましたが…、そのためにも、理論と実践の方法論にこだわり、労働者の生きた現実と階級闘争の史実については断じて歪曲させてはならない、とこだわって、この小論=「行動委員会…」から始めようとしている、ということです。

 第三の理由は、共に闘った半生の中で、私が、その一貫した実践的姿勢を信頼し学んできた労働者闘士が『彼のブログ』で主要課題にして論じようとして目下奮闘中と聞きますが、その重要テーマに関連します。戦後日本の在日朝鮮人運動(と日朝・朝日連帯運動)・炭鉱労働運動・日雇い労働運動そして今日で言う非正規労働運動などについて、(結局、日本労働運動総体の問題と言えますが)、その勝利的前進から敗北的停滞への明確な”転機”があった、と私は思います。80~90年代の国鉄労働運動解体─総評解体=連合への転換の攻撃、同時に(山谷・釜ヶ崎など)全国「寄せ場」の解体と「寄せ場」日雇い労働運動解体の攻撃、また同時にNPO法をテコにした総翼賛運動化攻撃や労働者派遣法をテコにした総「非正規」化攻撃、その決定的ど真ん中で、映画『やられたらやり返せ』問題=『筑豊からの告発』問題が進行していました。それは(一方の「告発に居直る者たち」と、他方の「『差別者』のレッテル貼りで汚れた政治利害をゴリ押した者たち」とによって)、結局そうしたていたらくによって、一方では東京・山谷の運動の分裂、日雇全協の分裂・壊滅に直結し、もう一方では『筑豊からの告発』にこめられていた炭鉱労働者・日雇い労働者・在日朝鮮人民・部落大衆の闘いの真実が踏み消され(かけ)ていきました。したがって、その両極の汚れた利害にまみれたままの(関連した)諸党派や自称文化人たちは、体制内化したり大衆遊離したり、それぞれに自己崩壊して今日に無力な姿をさらしています。私は、それらを総括する視点としても「行動委員会運動…」の視座は重要だと考えつつ渾身の提起をし、しかしそれが“私の闘い”ごと消され(かけ)ました。そういう意味でこの第三は、第一・第二のテーマの実践的検証・歴史的検証として重要だと考えています。(このテーマは主に上述した労働者闘士の『ブログ』での共同作業にしていきたいと考えています)。

 第四に──主要課題にする気はさらさらないのですが──私(たち)自身に関するデマ(というより粛清というべきか)の背景に関連して、この「行動委員会運動…」の肯定が否定かの分岐・対立(?)の事情は、一定はふれる他なくなりそうだ、と思われます。なぜなら何より黙らせたかった私が口を開けば、その者たちのケチつけ悪口雑言の衝動に否応なく火がつくのは当然のことと思われます。

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 私たちは国家権力に「罪状」を突き付けられ闘っていた時には、まさか「支援者」が「別の罪状」を流布して包囲していたなど、思いも至りませんでした。私たちが鉄鎖・獄壁を辞さず血を流して闘っていた「公判前整理手続き」とはつまりファッショ的な「欠席裁判」のことでした。私たちは正面の国家権力の「欠席裁判」に対決していたその時に、背後の「支援者」から「欠席裁判」の「判決」を受け、また「判決文」はイエスマンたちに染み渡るように流布されていました。出獄を果たして戦場に立った時には「(罪人が?)どのツラ下げてここに来れたのか」といったギロチンのような罵倒さえ(一部ですが)受けました。それが「過去の私」のオワリの始まりでした。

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 地区の事情も戦線の事情も、地区での「行動委員会運動と党建設」の格闘も知らず知らせず、むしろ知ろうともしない(行動委員会運動など口先だけで自らやろうともしない)官僚とイエスマンたちがこの欠席裁判を発案し推進しました。(※※「官僚」はある悪意に満ちています。「イエスマン」はある弱さに埋もれていますがそれは悪意であったり「善意?」であったりです。そのような意味として表現しています)。

 上述『映画問題』を口実に『日雇全協破壊』を推進した他方の責任者である者たちは、一切を「他の誰かのせい」にして、ついに自らの責任に触れることも触れさせることも妨害し通し、(その総括に執着して闘ってきた)上述の労働者闘士や私を追い立てて口封じすることに「成功」したのか。

 私は結局「プロレタリア革命」が必然であるように、その必然の道程として「行動委員会運動…」の労働者の生きた現実の地鳴りが必ず空虚な観念にまみれた官僚たちを包囲して止揚する以外ない、それが歴史法則である、と確信しています。

 ブログも、『行動委員会運動と党建設』の再提起も、その一助となるようにしたいと思っています。

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 今回、以上です。

 次回■■☆コミ研☆№3から、「行動委員会…」について再録・再提起していきます。